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体の前面を大きく切られ、エスは後ろの床に倒れ込んだ。男は、流れるようになめらかな動作で剣の切っ先をそちらに向ける。
エスが真っ直ぐ突き出した剣は、黒衣のフードを破いている。そのため男は、真新しい傷のついた顔をさらすことになった。
魔術師は、倒れたままのエスを見つめた。とどめをさそうか、考えるように。
息を飲むのは主人か、下僕か。
サイモンとランサは、立ち尽くしていた。倒れて動かないエスを、助けることもできず。
もう、嫌だ。
これ以上は、嫌。
私は、考える前に手にしたランタンを投げつけていた。それは男とエスの間にガツリと落ちて、砕けたガラスと中の油をまき散らす。火が燃え広がるのは、あっと言う間だ。
魔術師は黒衣の外套を腕で払って、後ろへ下がりながらに火を避ける。そこにつかつか近づくと、私は男の頬を思いっ切り叩いた。
「もう、いいでしょう!」
我ながら、情けなく震えた声だった。
魔術師の男が、黄褐色の瞳を私に向ける。手には剣。その刃で軽く首をなでるだけで、簡単に命を奪えるはずだ。
でも、どうでもよかった。そんなことは。
すでに一番大切な人を奪われた。これ以上、何を失うのも許せない。
けれども。男は、音もなく私から離れた。
かわりに短剣をひらめかせ、女が足早に近づいてくる。黒衣の魔術師はそれをダンスのようにくるりとつかまえ、外套の中に一緒に包んで消えてしまった。
まばたきの間に、煙のように。
それから、数秒かかった。はっと気づいて、殿下に駆けよる。
「殿下! クライヴ殿下!」
血が流れている。見て解るだけで何か所も、体中に切られた傷がある。椅子の上で頭と肩だけがびっしょりとぬれ、触れた頬はぞっとするほど冷えていた。
息は、ない。
目の前が暗くなり、その場にへたり込む。頭の中がぐらぐらと揺れ、吐き気がした。訳が解らない。体ではないところが引き裂かれるように痛いのに、涙は出ない。
はっはっ、と呼吸が勝手に早くなり、体中がしびれるように苦しかった。
「拷問を受けたな」
悲しみではなく、息苦しさで生理的な涙のにじんだ目を上げる。そこにいるのは、エスだった。切られ、少し血のついた服の上からランサの上着を着せられていた。
「……エス……?」
大丈夫なのかと問うより先に、抜いた剣で殿下と椅子を縛りつけた布を切る。
「フェイス、息を整えろ。ランサ、手伝え」
「どうする」
けわしい顔で問うランサに、足元を示す。床には、ぬれた荒布が落ちていた。
「水で拷問されたらしい。……大きな傷がないなら、間に合うかも」
最後は、消えるような声だった。
殿下を急いで床に下ろして、その横たえた体を前にエスが問う。
「できるな? フェイス」
「やります」
うなずいて、私は教えられるまま殿下の唇に息を吹き込んだ。
あとで知ったが、荒布を使った水の拷問があるそうだ。顔をすっぽりと荒布で隠し、上からばしゃばしゃと水をかける。
水を含むと布はほとんど空気を通さないが、目が粗い荒布は少しだけ呼吸ができた。すぐには死なないが、空気が足りずにずっと苦しい。これは、拷問に都合がいいらしい。
本当に殺されるのではないかと恐怖して、あっさりと秘密を話してしまう者もいる。
それに、ろくに空気が吸えないと人は頭が回らない。弱ったところに甘い言葉をささやいて、だましたりもすると言う。
困るのは加減を間違えて、意図せず殺してしまったりもすることだ。殿下も、そうだったのかも知れない。妙に頑固なところのある人だから、きっと相手は焦れただろう。
私は祈るような気持ちで、唇に触れた。
エスが手の平を下に両手を重ね、殿下の胸を規則的に強く押す。何度か押して手を止めた間に、口から肺腑へ空気を送り込めと教えられていた。
これを続けている途中、ランサがエスを止めて役目を変わった。魔術師に切りつけられた部分から、新しい血がにじみ出していたからだ。浅い傷ではないのかも知れない。
心配が浮かんだのは、ランサと交代してからだった。余裕がなかった。入れかわり休むエスからは、汗がぽたぽたとしたたった。傷に構わず、必死になってくれたのだと思った。
私も、ただ必死に息を送り続けた。できるなら一緒に、自分の命もわけたいと願って。