- 013 -
地下牢の通路から出て、まず向かったのは殿下のところだ。
「先に着がえをしたほうが……」
「ありがとうございます。でも、早く殿下とお目にかかりたいのです」
サイモンの気づかいに、首を振る。
牢を抜け出し、とんでもなく迷惑をかけた。すぐにも謝罪がしたかったし、問いつめたいと言う衝動もあった。エスとエステラ、この二人。二つの名の持つ意味について。
秘密には理由があるかも知れない。私に明かすとも限らない。けれども訳の解らないことを教えて欲しいと、頼むことくらいはしようと思った。
警備に当たっていた兵は、かなり奇妙な顔をした。サイモンたちと一緒にいるのが、私だと気づいて。脱獄囚だ。当然だろう。あっと言う間に数人の兵に取り囲まれた。
兵によると、殿下は居室ではなく執務室にいるとのことだった。サイモンのとりなしで殿下を訪ねる許可はされたが、数人の兵が監視についた。
城の内部を移動する間も、降り注ぐ雨の音がつきまとうように絶えず聞こえる。
あふれるような雨音だけで、溺れてしまいそうだと思った。
エスが執務室の扉を蹴破るように開けたのは、返事がなかったからだった。
戸の隙間から、廊下に明かりがもれていた。中にいるはず。なのに訪いの声に応じない。
剣を生業にする者の、勘なのかも知れなかった。そして、それは正しかった。
よろめいた私を誰かが支え、そのまま後ろへ下げさせた。兵が執務室の中へ駆け込む。
部屋の中には、女がいた。
「エステラ」
その名を口にしたのはエスだ。
サイモンを守るように前に立ち、その場に踏みとどまっていた。こちらに背を向け、つぶやいた声。何かを含んでいるような。
確かに、そうだった。ワイルダー・バーの遺児として、面談に現れたあの女がいた。でも、解らない。どうして彼女が殿下の横で、血にぬれた短剣を手にしているのか。
エステラは――その女は、素直そうな顔でにっこりと笑う。
「ごきげんよう。少し、遅かったけれど」
殿下は椅子に縛りつけられ、首筋をさらして頭をだらりと下げている。赤い髪がぬれたように貼りついて、体中のあらゆる場所から血が流れているのが見えた。
溺れそうな雨音で、部屋の中が満ちていた。
これでは、争う声もかき消されてしまっただろう。クライヴ殿下は、軍学校で訓練を受けた武人でもあった。殺されようとする時に、おとなしくしていたはずがない。
全身の血が一瞬で沸騰したような、それともすべての血を失ったような。勝手に体がガタガタと震え、力が上手く入らない。
殿下はいつも大きな机の向こう側で、立派な椅子に大儀そうに腰かけた。私はいつもその席へ、熱いお茶を運んで置いた。
あれを、幸福と呼ぶのかも知れない。
もう遅い。気づいても。遅い。遅過ぎた。
どうしてなのか、解らなかった。この人は私が殺すはずなのに、勝手に死んだりするはずがない。こんなに愛しく苦しいのに、知らない内にいなくなるなんてある訳がない。
だから……そうか、だから。身に覚えのない罪で拘束された時、私はほっとしていたのか。このまま死罪にでもなれば、私は殿下を殺せない。私が殺さないなら、殿下はずっと生きている。そんな気がして。
短剣を持った女に対し、じりじりと迫っていた兵たちが一気に弾き飛ばされた。壁や書棚にぶつかって、どさどさと床に崩れ落ちる。
何が、といぶかる余裕もなかった。男は真っ黒な外套に頭の先から身を包み、その裾をばさりと払って女のそばへ素早く戻る。
戻ると言っても、元はどこにいたのか解らない。いつからこの部屋にいたのかも、兵たちに何をしたのかも。解るのは、女の仲間に違いないと言うことだけだ。
エスが剣の鞘を左手で押さえ、身を低くして駆け出した。
「お前の石はいくつだ?」
答えが欲しい訳ではないだろう。問いながら、光のように剣を抜いて切りかかる。
「エス!」
「いけません! あれは、魔術師です」
不安げに呼んだサイモンを、ランサが押さえてそう言った。はっとする。魔術師とは、血に汚れた仕事をする者たちだ。
黒衣の男はエスの刃を剣でかわした。肘までの長さしかない片手剣で、まともには打ち合わず剣筋をそらして受け流す。
刃のこすれ合う鈍い音が響く中、エスが真っ直ぐ剣を突き出す。それは黒いフードの中に吸い込まれ、それと同時に、切り上げる男の剣が相対する体を斜めに裂いた。