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ひと目で心奪われてしまった。強烈な憧れのように。魂を満たす信仰のように。
存在さえ知らずにいた死角から、それは素早く襲いかかった。あっと言う間に頭から飲み込まれ、抗えないほどの愛を知る。
しかし、私は殺さなくてはならなかった。生まれて初めて強く愛した、その男を。
「何か用か」
彼は手元の書簡から視線を上げて、「フェイス?」と私の名を呼んで問う。
長く見つめ過ぎていたらしい。
燃えるような赤い髪と琥珀の瞳。恐ろしいほどあざやかで、快活でありながらひねくれた彼の性分にぴったりだ。
返事のかわりに、私は運んできたトレイから熱いティーカップを彼の前に置く。
「ほかにご用はございますか?」
「ない。――いや」
新しい書簡に目を向けた瞬間に顔を曇らせ、彼は自分の言葉を改めた。
「クレメンスを呼べ」
私はその横顔に軽く膝をまげて礼を取ると、叔父を探すために急ぎ足で庭へと向かった。
この城は堅牢であり、複雑であり、そして広い。元が王城と考えれば、当然のことだ。
二年ほど前まで、アイディームと呼ばれる小国がこの土地にあった。現在は大国リシェイドの属領となり、その領土とこの城を任されているのが、クライヴ・リースだ。
リシェイドの王族にのみ許される、リースの姓を持つ現王の息子。そしてあざやかな赤い髪と琥珀の瞳で、私の心を奪った男。
……普通なら、貴族の娘としてこれほどの幸運はちょっとない。ひと目で愛したその相手が、王族なのだ。ほかの縁談を蹴散らして、一族あげての総力戦で結婚を迫る状況だ。
しかし、残念ながら「普通」ではあり得ない。彼への愛を知る前に、彼を殺せと命じられた私には。
靴音の響く長い廊下を何度もまがり、いくつかの階段を使って庭に面した石の回廊に出る。芝に下りて左に向かって庭を横切ると、端にある外階段で石像の庭へ移った。
城下を見守る三体の石像たちをぐるりと回り込んだ先は、隔壁だ。表面をおおい隠してたれ下がる蔦をよければ、壁の中央にアーチ状の出入口が切られてあった。
その先に広がるのは、恐らく、散策のための広大な庭だ。恐らく――と言うのは緑の葉や草がもりもりと茂っているだけで、花のひとつもない状態だからだ。
クライヴ殿下が連れてきた部下の数は、領主としては少なくなかった。しかし王城であった場所を管理するには、どうにも足りない。
それに、人員の大半が兵士だ。庭いじりは不得手だろう。
周囲を見ながらしばらく行くと、のんびりした調子で土を掘り返す音が聞こえた。
ざく……ざく……。と、音のあいまにため息のようなものを何度もまじえて、掘っているのか休んでいるのか解らない。
文官の服装で花壇に屈み、全身が土で汚れてしまっている。クワをにぎる手は不器用そうで、ゆるく編んだ暗い灰色の長髪が線の細い背中にたれていた。
「ごきげんよう、叔父様」
いつまで待ってもこちらに気づかないと知っていたから、棘を隠さず声をかける。叔父は細身の体の全部で震え、見開いた冷たいような薄緑の目をそろそろと私に向けた。
「……やあ、フェイス。良い天気だね。じゃあそろそろ行かないと。話せて良かった」
クワにシャベル、スコップや花の種。それらをぼろぼろと取り落とし、見る間に血の気のなくなった顔で逃げようとする。
これでクライヴ殿下の片腕だと言うから、解らない。
そして同時に私の母方の叔父であり、何より二年前に裏切り者として死んだコーネリアス・ウォルフの実弟だ。
この場にいていい人間ではない。
だから、とてもおどろいた。この城で顔を合わせた時は、お互いに。
裏切り者の弟をあえて側近に据える意味も解らなければ、同じく裏切り者の一族の娘が偽名を使って殿下の小間使いになる意味も解らなかったに違いない。当然だ。
逃げようとする叔父の官服を素早くつかんで、今きた道をぐいぐいと戻る。
「フェイス、フェイス。実はちょっと急用が」
「殿下がお呼びなんですよ」
私よりもずっと大きな体で、しかしとても気弱げに。往生際悪くごにょごにょ言っていた叔父も、このセリフには敵わない。何のご用だろう、と小さくつぶやくだけになった。
はっきりと聞いたわけではなかったが、恐らくあの書簡が理由だと思う。ちらりと見えた羊皮紙の上には、こうあった。
今は亡き我がリシェイドの英傑、ワイルダー・バーに隠し子が現れた、と。