眠り姫
妻が眠って居る。妻は眠り続けて居る。妻は長い夢を独り、見続けて居る。見果てぬ夢、決して覚めることは無い夢を。
妻が眠りに落ちたのは、私達が永久の愛を誓ったその日の夜で在った。数多の星が降り注ぐ美しい夜で在った。月の綺麗なその夜に、妻は二階から飛び降りたのだ。小さな池に反射する満月に、妻の矮躯がぷかりと浮かんで居た。艶やかな黄金色に妻の白い肌と黒く長い髪がうつ伏せに揺れて居たあの光景を私は生涯忘れる事は無い。今でも夢に見るゆらりゆらりと波に揺れる妻は、大層美しかったのだ。
そうして妻はその日から眠って居る。妻は眠り続けて居る。妻がその身を投げてから実に二十年の年月が流れた。所々白髪の混じった髪、皺の刻み込まれた肌、私も随分と年を重ねたものだと思う。しかし妻は如何だ。ベッドの上で横たわる妻は、まるで変わらぬ少女のままなので在る。黒々とした髪も、長い睫毛も、薔薇色の唇も、薄らと桜色の差す頬も。眠り続ける妻の時間は変わらずあの日のままなのだ。ああ、嗚呼、如何しようね。君が目覚めた時、私が君の知らない老爺になって居たなら、君は驚いてしまうだろうか。私が私で在る事を、君は気付いてくれるのであろうか。しかしそれが今日も私の杞憂に終わるという事を、私自身がよく解っているのだ。現代の医療の全てを駆使して妻の目を覚まさせる方法を、少女の時間を動かす方法を探してくれて居る。けれど結果は何時も虚しく、妻は眠って居る。眠り続けて居る。
そんな或る日の事である。私が妻の病室にあしげく通う内の、たった一日の事である。その日は先客が一人居たのだ。妻を見舞う人間など、今となってはもう私の他には居ないというのに。その日は、幼い少女が妻の寝顔をうっとりと見つめて居たのだ。お嬢さん、と声をかけると慌てたように少女は大きな目を更にまあるく見開いた。ごめんなさい、と愛らしい声。ごめんなさいまるでお姫様みたいだったから。悪戯を咎められた時のように少女は縮こまって居る。気にすることはないよと私は言った。気にすることはないんだ、私の妻はずっとずっと眠り続けて居るのだから。すると少女はまたうっとりと妻を見た。素敵、無邪気な声が囁く。素敵、ならきっと本物の眠り姫なのね。
妻と二人きりに戻った病室で、私は妻の形の良い唇を撫でた。少女は妻をお姫様のようだと言った。少女は妻を本物の眠り姫だと言った。嗚呼確かお伽噺の中の眠り姫は、口付けで目を覚ましたのではなかったか。実に永久の愛を誓ったあの日以来初めて、私は妻に口付けた。しかし妻は変わらず眠って居る。変わらず眠り続けて居る。そうしてこれから先も眠り続けるのであろう。私には解って居る。解って居た。妻には私よりずっと若い恋人が居た事も、あの日その恋人に会う為に窓から抜け出そうとした妻が足を滑らせてしまった事も。永久の愛など、本当は空虚な私の独りよがりだったと言う事も。
だから妻は眠り続けるのだ。何年も、何十年も、何百年だって。眠り姫が目を覚ますのは、愛する者の口付けで在ると決まっているのだから。