【警告:甘党専用】オセロ風景おまけ【砂吐き場】
オセロ風景〜坂道と図書室のおまけです。甘党の方だけどうぞ。
「一応、心臓は治ってはいるんだよ……だから、軽い運動くらいなら大丈夫だからね」
「そ、そうですか」
そんな会話を、伊藤菜々は東優としていた。場所は──ファミリーレストラン。
高校時代のひとつ上の学年の先輩であり、菜々の恋人である彼は、いまや大学二年生。
菜々は、陸上部を持つ実業団に、今年入ったところだった。高校を卒業しても、毎日走ることの出来る日々を手に入れた彼女は、そう遠くない大学に通っていた東と、夜によく会っていた。
お互いが会うタイミングとして、夜が最適だったのだ。
「明日は、久しぶりの休みです」
夕飯のファミレスで、ちょっとウキウキしながら菜々がそう言うと、向かいの席の銀縁眼鏡の東先輩が、なくなるほど瞳を細めてこう返事をした。
「そう……じゃあ、今夜は僕の部屋にこない?」
ぶふっ。
口の中に押し込んだ海老ドリアが、爆発したかと思った。口を開けてはいなかったので、最悪の事態にはならなかったが、しばらく口の中は大変だった。
目が点になったまま、とにかくもぐもぐと咀嚼して、水でごくんと流し込む。
「ええと……遅くなると終電が」
「外泊は出来そうにない?」
何という、どドストレートな言葉だろうか。東という男は、言葉がとても綺麗で、そして素直で。付き合い始めてから往々に戸惑わされた。
「出来ないことは……ないですけど」
菜々は、会社が借り上げているアパートの一部屋に住んでいる。門限があるわけでもなく、外泊が禁じられているわけでもない。実業団の選手として、ある程度の規律は求められている程度だ。ただ、明日は会社も、会社の陸上部も休みなので、昼まで寝ていても怒られはしない。
先輩たちは、「今日は飲みに行くぞー」と、部活帰りにそのまま出て行ってしまった。菜々も誘われはしたけれど、まだ未成年であったし、東と会う約束もしていたので断ったのだ。
「伊藤さんは……いや?」
眼鏡の向こうの優しい瞳が、『無理強いはしないよ』と伝えてくれる。
菜々は、いたたまれなかった。
こういう判断をいっそ菜々が出来ないほど、ガバっと東が強引に引っ張ってくれれば、こんな思いはしなくていいのだ。菜々は彼が好きだから、多少の抵抗はするだろうが、最後は流されてしまうだろう。
こんな風に確認を取られてしまうと、納得ずくで彼女が了解するか、東という男を拒むかしなければならなくなる。
「……私の、自意識過剰でしょうか」
もしかしたら、夜通し一緒におしゃべりしたり、楽しく過ごすためだけの、いわゆるパジャマパーティみたいなものを、彼が持ちかけているのだろうか。もしそうなら、菜々のいまの考えは、非常に馬鹿馬鹿しいものになる。
そんな気持ちを、菜々は五文字の漢字に込めてきた。
そうしたら。
東は、高校時代よりも磨かれた男の気配を隠すことなく、ふっと微笑んだ。
あたたかなファミレスのオレンジ色の灯りの下、昔よりももう少しだけ肉のついた、それでもやせた腕を持ち上げ、彼は眼鏡の位置を整える。
「いや……伊藤さんは何ひとつ間違ってないよ」
大学という場所は、男に色香さえ学ばせるのだろうか。きゅうっと、奈々は胸が締め付けられる感覚を、追い払うことが出来なかった。
「あの、その……」
彼女の戸惑う時間を、彼はじっくりと待ってくれる。しかし、視線は離してはくれない。それがまた、菜々をじりじりと追い詰める気がする。
「伊藤さんのマラソンに、悪影響は出したくないから……駄目なら駄目でいいんだよ」
あまりに長いこと、菜々が唸り続けるものだから、東は優しい笑みでそう言ってくれた。
あっ。
先輩の差し伸べた手が、すぅっと引かれそうで、菜々は慌てた。
いつか来ることだと、心の中でどこか考えてはいた。だが、それはあくまでも処女の愚かな空想に過ぎず、どんなシチュエーションであったとしても、現実の彼女は戸惑うしか出来なかっただろう。
嫌ではないのだ。
それどころか、空想と言う観点からいけば、菜々は何度か彼に自分を捧げていた。その空想が、いつか現実になればいいとも、どこか思っていた。
だから。
菜々は、自分の責任で、ちゃんと彼に応えなければならなかったのだ。
流された、ではなく。
「えっと……ふつつかものですが、その……よろしく……です」
日焼けした顔が、煮えるくらいに真っ赤になっている自信がある。
「ありがとう、伊藤さん。精一杯、大事にするよ」
東が、幸せそうにそんなことを言うものだから、頭の温度がまた十度上がってしまった気がしたのだった。
※
コンビニに寄って、ハブラシなどの簡単なお泊りセットを買った後、菜々は初めて東のアパートに入った。
去年までは、菜々が高校生であったことと、高校からここまで多少距離があったせいと、何かにつけて東が菜々のマラソンを見に来てくれたおかげで、訪れる機会はなかったのだ。
1DKの、物の少ないすっきりした部屋だった。いまの菜々の部屋より、綺麗にしてある気がして、ちょっと恥ずかしくなる。給料が出るのが嬉しくて、菜々はついつい色々買ってしまうのだ。
相変わらず図書室の虫のようで、大学のラベルの貼ってあるハードカバーの本が、何冊も机に積んである。
そんな、ほけーっとお部屋見物をする菜々の後ろに、東は立っていた。
おでこに手が回され、軽く後ろに引かれる。すぐに彼の身体に当たった。
「シャンプーの匂いがする」
短い彼女の髪に、吐息があたってびっくりした。心臓と一緒に、ピョンと跳ねそうになる。
「り、陸上部終わったら汗だくなんで、シャワー浴びて帰りますからっ」
髪を撫でられる指の感触に、どきどきしながらも縫い止められる。
部活が終わって、シャワー室で全部お風呂を済ませるのが、菜々の日課だ。置きボディソープに、置きシャンプーとフル装備である。おかげで、アパートの水道代は安いものだ。
しかも、今日は東と会う日だったので、特に入念に洗った。汗臭い自分で会いたくなかったのだ。
勿論、その時下着も替えているので、お泊りセットという意味では、とても楽だった。
「僕も、伊藤さんと会う前にシャワーを浴びて来たよ。今日は、大学で教授の蔵書の片づけをやらされてね。埃まみれになってしまったからね」
自分より、少し低い温度が後ろにある。その感覚に慣れることが出来ず、菜々は身を縮こまらせてしまうだけ。
「怖い?」
「こわ、こわわわくなんかないです!」
『わ』の数が一つで良かったことなんか、この時ばかりは忘れ去り、菜々は言葉を七転八倒させてしまった。そんな彼女に、東は彼女の髪の上に、微かな笑いを落とすのだ。
間抜けな彼女ですみませんと、菜々は恥ずかしさの余り、心の中で彼に詫びてしまった。
「とても可愛いよ、伊藤さん……どうにかなってしまいそうで、うまい言葉が浮かばない」
顎というか頬というか。菜々の頭に、彼が顔を押し付けているのが感触で分かる。
どうにかなってしまいそうなのは、菜々の方だ。マラソンで鍛えているはずの心臓が跳ね回って、どうしようもない有様なのだ。
菜々の頭の中だって、ロクな言葉が浮かばない。ただ、少し淫靡な太宰治の『美少女』や『令嬢アユ』のタイトルだけが、漠然と飛び交っている。
「あ、あのっ、私、その……胸も……お尻もないので、あの……」
けれど、物語の中の女性たちはみな、美しい身体を持っている印象が強い。太宰というフィルターを通して見た勝手な想像なのだが、想像は美化され菜々の脳裏に残っているものだ。
「僕にも、誇れる逞しい身体はない……それでもいいかい?」
なのに東 優という男は、菜々のコンプレックスの上に、自分のそれをかぶせてきた。彼女が、それを拒むはずなどないというのに。
「いいえ……光栄です」
慌てて素直な言葉を口に出したら──東に笑われてしまった。
『終』