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死んだ私の遺影の前で金を数えて笑うクズ家族、百万人の生配信で全員の命を獲りにいきます!

作者: 熾星
掲載日:2026/06/26


プロローグ



 私が死んだ一日目、告別式が終わったばかりだというのに、家では弟のための祝宴が開かれていた。彼は「亡き姉を想う健気な弟」という感謝のキャラクターを売り出し、私の遺影を使って最初の金を稼いだ。


 その席で、母は家族全員でお祝い動画を撮ろうと言った。カメラが一周し、弟は父と母への感謝を語り、父は弟の仕事がうまくいくようにと祝福し、母は家族全員の健康を願った。


 画面が壁に飾られた私の遺影をかすめても、誰も止まらなかった。


 母がスマホを切ろうとした瞬間、私は画面に向かって笑った。


「どうして私には聞かないの? 私はあなたたち一家全員が、来年を迎える前に、ろくな目に遭わないことを願っているよ」


 私は埼玉県川口市にある、古い木造アパートの一室で死んだ。死ぬ直前の最後の息まで、弟が欲しがっていた三十万円の生活費のことを考えていた。


 死後七日目の夜、私の魂は家に戻った。


 そして弟が、私の遺影の前に座り、ライブ配信をしているところを見た。



1.六畳一間で死んだ私


 もう一度目を開けたとき、私はベッドの横に立っていた。下を向くと、ベッドの上には一人の女が横たわっている。顔は青白く、口元には乾いた水の跡が残り、手はスマホを握ったままの形で固まっていた。


 それは、私自身だった。


 私は長いあいだそれを見つめていた。怖くもなかったし、悲しくもなかった。ただ、少しだけぼんやりしていた。


 二十七歳。埼玉県内の電子部品検査工場で働き、手取りは月十八万円。家に十三万円を送り、自分の手元に残る五万円で家賃を払い、ご飯を食べ、生きていた。そんな日々を十年続けた。


 今はもう、続けなくていい。


 死後七日目、私は家へ戻った。


 実家は埼玉県内の古い団地にあった。五階で、エレベーターはない。生前、米や野菜を抱えて階段を上るたびに、いつかお金を貯めて、父と母にエレベーター付きの部屋を借りてあげたいと思っていた。


 けれど、今はもう階段を上らなくていい。


 私は、漂って上がった。



2.遺影の前の投げ銭


 玄関のドアは少し開いていた。中へ漂って入ると、リビングには明かりがついていて、父と母と弟がちゃぶ台を囲んで座っていた。目の前には、下ろしたばかりの現金が広げられている。


 彼らはそれを、一枚一枚数えていた。


 私の遺影はリビングの隅に置かれていた。前に供えられた白い菊は少ししおれ、祭壇には黒ずみかけたリンゴが二つだけ置かれている。遺影の中の私は、数年前に買った色あせた赤いセーターを着て、ぎこちなく笑っていた。


 それは私が持っていた中で、唯一まともに人前へ出せる服だった。正月にしか着なかった。


「この二日間の投げ銭、合計八十三万円。全部下ろしてきた」


 弟の佐倉陽斗はスマホを手に、目を輝かせながら言った。


 母の佐倉久美子が横からのぞき込み、顔中に笑みを浮かべた。


「あの支援基金の話はいつやるの? もっと稼げるって言ってたじゃない」


「焦るなよ。姉さんの部屋を配信用の部屋に改装してからだ。広告も取れるし、物販もできる」


「じゃあ、お姉ちゃんの荷物は?」


「捨てればいいだろ。家に置いておくと縁起悪いし」


 私は彼らの後ろに立ち、自分の遺品がそうやって処理されていくのを聞いていた。


 次の瞬間、胸の奥から怨念が激しく湧き上がった。私と弟の配信ルームのあいだに、何か奇妙なつながりが生まれた。



3.姉が死んで、流量が来た


 父の佐倉正則は、現金の山から目を離せなかった。口元は耳まで裂けそうなほど広がり、彼は大笑いしながら、何度も自分の太ももを叩いた。


「こんなに現金を見たのは初めてだな」


 母は口元を押さえ、笑いを止められないでいた。興奮で指先がかすかに震えている。彼女はあの金の山を、これから一家に訪れる安定した暮らしそのもののように見つめていた。


 弟は上半身を仰け反らせて笑い、もう少しで後ろに倒れそうだった。彼は私の遺影をちらりと見て、軽い調子で言った。


「儲かったな。本当に儲かった。いい日々はこれからだよ。姉さんが死んだおかげで、こんなに流量が来たんだから。生きてたころに稼いでたはした金なんて、俺の限定スニーカー一足分にもならないし」


 三人は一緒になって笑った。


 私は彼らの後ろに漂いながら、現金の山を見た。三つの笑顔を見た。それから、遺影の前に置かれた黒ずみかけたリンゴを見た。


 笑いたかった。


 けれど、笑えなかった。今の私は幽霊だ。もう笑う機能なんて、残っていないのかもしれない。



4.私の部屋は配信部屋になった


 母がふと思い出したように、廊下の突き当たりにある小さな部屋を指差した。


「陽斗。お姉ちゃんの部屋、いつ使うの? 配信用の部屋にしたらどう?」


「この二、三日でやるよ。荷物を捨てればいいだけだろ。邪魔だし」


 陽斗は顔も上げずに答えた。


 私は生前の自分の荷物を見下ろした。紙箱いっぱいの本、高校の教科書、数冊の古い雑誌、ページの端が毛羽立った小説。それからベッドの下には、十年分の振込控えが束になって残っていた。


 一枚一枚、私は全部取っておいた。どうして取っておいたのか、自分でもわからない。たぶん、ただの癖だった。


「じゃあ、写真は?」


 母が壁に掛かった家族写真を指差した。それは十年前に撮ったものだった。私はまだ高校生で、遺影の中よりもずっと自然に笑っていた。


 あのころの私は、いつか自分も学校に行けると思っていた。いつかこの家を出られると思っていた。


「しまっておけばいいだろ。家に飾ってあると怖いし」


 陽斗は一度も見なかった。


 私はようやく笑った。嬉しくて笑ったのではない。死にきったあと、すべてをはっきり見てしまった人間だけが浮かべる笑みだった。



5.私はコメント欄から帰ってきた


 私は弟の後ろへ漂い、彼のスマホ画面に映る追悼記事を見つめた。記事のタイトルの下には、私の名前がはっきりと載っていた。


 佐倉念。


 私は死んだ。けれど私の名前は、消費され、感動に加工され、金を稼ぐための看板にされていた。胸の奥から怨念が激しく揺れ動き、心臓のあった場所から外へ噴き出していく。


 その力に包まれた私は、自分でも止められないまま、スマホの画面の中へ吸い込まれていった。


 陽斗のスマホが突然、白くちらついた。画面がほんの一瞬だけ真っ黒になる。彼は眉をひそめ、スマホを持ち上げた。


「何だよ、これ」


 母が何気なく言った。


「充電が切れかけてるんじゃない?」


 陽斗はスマホを再起動した。画面はすぐに明るくなり、すべては元通りになった。


 けれど彼は気づかなかった。その追悼記事の一番下、コメント欄に奇妙な書き込みが一つ増えていたことに。


「帰ってきた」


 そのコメントは投稿されてから三秒後、自動的に消えた。


 けれど私は知っている。何人かは、確かに見た。


 スマホを握りしめ、記事を読んで泣いていた見知らぬ人たちが、同じ瞬間にぼんやりとした。彼らの目の前に、一瞬だけ画面がよぎったのだ。電子部品の検査ラインで休むことなく動く両手。深夜の木造アパートで、水だけを飲みながらおにぎりをかじる女。スマホに並ぶ、終わりのない催促のメッセージ。


 あまりにも速く、それは幻覚のようだった。


 けれど私は、あの記事を読んだすべての人に、私を覚えさせるつもりだった。



6.亡き姉を想う弟、ネットで大人気になる


 佐倉陽斗は有名になった。本人ですら予想していなかったほどの勢いで、わずか一週間でフォロワーは百万人を突破した。


 「亡き姉を想う弟」という言葉は、完全にバズるための合言葉になっていた。インフルエンサー事務所が契約書を抱えて訪ねてきて、契約金は一千万円だった。


 配信ルームは毎日、白黒の追悼モードに設定された。売られる商品は、セール時よりも速く売れていく。


 陽斗はカメラの前で、目元を赤くして語った。


「このマッサージ機は、姉が生前ずっと欲しがっていたものです。でも、姉は自分のためには何一つ買えない人でした。毎日工場で十時間以上立ちっぱなしで、腰も首も悪かった。姉はもういません。だから僕が代わりに試してみたいんです。本当に良いものなら、何台か買って、姉のように頑張って働く女性たちに寄付したいと思います」


 コメントは飛ぶように流れた。


「泣いた。こんな姉弟愛ある?」


「陽斗くん、本当に優しい」


「買う。絶対買う」


「お姉さん、天国で誇りに思ってるよ」


「こういう家族愛、ほんと無理。泣く」


 陽斗はうつむき、涙を拭うふりをした。実際には、スマホのカンペを見ていただけだった。


 そこにはこう書かれていた。


 次の一文。五秒間、声を詰まらせる。その後、リンクを案内。


 私は彼の背後に漂いながら、それを見ていた。



7.人々は私を見始めた


 私は自分の力が強くなっていることに気づいた。弟が書いた追悼記事は、何十万回も拡散されていた。拡散されるたびに、見えない糸が私と読者たちを結びつけていく。


 私は彼らの感情を感じることができた。感動、同情、悲しみ、尊敬。すべての感情が、丁寧に作り上げられた一つの虚像へ向かっていた。


 感謝を忘れない弟。


 吐き気がした。けれど、私は声を出せなかった。姿を見せることもできなかった。何かを壊すこともできなかった。


 ただ、感じることだけができた。


 地下鉄の中で記事を読んでいた会社員のスマホが、ふいにちらついた。彼女が瞬きをすると、目の前に一瞬だけ画面がよぎった。私は電子部品の検査ラインの前に立ち、機械のように同じ動作を繰り返していた。顔には何の表情もない。ただ、麻痺したような目だけがあった。


 画面はすぐに消えた。彼女は、自分の目が疲れているのだと思った。


 深夜にスマホを見ていた大学生は、コメント欄で誰かが怪談めいた話をしているのを見て、「迷信だろ」と返信しようとした。その瞬間、目の前が暗くなった。


 彼は、金を数える両手を見た。古びた振込控えを一枚一枚めくる手を見た。それは十年分、びっしりと積み重なっていた。


 画面が消えたあと、彼はなぜか泣いていた。理由はわからなかった。


 同じように家族に搾取されている長女が、記事を読みながら涙を流していた。彼女が陽斗へ投げ銭しようとした瞬間、耳元で誰かがそっと言った。


「嘘だよ」


 彼女は勢いよく顔を上げた。


 部屋には、誰もいなかった。



8.不気味な追悼記事


 そうした異変は、少しずつコメント欄に現れ始めた。


「なんか変なもの見えたんだけど」


「この記事、ちょっと怖くない?」


「さっき一瞬、お姉さんが工場で残業してる映像が見えた。目が本当に空っぽだった」


「何の話? 私は何も見えなかったけど」


 陽斗のチームはすぐにその書き込みを見つけた。運営責任者はパソコンの前に座り、冷静な声でキーボードを叩いていた。


「誰かが火をつけようとしています。競合か、ただの便乗でしょう。コメント操作、削除、ブロック。そのうえで、ポジティブなコメントを何件か流します」


 陽斗は画面を見つめていたが、顔色はあまりよくなかった。


「まさか……本当に幽霊とかじゃないよな?」


 運営責任者は吹き出した。


「幽霊? 佐倉さん、そういうの信じるんですか? いるなら私のところに来てもらいたいですね。幽霊がどんな顔をしているのか、ぜひ見てみたい」


 陽斗は笑わなかった。死後七日目の夜、スマホの画面が一瞬黒くなったことを思い出していた。この数日、背中が冷えるような感覚がずっと続いていることも思い出していた。


 まるで、誰かがずっと見ているようだった。


 運営責任者は彼の肩を叩いた。


「考えすぎです。それより、明日の佐倉念支援基金の発表会、原稿は覚えましたか? ちゃんと泣いてください。泣けば泣くほど、流量は伸びます」


 陽斗はうなずいた。



9.私のお金、使いやすかった?


 その夜、陽斗は夢を見た。


 夢の中で、私は工場のラインの前に立っていた。洗い古された赤いセーターを着て、彼に背中を向けている。


「姉さん?」


 私は振り返らなかった。


「姉さん、紙のお金、燃やしたんだ。届いた?」


 私はゆっくりと振り返った。顔には何の表情もない。けれど目の奥では、何かが燃えているようだった。


「佐倉陽斗。私のお金、使いやすかった?」


 陽斗は夢から飛び起きた。背中は冷や汗でびっしょり濡れていた。


 枕元のスマホ画面が光っている。寝る前に投稿した自分の近況だった。


 明日は発表会です。姉さん、もし天国で見ているなら、僕を見守ってください。


 コメント欄の一番上に、午前三時四十七分に投稿された書き込みがあった。


「うん」


 陽斗はその一文字を見つめ、スマホを落としそうになった。震える指でアカウントを開く。中身は空だった。作られたばかりのアカウントで、アイコンも自己紹介も投稿履歴もない。


 彼はスクリーンショットを撮り、運営責任者へ送った。


 相手はすぐに返信した。


「サクラでしょう。明日調べます。早く寝てください。自分で自分を怖がらせないように」


 陽斗は眠れなかった。部屋の明かりをつけ、テレビをつけ、音量を最大にした。


 けれど、見られている感覚は、さらに強くなった。


 私は彼に悪夢を見せ続けるつもりだった。


 眠れない夜の味を、彼にも味わわせるために。



10.佐倉念支援基金発表会


 佐倉念支援基金の発表会は、私が生前働いていた電子部品工場の前で行われることになった。場所選びは運営チームが念入りに計算したものだった。


 リアルで、素朴で、庶民的で、泣かせる要素がある。工場前のくすんだコンクリートの道は、姉が毎日ここから苦しい生活へ歩いていったという疲れた雰囲気を撮るのにちょうどよかった。


 配信当日、同時視聴者数は一気に百万人を超えた。


 陽斗は白いシャツを着て、胸に白い花をつけ、簡易ステージの上に立っていた。背後には工場の建物があり、機械の稼働音が低く響いている。演出された空気は、限界まで高められていた。


 彼はカメラに向かって深く頭を下げた。声はかすかに震えている。


「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。そして、僕と姉を応援してくださったすべての皆様に、心から感謝しています……」


 コメント欄には同情の言葉があふれた。


「陽斗くん、痩せたね」


「お姉さん、見てるよ」


「こんな弟、本当に貴重だよ」


 私は空中に漂いながら、彼の芝居を見ていた。


 弟は昔から演技がうまかった。子どものころにお金を盗んだとき、彼は私が学級費を払うために必要だったのだと言った。殴られたのは私だった。


 恋愛沙汰で教師に親を呼ばれたとき、彼は私に頼まれてプレゼントを買ったのだと言った。叱られたのは私だった。


 受験に落ちたとき、彼は私のせいで勉強に集中できなかったのだと言った。


 そして今、彼はステージの上に立ち、私の死で金を稼いでいる。堂々と、感動的に、正しいことのように。



11.プロンプターが黒くなった


 陽斗は手元のカードに目を落とした。


「この基金は、姉の名前を冠したものです。佐倉念支援基金は、姉のように……姉のように……」


 彼は突然、言葉に詰まった。


 プロンプターの画面が真っ黒になっていた。


「姉のように……」


 彼はその言葉を繰り返し、額に汗を浮かべた。スタッフたちがステージ下で慌てて機材を再起動しようとしている。


 その数秒の沈黙の中、配信画面がふいにちらついた。


 コメント欄の流れが変わり始めた。


「今、何か見えた?」


「どこ? 何も見えないけど」


「画面止まった?」


「止まってないよ。コメント流れてるし」


「なんか別の映像が見えるんだけど」


「上の人、それって工場のラインで残業してる女の子?」


 陽斗は顔を上げ、続きを話そうとした。けれど、一文字も声が出なかった。


 彼にも見えていたのだ。


 彼の目の前の空中に、いくつもの映像が浮かび上がっていた。ほかの誰かに見せるためではなく、彼自身に見せるための映像だった。



12.すべての人が見た


 私は彼の正面に漂い、初めて自分から彼に姿を見せた。


 最初の映像。


 十年前、私は家の玄関に立っていた。手には学校の合格通知を握っている。私はとても嬉しそうに笑っていた。


 母はそれを奪い取り、その場で二つに破いた。


「何が進学よ。陽斗は塾に行かなきゃいけないの。あんたに学校へ行かせるお金なんて、どこにあるの?」


 二つ目の映像。


 八年前、私は電子部品の検査ラインの前に立っていた。機械で手を切り、血が指のあいだから滴っている。私はティッシュで傷口を押さえ、そのまま作業を続けた。


 スマホが鳴った。弟からのメッセージだった。


「姉さん、新しいスニーカーが欲しい。十二万円。買って」


 三つ目の映像。


 五年前、深夜。私は六畳一間の木造アパートで、コンビニの値引きおにぎりを食べていた。白湯で流し込むように飲み込んでいる。


 スマホには弟の投稿が映っていた。新しく買ったパソコンの写真。添えられた文章はこうだった。


 姉さんに感謝。世界一いい人。


 四つ目の映像。


 死ぬ前の夜。私は胸を押さえ、顔を青くしていた。


 スマホの画面には、弟から届いた最後のメッセージが光っていた。


「姉さん、生活費あと十五万円送って。新しいグラボに替えたい」


 五つ目の映像。


 告別式が終わった夜。三人はちゃぶ台を囲み、下ろしてきた現金を数えていた。その後ろには、ひっそりと置かれた私の遺影があった。


 すべての映像が配信に映った。


 すべての映像を、百万人以上の視聴者が見た。



13.配信ルームが爆発した


 コメント欄は狂ったように流れた。


「これ本当なの?」


「母親、合格通知破いたの?」


「一日十時間以上働いて弟を養って、自分は値引きおにぎり?」


「死ぬ直前まで金を催促されてたの?」


「遺影の前で金を数えるとか、人間のやること?」


 陽斗はよろめき、背後の花籠を倒した。彼は叫んだ。


「違う! これは嘘だ! 誰かが俺を陥れてる! 誰かが俺を潰そうとしてるんだ!」


 けれど、誰も彼の言葉を聞かなかった。映像はまだ終わっていなかったからだ。


 最後の映像は、一対の手で止まった。その手は荒れ、関節は変形し、手のひらは硬いまめだらけだった。


 その手が、黄ばんだ振込控えの束をめくっていく。


 どの紙にも、同じ名前が書かれていた。


 佐倉陽斗、生活費。佐倉陽斗、学費。佐倉陽斗、新しいスマホ。佐倉陽斗、家賃。


 手の持ち主が顔を上げた。


 それは私だった。


 私はカメラに向かって、数文字だけ言った。


「見えた?」



14.私は十年、あなたを見逃してきた


 配信は完全に崩壊した。コメントは内容が読めないほどの速度で流れ、サーバーはそのまま落ちた。


 陽斗はステージの上に膝をつき、全身を震わせながら虚空へ向かって叫んだ。


「姉さん、俺が悪かった! 姉さん、許してくれ――」


 空中から、軽い声が落ちた。彼にだけ聞こえる声だった。


「私は十年、あなたを見逃してきたよ」


 そのあと、何もなくなった。


 画面は元に戻り、配信は中断された。会場は混乱に包まれたが、ネット上ではすでにすべてが爆発していた。


 トレンド一位。#佐倉念還魂


 トレンド二位。#佐倉陽斗は最低


 トレンド三位。#遺影の前で金を数える家族


 トレンド四位。#破られた合格通知


 トレンド五位。#吸血鬼弟


 陽斗がスタッフに引きずられるようにステージから下ろされたとき、彼のスマホは鳴り続けていた。インフルエンサー事務所、広告主、提携先。すべてが契約解除の連絡だった。



15.姉は彼に祭壇へ供えられた


 佐倉陽斗は一夜でネット中の敵になった。三日間トレンドに名前が残り、関連投稿の閲覧数は五十億を超えた。どのプラットフォームでも、その話題で持ちきりだった。


 誰かが彼の過去の配信切り抜きを掘り返した。そこには、彼が姉について語るたびに、悲しみではなく計算の色を浮かべている姿が映っていた。


 別の誰かは、彼の昔の投稿を見つけた。


 今日も姉さんから金が来た。最高。


 また別の誰かは、彼がここ数年で買ったパソコン、カメラ、限定スニーカー、車を調べ上げた。どれも、私の死を利用して流量を得たあとに買ったものだった。


 最も鋭いコメントには、三百万のいいねがついた。


「姉は十年かけて彼を養った。彼は姉を祭壇に供えて金を稼いだ」


 私は自分の部屋に漂い、スマホ画面にあふれる罵声を見ていた。


 笑いたい気もした。けれど、何もおかしくなかった。


 彼を罵る人々は、本当に私のために怒っているのだろうか。それとも、ただ正義という名前の祭りを楽しんでいるだけなのだろうか。


 もう、どちらでもよかった。


 大事なのは、真実が見られたということだった。



16.誰かがようやく私の名前を呼んだ


「念さん?」


 スマホの中から声が聞こえた。


 私が画面をのぞき込むと、小林明里が映っていた。彼女は生前の私にとって、たった一人の友人だった。工場の同僚で、いつも私のロッカーにコンビニのおにぎりや小さなお菓子をこっそり入れてくれた。


 彼女は決まって、買いすぎて食べきれないだけだと言っていた。


 小林明里は配信をしていた。カメラの前で目を赤くしていたが、声はしっかりしていた。


「私は小林明里です。佐倉念さんの、生前の友人です。今日ここに立ったのは、話題に便乗したいからではありません。私が知っていることを、少しだけ話したいからです」


 コメント欄が一気に流れ始めた。


 明里は深く息を吸い、続けた。


「念さんは、前に私に言ったことがあります。彼女の一番の願いは、弟さんに家を買ってあげることでも、家族にいい暮らしをさせることでもありませんでした。いつかお金を貯めて、夜間学校に通って、何かを学びたいと言っていました」


 明里の声が、少し詰まった。


「彼女は言っていました。いつか、陽斗くんのお姉さんではなく、佐倉念と呼ばれたいって」


 明里は涙をこらえながら続けた。


「念さんは弟さんを十年支えました。でも、自分には新しい本一冊すら買えませんでした。弟さんが投稿した近況を、彼女は全部保存していました。あるとき私に見せてくれたので、どうして保存しているのか聞いたことがあります。彼女は、弟が楽しそうなら私も嬉しい、と言いました」


 そこで彼女は、涙を拭った。


「彼女は十年間、自分に嘘をつき続けたんです。念さんが亡くなった日、私にメッセージを送ってくれていました。でも、私は気づきませんでした。気づいたときには、彼女はもういませんでした。メッセージは一文だけでした」


 明里、今日ちょっと胸が痛い。疲れてるだけだと思う。大丈夫。


 コメント欄は数秒だけ沈黙し、その後、狂ったように流れた。


「泣いた」


「これが本当の話なんだ」


「弟、許せない」


「佐倉念さん、見えてる? あなたを覚えてる人がいるよ」



17.私はいる


 私はスマホ画面を、長いあいだ見つめていた。自分が明里にそのメッセージを送ったことは覚えていない。けれど、あの夜の痛みは覚えている。


 身体の痛みだけではなかった。心のどこかが長いあいだ空っぽで、その空洞がついに耐えきれなくなったような痛みだった。


「ありがとう」


 私は小さく言った。


 明里の配信画面がふいにちらついた。彼女は一瞬固まり、カメラを見つめた。


 画面のコメント欄に、ひとつだけ書き込みが増えていた。


 空白のアイコン。空白のID。


 ただ一文字。


「明」


 小林明里の目から、涙が一気にあふれた。


 彼女には、それが誰なのか分かった。



18.彼らは鼠穴へ逃げ込んだ


 佐倉陽斗は三日間、身を隠した。スマホの電源を入れることも、外へ出ることもできず、カーテンをきっちり閉め切っていた。


 出前を頼むことさえ怖がり、数箱のカップ麺だけで生きていた。父と母も一緒に隠れていた。家の中は鼠穴のように暗く、母は焦って足を踏み鳴らしていた。


「陽斗、何とかしなさいよ! ネットの連中、ひどいことばかり言ってるのよ。私たちを畜生だとか、地獄へ落ちろとか」


 陽斗はカップ麺の容器を床へ叩きつけた。


「俺にどうしろって言うんだよ! 全部あんたたちのせいだろ! あの夜、どうして金なんか数えたんだ。誰かに録られてたんだろ!」


 父も焦っていた。


「録るって何だよ。あれは家の中だぞ。誰が録れるんだ」


 陽斗は頭を抱えて部屋の隅にしゃがみ込み、震える声で言った。


「幽霊なら録れるんだよ……本当にいるんだ……姉さんが戻ってきたんだ……」


 父は机を強く叩いた。


「馬鹿なことを言うな! 幽霊だの何だの。誰かが俺たちを陥れてるだけだ!」



19.二千万円の違約金


 スマホが突然鳴った。陽斗は条件反射で肩を跳ねさせた。


 画面には、インフルエンサー事務所の法務担当と表示されている。彼は三秒ほどためらってから、電話に出た。


 電話の向こうの声は冷たかった。


「佐倉様、正式にご通知いたします。お客様の個人イメージが著しく損なわれ、弊社に重大な商業損失を与えたため、契約を解除いたします。違約責任についても追及いたしますので、弁護士からの通知をご確認ください」


「待って――」


 電話は切れた。


 続いて二本目、三本目、四本目の電話が鳴った。すべての提携先が契約を解除し、すべての契約が損害賠償を求めてきた。


 違約金の合計は、二千万円だった。


 陽斗はスマホを握りしめたまま、手を震わせていた。


 母が近づいてきて、声を変えた。


「いくらなの?」


「二千万円……」


 母はその場にへたり込んだ。


「うちのどこにそんなお金があるのよ」


 陽斗はうわ言のように言った。


「部屋も、車も、売らなきゃならない。姉さんの基金の金は使えない。あれに手をつけたら詐欺になる」


 父も慌てた。


「じゃあ、どうするんだ」


 陽斗は顔を上げた。目に、陰湿な光が浮かんでいた。


「姉さんだ。姉さんが俺たちを害してる。死んだくせに、まだいるんだ」



20.私は証言できる


 母が震えながら聞いた。


「じゃあ……どうするの?」


 陽斗はゆっくりと立ち上がり、窓の前へ行った。カーテンの隙間を少し開けて外を見る。


 階下には、カメラを担いだ人間が何人も張り込んでいた。


「向こうが遊ぶ気なら、とことんやってやる。メディアに出る。誰かが俺を陥れたって言う。あの映像はAI合成だって言うんだ。姉さんは生前、ちゃんと幸せに暮らしていた。家族は仲がよかった。全部ネット民の作り話だって」


「そんなので通るの?」


 陽斗は歯を食いしばった。


「俺が認めなければ、あいつらに何ができる? 幽霊が証言でもするのかよ」


 彼の言葉が落ちた瞬間、カーテンがひとりでに閉まった。


 三人は同時に固まった。


 部屋の中は、死んだように静まり返った。


 次の瞬間、テレビが勝手についた。画面には私の写真が映っていた。洗い古された赤いセーターを着た私は、カメラに向かって笑っている。


 画面の下に、一行の文字がゆっくりと浮かび上がった。


 できるよ。


 テレビは自動的に消えた。


 母は悲鳴を上げ、そのまま気を失った。父は足から力が抜け、壁に手をつかなければ立っていられなかった。


 陽斗は暗くなったテレビ画面を見つめたまま、一言も発せなかった。背中の汗は、すでに服を濡らしていた。



21.彼はそれでも釈明した


 佐倉陽斗は、それでも釈明文を投稿した。


 長々とした文章に、弁護士名義の通知書と、いわゆる証拠画像を添えていた。核心はただ一つだった。


 すべての怪異映像は、競合による悪質な捏造です。佐倉念は生前、家族と円満に暮らしており、幸せでした。私は深刻なネット上の誹謗中傷を受けており、すでに警察に相談しています。虚偽の情報を拡散した人物には、法的措置を取ります。


 投稿から一時間で、コメントは十万件を超えた。


「私たちの目が節穴だと思ってる?」


「AI合成? じゃあ遺影の前で金を数えてた映像はどう説明するの?」


「警察? 幽霊を逮捕するの?」


「佐倉念が本当に幸せだったなら、支援基金なんか作ってイメージ回復する必要あった?」


 けれど、中には揺らぐ人もいた。


「本当にAIだったりしない? 今の技術すごいし」


「さすがに幽霊はないでしょ」


「競合が流量のためにやった可能性もあるよね」


 世論は少しずつ割れ始めた。



22.彼は水を濁すのが一番うまい


 私は空中に漂いながら、それを見ていた。


 弟は昔からこれがうまかった。水を濁し、自分だけを岸へ引き上げる。


 子どものころにお金を盗んだときは、友達にそそのかされたと言った。試験でカンニングしたときは、教師の問題の出し方が悪いと言った。そして今、私が搾り尽くされて死んだことさえ、誰かが彼を陥れたのだと言っている。


 いつも他人のせいだった。


 彼には、責任など一度もなかった。


「佐倉陽斗」


 私は彼の名を呼んだ。


 彼には聞こえない。


 でも、急ぐ必要はなかった。


 彼が見ることになるものは、あの映像だけではなかったからだ。



23.返事のないメッセージ履歴


 翌日、新しい動画がネット上で拡散された。


 それは、私が生前に弟へ送ったメッセージのスクリーンショットだった。送ったすべてのメッセージが、一つずつ画面を流れていく。


 陽斗、生活費を送ったよ。足りる?


 陽斗、学校が始まるね。学費、何とか用意したから、安心して勉強して。


 陽斗、寒くなってきたから、ダウンジャケットを買いなさい。あとでお金を送るね。


 陽斗、卒業おめでとう。少しだけお金を貯めたから、プレゼントを買ってあげる。何が欲しい?


 陽斗、正月は帰ってくる? 母さんが会いたがってるよ。交通費は私が出すから。


 陽斗、最近どう? 今月の給料が出たから、五万円送るね。


 陽斗、今日はちょっと胸が痛い。大丈夫。疲れてるだけだと思う。


 どのメッセージにも、返事はなかった。


 弟の返信欄には、いつも送金受取の通知だけが残っていた。


 最後の一文は、こうだった。


 陽斗、姉さんはもう寝るね。おやすみ。


 その夜、私は二度と目覚めなかった。



24.メッセージ、届いてた?


 コメント欄は完全に制御不能になった。


「一度も返事してないの?」


「十年で千件以上送ってるのに、一回も?」


「送金だけ自動受取で、メッセージは既読無視。何なの、この弟」


「お姉さん、死ぬまで弟にメッセージ送ってたんだよ。なのに弟は金だけ待ってた」


 陽斗はそのスクリーンショットを見つめ、全身を震わせた。彼はうわ言のように呟いた。


「ありえない……この履歴は、俺と姉さんしか見られないはずだ……姉さんのスマホは、もう……もう……」


 彼はそこで言葉を止めた。


 私のスマホは、死後二日目に彼が持ち去った。初期化し、中古ショップへ売り、八千円に替えた。


 そのメッセージ履歴が消されるのを、彼は自分の目で見ていた。残っているはずがなかった。ネットに流れるはずがなかった。


 母の声が背後から聞こえた。泣き声が混じっていた。


「陽斗、お父さんが……お父さんが倒れたの……」


 陽斗は振り返らなかった。彼はスマホ画面を見つめ、最上位に固定されたコメントを読んでいた。


 佐倉陽斗、あなたのお姉さんが聞いてるよ。メッセージ、届いてた?


 彼は勢いよく振り返った。


 部屋には誰もいなかった。


 けれど壁には、いつの間にか一枚の写真が掛けられていた。私の遺影だった。祭壇のそばに置かれていたはずで、すでにしまわれていたはずのものだった。


 黒白写真の中の私は、彼を見ていた。


 口元には、ほんの少し笑みが浮かんでいるように見えた。



25.病院の廊下の突き当たり


 父は入院した。脳出血だった。集中治療室のベッドに横たわり、一日に十数万円が飛んでいった。


 母は病室のそばで付き添っていた。髪は半分ほど白くなり、身体は見る影もなく痩せていた。彼女は震えながら言った。


「陽斗、お金が……もう足りないの……病院からまた催促されて……」


 陽斗は廊下のプラスチック椅子に座り、両手で顔を覆っていた。


「ない。もう何もない」


 部屋は売った。車も売った。基金の口座は凍結された。インフルエンサー事務所への違約金も、まだ払い終わっていない。


 ネット上の罵声は日に日に増えていた。外へ出れば空き缶を投げられ、家のドアには罵倒を書いた紙がびっしり貼られた。鍵穴には赤い塗料を流し込まれ、近所の住民たちは連名で退去を求めてきた。


 母は泣き出した。


「じゃあ、どうするの? お父さんはどうするの? 私たちはどうなるの?」


 陽斗は何も言わなかった。


 彼は顔を上げ、廊下の突き当たりを見た。


 私はそこに立っていた。洗い古された赤いセーターを着て、髪は少し乱れ、顔には何の表情もなかった。


 ただ静かに、彼を見ていた。



26.私はあなたに幸せでいてほしかった


「姉さん……」


 彼は小さく呼んだ。


 母は彼の視線を追ったが、何も見えなかった。


「陽斗? 何を見ているの?」


「いるんだ」


 陽斗は立ち上がり、私の方へ歩いてきた。


「姉さん、来てくれたんだ」


 母が慌てて追いかけてきた。声が変わっている。


「陽斗! お母さんを怖がらせないで!」


 陽斗は廊下の突き当たりまで来て、立ち止まった。そこには何もなかった。ただ白い壁があるだけだった。


 彼は手を伸ばし、その壁に触れた。


 壁は冷たかった。


「姉さん。俺のこと、恨んでるんだろ?」


 返事はなかった。


 彼の声は震え始めた。


「分かってるよ。恨んでるよな。でも姉さん、俺だって仕方なかったんだ。父さんも母さんも、小さいころから言ってた。陽斗は家の希望だって。将来、この家を背負うんだって。姉さんは姉なんだから、少し我慢してくれって。それって、当たり前のことじゃないのか?」


 まだ、沈黙だけがあった。


 彼はゆっくりと床に座り込んだ。


「俺が欲深いことも、怠け者なことも、良心がないことも認めるよ。でも姉さん、俺を支えていたとき、姉さんだって俺に幸せになってほしかったんじゃないのか?」


 壁に、ふいに一行の文字が浮かび上がった。


 血ではなかった。塗料でもなかった。まるで壁そのものが言葉を語っているようだった。


 私はあなたに幸せでいてほしかった。でも、私の死を食い物にしていいなんて、一度も言っていない。


 陽斗はその文字を見つめ、目を大きく見開いた。


「姉さん、俺……」


 文字はゆっくりと消えた。


 代わりに、別の映像が浮かび上がった。



27.彼はようやく、私が彼を愛していたことを思い出した


 それは、彼が幼いころの映像だった。


 六、七歳くらいの陽斗が転び、膝を擦りむいて大声で泣いている。十二、三歳だった私は走っていき、彼の前にしゃがみ込んだ。傷口にそっと息を吹きかける。


「泣かないで。大丈夫。姉さんがいるから」


 陽斗はその出来事を覚えていた。


 けれど、それ以外のたくさんのことを、彼は忘れていた。


 映像は続いた。


 私は長いあいだ貯めていた小遣いで、彼に一本のキャンディを買った。彼はそれを受け取り、ひと口舐めて笑った。私は彼の笑顔を見て、自分も笑った。


 笑っているうちに、目が赤くなった。


「姉さん、どうして泣いてるの?」


「何でもないよ。姉さん、嬉しいだけ」


 画面が変わった。


 十数年後。彼は二十歳、私は二十六歳だった。彼が手を伸ばしてお金を求め、私は振り込む。彼が新しい靴を投稿し、私はいいねを押す。彼が年に一度家へ帰り、私は毎年お年玉を渡す。


 最後に会ったのは、去年の祝日だった。


 私は彼に一杯の麺を作った。卵を二つ入れていた。


「姉さんは食べないの?」


「姉さんはお腹が空いてないから」


 彼は麺を食べ終わると、ソファに座ってスマホを触り始めた。


 私は食器を片づけた。


 本当は、私も卵が二つ入ったその麺を食べたかった。



28.あなた、配信のときみたいに泣くのね


 陽斗はそれらの映像を見て、涙を流した。


 彼はようやく思い出したのだ。姉は一度も、彼を愛しているとは言わなかった。けれど、彼女がした一つ一つのことは、すべて愛だった。


 そして彼は十年かけて、その姉を搾り尽くした。


「姉さん……ごめん……ごめんなさい……」


 彼は床に膝をつき、額を壁につけた。


 壁に、再び文字が浮かび上がった。


 あなた、配信のときみたいに泣くのね。


 陽斗の身体が大きく震えた。


 彼は思い出した。カメラの前で泣いたこと。声を詰まらせたこと。涙ながらに語ったこと。芝居なのか本心なのか、ときどき自分でも分からなくなっていた。


 でも今、彼は知った。


 姉には分かっていたのだ。


 廊下の向こうから、看護師が担架を押して駆けてきた。大声で叫んでいる。


「ご家族の方はいませんか? 三号病室のご家族はいませんか?」


 母の声が遠くから響いた。


「陽斗! 陽斗、早く来て! お父さんが危ないの!」


 陽斗は動かなかった。


 彼は廊下の突き当たりで、その壁に向かって跪いていた。


 壁に、最後の一文がゆっくりと浮かび上がった。


 佐倉陽斗。これからは、自分で自分を養いなさい。


 そして文字は消えた。


 見られている感覚も、消えた。


 陽斗は長いあいだ呆然とし、ゆっくりと顔を上げた。廊下の突き当たりには誰もいなかった。病院の白すぎる照明だけが、彼一人を照らしていた。


 彼は突然、一つのことを理解した。


 姉は去った。


 本当に去ったのだ。


 彼を一人、この腐った後始末の中に置いて。


「姉さん……」


 彼は呟いた。


 返事はなかった。


 もう二度と、返事はなかった。



29.父の葬儀


 父も死んだ。集中治療室に入ってから七日目、救命は間に合わなかった。


 母は病院の廊下で泣き叫び、声がかれるまで泣いた。陽斗はその横に立っていた。顔には何の表情もなかった。まるで木の人形のようだった。


 葬儀の日、参列者は三人だけだった。陽斗と母、それから葬儀社の職員が一人。読経を頼んだ僧侶でさえ、縁起が悪いと言い、三倍の金額を上乗せしてようやく来た。


 陽斗は遺影の前に座り、線香を上げ、手を合わせ、頭を下げた。その動作を機械のように繰り返した。


 泣きたいと思った。


 けれど、涙は出なかった。


 涙は、病院の廊下の突き当たりにあったあの壁の前で、もうすべて流れ尽くしたようだった。


 母は彼の隣で跪いていた。髪は真っ白になり、二十歳も老け込んだように見えた。


「陽斗……これからは、私たち二人きりね……」


 陽斗は何も言わなかった。


 彼は、姉が死んだ一日目の夜を思い出していた。自分と母が金を数え、父が横で大声で笑っていた。


 今、父はここに横たわっている。


 母は立ち上がれないほど泣いている。


 彼は一つだけ聞きたくなった。


 それだけの価値があったのか。


 けれど彼は聞かなかった。


 答えは分かっていたからだ。


 少しも、なかった。



30.一枚だけ残された遺影


 スマホが鳴った。陽斗が画面を見ると、銀行からの督促メッセージだった。


 住宅ローンの延滞。クレジットカードの延滞。いくつもの消費者金融の返済遅延。合計で二百万円以上。


 彼はスマホをポケットに戻し、紙を燃やし続けた。紙が燃え尽きると、彼は立ち上がった。


「行こう、母さん」


 母は顔を上げ、ぼんやりと聞いた。


「どこへ?」


「家へ」


 あの古い団地五階の部屋は、すでに売られていた。来月には引き渡さなければならない。


 今住んでいるのは、仮に借りた半地下のアパートだった。二十平米で、家賃は月六万円。窓の外は壁に向かっていて、昼間でも明かりをつけなければならない。


 それが、家だった。


 葬儀場を出るとき、陽斗は振り返った。式場の中には、父の遺影だけがぽつんと置かれていた。香炉からはまだ煙が上がっている。


 見送る人もいない。


 泣く人もいない。


 覚えている人もいない。


 ただ一枚の写真だけがある。


 姉と同じだった。


 いや、違う。


 姉の写真は、何百万人もの人に見られた。姉の名前は、何百万人もの人に覚えられた。姉の物語は、何百万人もの人に語られた。


 けれど父の名前は、彼と母以外、誰も知らなかった。


 佐倉陽斗は、ふいに気づいた。


 姉は勝ったのだ。


 生きているあいだ、彼女は何も持っていなかった。死んだあと、ようやくすべての人に見られた。


 そして自分は生きているのに、もう何も残っていなかった。



31.彼は宅配員になった


 三か月後、佐倉陽斗は宅配会社の営業所で働いていた。


 荷物を配って、月給は十八万円。彼に気づく人はいなかった。頭を丸め、マスクをつけ、宅配の制服を着て街を歩く姿は、どこにでもいる配達員と変わらなかった。


 あの騒動は過ぎ去っていた。


 ネットの熱は、長くても三か月だ。今のトレンドには、新しい芸能人の恋愛、新しい社会事件、新しいネットの祭りが並んでいる。


 彼の名前も、ときどき誰かが口にする。けれど、もう大きな波にはならなかった。


 佐倉陽斗という名前は、埋もれていった。


 それでよかった。



32.吸血鬼弟は消えた


 佐倉陽斗は宅配車をマンションの前に停め、荷物を抱えて中へ入った。


 エレベーターの中で、中年の女性二人が話していた。


「ねえ、あの吸血鬼弟って、その後どうなったの?」


「知らないわ。消えたみたいよ」


「当然よ。ああいう人間に、いい終わり方なんてあるわけないもの」


「お姉さんがかわいそうよね。一生弟を支えて、最後に何が残ったのかしら」


「だから言ってるのよ。娘は道具じゃない。ちゃんと一人の人間なのに」


 陽斗はうつむいたまま、エレベーターの数字を見つめていた。


 一、二、三。


 扉が開くと、彼は足早に外へ出た。荷物を受取人に渡し、すぐに背を向けた。



33.母を探しています


 階段を下りる途中で、陽斗はふと足を止めた。


 階段の壁に、一枚の尋ね人の貼り紙があった。写真に写っているのは、彼の母だった。十年前に撮ったもので、そのころの母はまだ老いておらず、髪も白くなく、顔には笑みがあった。


 下にはこう書かれていた。


 母を探しています。


 佐倉久美子、六十五歳。認知障害あり。三日前から行方不明。失踪時の服装は灰色の綿入り上着、黒いズボン。話し方は不明瞭。情報をお持ちの方はご連絡ください。謝礼いたします。


 電話番号は、彼のものだった。


 佐倉陽斗はその貼り紙を長いあいだ見つめた。


 母が行方不明になった日、彼は配達に出ていた。帰ってくると、部屋は空だった。ガスコンロの上には半分ほど粥が残っていて、鍋の底は焦げていた。


 彼は一晩中探した。


 見つからなかった。


 翌日、警察に届けた。警察は気をつけて見ておくと言った。


 三日目、四日目、五日目になっても、何の知らせもなかった。


 彼は毎朝五時に起き、宅配車に乗り、配達をしながら母を探した。夜に戻ると、また警察署へ行って確認した。


 返ってくるのは、いつも首を横に振る動きだけだった。


 彼は尋ね人の貼り紙を、近所中の道に貼った。


 貼りながら、ふと思った。


 十年前、姉が自分を探していたとき、自分は見つかっただろうか。姉が死んだあの日、誰かが彼女を探しただろうか。


 誰も探さなかった。


 スマホの中で、彼女は一通一通メッセージを送っていた。誰からも返事はなかった。彼女はあの六畳一間の木造アパートで、一晩中痛みに耐え、そのまま死んだ。


 そして今、彼は一人で街中を歩き、母を探している。


 三か月探した。


 見つからなかった。


 エレベーターが再び来た。彼は乗らなかった。


 彼は階段の踊り場にしゃがみ込み、頭を抱えて声を上げて泣いた。


 それは本当の涙だった。


 二十八年生きてきて、初めてのことだった。



34.最後の電話


 そのとき、電話が鳴った。


 電話の相手は、母らしき人を見たと言った。


 佐倉陽斗は弾かれたように階段を駆け下りた。いくつもの通りを走り抜けた。急ぎすぎて、赤信号にも気づかなかった。


 次の瞬間、大型トラックが交差点へ突っ込んできた。


 彼の身体は跳ね飛ばされた。


 私は道路脇に立ち、彼が力なく地面に倒れるのを見ていた。口からは血の泡がこぼれ続けている。


 彼が私を見たことは分かっていた。


 彼の目は野次馬たちを越え、まっすぐ私のいる場所を見ていた。


 私はそこに立ち、冷たく彼を見下ろしていた。


 救急車が到着する前に、佐倉陽斗は最後の息を吐いた。


 ようやく、すべてが終わった。



35.鎌倉の海


 私は鎌倉の海辺に漂っていた。


 陽射しはよく、風は軽く、海は透き通った青をしていた。こんな感覚は、本当に久しぶりだった。


 痛くない。


 怨んでいない。


 憎んでいない。


 疲れてもいない。


 ただ、ふわりと漂っているだけだった。


「念さん」


 背後から誰かが私を呼んだ。


 小林明里だった。白いワンピースを着ている。少し痩せていたが、元気そうだった。目は明るかった。


「どうして来たの?」


「見送りに来たの。なんとなく、念さんはもう行くんだって思ったから」


 私は笑った。


 自分が行くべき時なのだと、私にも分かっていた。取り立てるべきものは取り立てた。憎しみは消えた。怨みも散った。


 少しだけ、心残りがあった。


 生きているあいだに、この海を見に来られなかったことだ。


 小林明里は一歩近づき、真剣に私を見た。


「念さん、私はあなたを覚えています。陽斗くんのお姉さんとしてじゃなくて、どこかの家の長女としてでもなくて。佐倉念として。あなたとして」


 私は少し黙った。


 それから笑った。


 本当に、笑った。


「明里、ありがとう」


 小林明里は首を横に振った。


「ありがとうを言うのは、私の方です。人は一生、誰かの道具じゃなくてもいいんだって、あなたが教えてくれたから」


 私は彼女を長いあいだ見つめた。


 そして振り返り、海の方を向いた。



36.佐倉念は受け取った


 陽光が海面に広がり、無数の金色の光に砕けていた。


 私は一歩前へ踏み出した。


 身体が軽くなっていく。


 記憶、痛み、悔しさ、怒り。そうしたものが、一つずつ身体から剥がれていった。


 幼いころのことを思い出した。まだ田舎に住んでいたころ、夏の夕方、私は畦道を走っていた。風は強く、麦は黄金色で、空の端には大きな夕焼けが広がっていた。


 走っている途中で、私はふいに立ち止まり、空を見上げた。


 そのとき思ったのだ。


 大人になったら、遠いところへ行きたい。


 大きな海を見たい。


 大人になっても、それは叶わなかった。


 でも今、私は見ている。


 私は振り返り、最後に小林明里を見た。彼女は泣いていた。けれど、笑ってもいた。


 彼女はスマホを持ち上げ、私のいる方向へ向けた。


「念さん、ネットのみんなが、あなたのためにろうそくを灯してくれています」


 私は近づいて画面を見た。小林明里の配信ルームだった。


 コメントはゆっくり流れていた。


 一つ、一つ。


「佐倉念さん、安らかに」


「来世はいい家に生まれてね」


「あなたはあなたです。誰かのお姉さんじゃない」


「海を見に行ってね」


「私たちは覚えています」


 私は一つずつ読み、最後の一つまで見終えた。


 それから顔を上げた。


「明里、みんなに伝えて」


 小林明里はうなずいた。


「佐倉念は、受け取ったって」


 そして私は振り返り、海へ向かって歩いた。


 陽射しは暖かかった。


 風は軽かった。


 海水が足首を覆い、膝を覆い、腰を覆い、肩を覆っていく。


 小林明里はその場に立ち、ずっとその方向を見つめていた。陽光がすべてを金色に染めるまで。海風が頬の涙を乾かすまで。


 それから彼女は顔を下げ、スマホに向かって言った。


「彼女は、受け取ったそうです」


 コメント欄は数秒だけ沈黙した。


 やがて、誰かが書き込んだ。


「おやすみなさい、佐倉念さん」


「さようなら、佐倉念さん」


「あなたは佐倉念。永遠に、佐倉念です」


 小林明里は配信を切り、スマホをしまった。


 顔を上げたとき、海面にはもう誰もいなかった。


 そこにあるのは、陽光だけだった。


 風だけだった。


 そして、何度も寄せては返す波だけだった。




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