第9話 自業自得
王都の財務監査官がヴァイセンベルク辺境伯領に入ったという知らせは、冬の終わりの風とともに届いた。
「今朝方、商人仲間から早馬で」
フランツが事務室に入ってきた時、その顔は平静を装っていたが、手帳を持つ指に力が入っていた。
「監査官は二名。王都財務院の正規の派遣です。辺境伯閣下の過去三年の領地経営報告と、実態との乖離を調査するとのこと」
帳簿を閉じた。
一ヶ月前、エルヴィンが商人仲間から集めた取引記録を王都に送った。「辺境伯夫人クラーラ・フォン・ヴァイセンベルク」の署名入りの交渉覚書。取引契約書の写し。商人たちが保管していた発注書の控え——その余白に、私の筆跡で書かれた領民の消費傾向のメモ。
全てが、ディートリヒが王都で「自分の功績」として報告していた内容と矛盾する書証だった。
「それで、監査の経過は」
「辺境伯閣下は『妻に一部委任していた』と弁明されたそうです」
一部。
「ですが——」
フランツが手帳をめくった。
「クラーラお嬢様が離縁時に残した文書の中に、辺境伯閣下が署名された委任状があったそうで。『領地経営の全権を妻クラーラに委任する』という内容の」
あの委任状。
結婚三年目に、ディートリヒが王都での滞在を増やし始めた時に書かせたものだ。私が領地の業務を処理するために、辺境伯の権限を委任する正式な文書。ディートリヒは「面倒な書類だが、お前が必要だと言うなら」と渋々署名した。
あの時も——読みはしなかった。
「『一部』ではなく『全て』であったことが、委任状で確定した、と」
フランツの声が淡々と事実を刻む。
「王都の社交界では、辺境伯閣下が領地経営の成果を自身の功績として報告されていた件も広まり始めているようです。『堅実な領主』という評判は——」
「瓦解した」
「……はい」
フランツが手帳を閉じた。
「監査の結果、辺境伯位の剥奪は免れましたが、王命により監査官が常駐する処分が下されたとのことです。領地運営の自治権は大幅に制限されます」
自分で署名した委任状。自分が王都で語った虚偽の功績。その二つが、自分自身の首を絞めた。
私は何もしていない。帳簿を持ち帰り、去っただけだ。
「そうですか」
手元の帳簿に視線を戻した。ブレンナー商会の来月の仕入れ計画。目の前の数字に集中すればいい。
フランツが部屋を出ていった後、一人で窓の外を見た。冬の終わりの空は白く、どこにも雲の切れ目がない。
何も感じなかった。
嘘だ。何も感じないのではなく——感じるべきものが、もう残っていなかった。怒りは去っていた。恨みも。あるのは、遠い場所で起きた出来事を聞いたような、薄い既視感だけだった。
◇
三日後、マルタから手紙が届いた。
封を切る。いつもの丁寧な筆跡。
『クラーラ様。
監査官の方が辺境伯邸に常駐されることになりました。屋敷の中が慌ただしくなっております。
お伝えすべきことがございます。リゼッテ様が、ご実家にお戻りになりました。「もうここにいる意味がない」と仰って、荷物をまとめられ、昨日の朝、馬車でお発ちになりました。
お引き止めする方は、どなたもいらっしゃいませんでした。
季節の変わり目です。レオ坊ちゃまによろしくお伝えください。 マルタ』
手紙を畳んだ。
リゼッテが去った。
(「もうここにいる意味がない」)
あの人は——リゼッテは、ディートリヒの権威に寄り添うことで自分の居場所を守っていた。没落した男爵家の娘が、辺境伯の愛人という立場で得ていた安全。その安全が崩れた。
泥船だと分かれば、降りる。それがリゼッテという人の生き方だったのだろう。
憎む気にはなれなかった。あの人にはあの人の事情があった。私がそれを裁く立場にはない。
手紙を引き出しにしまった。マルタの手紙はいつもここに入れている。小さな束になりつつあった。
◇
その翌日。
王立公証院からの通知が届いた。
『ヴァイセンベルク辺境伯ディートリヒ・フォン・ヴァイセンベルク代理人より提出された養育権条項無効申請について、以下の通り裁定する。
申請を棄却する。
理由——申請者たるヴァイセンベルク辺境伯は、王命による監査官常駐の処分を受けた状態にあり、領地運営の自治権を制限されている。かかる状態において「養育能力の証明」を行う立場にあるとは認められない。
離縁届に記載された養育権条項(長男レオ・フォン・ヴァイセンベルクの養育権は母クラーラに帰属する)は正式に有効と認定する。
王立公証院審理官 署名・鑑印』
文書を読み終えた。
もう一度、読んだ。
文字が滲んだ。——滲んでいない。目が滲んでいるのだ。
通知を机に置いて、立ち上がった。廊下を歩いて、レオの部屋の扉を開けた。
レオが床に座って、木彫りの馬を走らせていた。ぱかっ、ぱかっ、と口で蹄の音を立てながら。
「お母さま?」
私はレオの前に膝をついた。小さな体を両腕で抱きしめた。
「もう大丈夫よ」
声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。
レオが私の首に腕を回した。小さな手が背中に触れる。
「お母さま、泣いてるの?」
「泣いていないわ」
泣いていなかった。本当に。
口元が緩んでいた。笑みだった。涙ではなく——安堵の、静かな微笑み。
まだ「笑った」とは言えない。けれど口元は確かに上がっていて、レオを抱く腕に力が入っていて、胸の奥にあった硬い塊が少しだけほどけた。
◇
夕方、エルヴィンが商会を訪れた。
商談室ではなく、商会の居間に通した。フランツが気を利かせてお茶を淹れてくれた。
「公証院から通知が来ました」
「聞きました。フランツさんから」
エルヴィンはいつもの椅子に座って、いつもの実直な顔をしていた。特別な表情はない。けれど、膝の上に置いた手が——ほんの少しだけ、拳を握っていた。
「あなたのおかげです」
正面から言った。目を逸らさずに。
エルヴィンが少し困ったように視線を落とした。
「あなたが九年間積み上げたものが証拠になっただけです。私は届けただけで」
「届けてくれなければ、届かなかった」
エルヴィンが黙った。反論しない。けれど肯定もしない。この人はいつもそうだ。自分のしたことを大きく語らない。
(この人を、信じてもいい)
そう思った。
七日前に閉じた扉。あの夜、「これは私の問題です」と突き放した。それでもこの人は白紙の紙束を鞄に入れて、翌日また来た。断られる可能性を抱えたまま。
信じていい。この人の敬意は本物だ。九年分の帳簿を読み取れる目を持つ人の敬意は——。
(——それだけ、だろうか)
一瞬だけ、そう思った。一瞬だけだ。
「来月の納品計画、確認しておきますね」
エルヴィンがいつもの語調に戻った。鞄から見積書を出す。仕事の話に切り替わる。
それでいい。今はまだ、それでいい。
◇
夜。
レオを寝かしつけている時だった。
木彫りの馬を枕元に置いて、毛布にくるまったレオが、目を閉じかけたまま呟いた。
「お母さま」
「なあに」
「明日、エルヴィンさん来る?」
……来る。来月の納品計画の詳細を詰めるために、明日の午後に来る約束をした。
「ええ、来ますよ」
「やった」
レオが毛布の中で小さく笑った。もう半分眠っている。
「エルヴィンさん来ると、お母さま……」
言葉が途切れた。寝息に変わる。
窓の外に、春の気配がかすかにあった。冬の終わりの空気の中に、土の匂いが混じっている。
もう振り返らなくていい。
レオの髪をそっと撫でて、部屋を出た。明日の帳簿が待っている。明日の計画がある。明日、来る人がいる。
廊下の窓から見える空に、雲の切れ目から星が一つ、顔を出していた。




