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五歳の息子に「お母さまはいつ笑うの」と聞かれたので、笑える場所を探しに離縁届を出しました  作者: 秋月 もみじ


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第8話 あなたの帳簿を見た日から


対抗書類の三通目を書き直した時、夜の鐘が五つ鳴った。


ペンを置いた。指先にインクが染みている。爪の際まで黒い。


机の上には、王立公証院の判例集の写しが三冊、養育権の先例をまとめた覚書が二枚、そして書き損じの対抗書類が積み上がっている。


十日。あの通知が届いてから十日、毎晩この机に向かっている。


(足りない)


何が足りないか、分かっている。


「父方の養育能力の欠如」——これを証明するには、辺境伯領の内情を示す証拠がいる。税収の悪化。領民対応の破綻。帳簿の管理不能。全てが起きていることは、マルタの手紙や商人仲間の噂から分かっている。


だが、それは噂だ。法廷に出せる証拠ではない。


辺境伯領の公的な記録を入手する手段が、商家の娘にはない。辺境伯の代官は当然ディートリヒ側だ。使用人の証言はマルタが協力してくれるかもしれないが、マルタ一人では「平民五名以上の証言」という要件に足りない。


書証か鑑印証。そのどちらかが必要だ。


蝋燭の灯りが細くなっている。替えの蝋燭はもうない。


(……一人では、限界がある)


認めたくなかった。認めたくなかったが、数字は嘘をつかない。手持ちの証拠で法廷に立てば、負ける。辺境伯の爵位と権力を前に、商家の娘が単独で対抗するには——。


壁が、高すぎる。



翌日の午後。


エルヴィンが商会を訪れた。


いつもなら見積書を片手に商談室に入ってくる。だが今日は——鞄を持っていなかった。


「お時間をいただけますか。商談ではありません」


フランツが私を呼びに来た時、少し驚いた顔をしていた。


商談室に入ると、エルヴィンが椅子の背に手を置いたまま立っていた。座っていない。改まった姿勢だった。


「どうぞ、おかけください」


「いえ。……立ったまま申し上げます」


エルヴィンの目がこちらを真っ直ぐに見ている。栗色の髪の下の、日に焼けた顔。いつもの実直な目だが、今日は——少し違う。何か覚悟を決めた人間の目だった。


「取引先としてではなく、個人として、お力添えをさせてください」


「……なぜですか」


反射的に口をついた。警戒が先に立つ。声が硬くなるのを止められない。


「あなたにとって得はありません」


「得はあります」


予想しなかった答えだった。


エルヴィンが一つ息を吐いた。言葉を探しているように、一瞬だけ視線を窓に向け——それから、こちらに戻した。


「三年前、辺境伯領への商品納入で、あなたの発注書を初めて見ました」


……三年前。


「品目、数量、納期、価格——全てが合理的で、一切の無駄がなかった。しかも余白に、領民の冬季消費傾向のメモが書いてあった」


覚えている。あの発注書。冬場の保存食の手配で、領民の消費量を過去三年分から推計して余白に書き込んだ。計算の根拠を手元に残しておく癖だった。誰かが読むことなど想定していなかった。


「数字の向こうに人を見ている帳簿でした」


エルヴィンの声が低くなった。


「あの帳簿を書いた人が、正当に評価されていないことが——」


一拍。


「——ずっと、許せなかった」


商談室が静かだった。窓の外を馬車が通る音が遠くに聞こえる。


(三年)


三年間。この人は——。


「商人仲間を通じて、辺境伯領との取引記録を集めることができます」


エルヴィンの声が、静かに実務の語調に戻った。


「辺境伯領の交易交渉の多くは、『辺境伯夫人クラーラ・フォン・ヴァイセンベルク』の名前で行われていました。交渉覚書にも、取引契約書にも、あなたの署名が入っている」


「……それが、何の証拠に」


「辺境伯閣下は、王都の社交界で、領地経営の成果を——交易路の開拓も、税制の改革も——ご自身の功績として報告されていました」


息が止まった。


「……何ですって」


「王都の商人仲間が知っています。辺境伯閣下が社交の場で、領地の交易計画書の話をされていたと。特産品開発の案も、税収増加の実績も、全て『自分が立案した』と」


足元が揺れた気がした。椅子の背に手をかけた。


(私が書いた交易計画書。私が考えた特産品の開発案。私が立て直した税制——)


全てが、あの人の手柄になっていた。


九年間。


「取引記録を集めれば、『辺境伯夫人の名前で交渉が行われていた』書証が揃います。これは辺境伯閣下が王都で報告されていた内容と矛盾する。王都の財務監査に提出すれば——」


「——虚偽報告が、発覚する」


自分の声が聞こえた。平らな声だった。怒りでも驚きでもない。


(やはり、そうだったのか)


薄々感じていなかったと言えば嘘になる。あの人が王都で何を話しているか、私は知らなかった。知ろうとしなかった。知ったところで、何が変わるとも思わなかった。


何も変わらなかった。九年間。


「……そうですか」


それだけ言った。


エルヴィンが黙って立っている。何かを待つように。


「ノイマンさん」


「はい」


「商人仲間に取引記録の開示を頼むということは、あなたの商売の信用を賭けるということです」


「承知しています」


迷いのない声だった。


「……なぜ、そこまで」


同じ問いを繰り返していた。けれど、さっきとは違う意味だった。さっきは警戒だった。今は——分からない。分からないから聞いている。


エルヴィンが少しだけ目を伏せた。それから、不器用に口を開いた。


「あなたの帳簿を初めて見た日から、この人の仕事を正当に評価する人間がいないことが許せなかった。——それだけです」


それだけ、と言った。


それだけのはずだった。仕事への敬意。商人として、帳簿の質を見抜く目を持つ人間としての、純粋な敬意。


なのに——。


涙が落ちた。


自分でも予想しなかった。止められなかった。頬を伝って、顎から落ちて、机の上の書類に小さな染みを作った。


九年間、帳簿を書き続けた。誰にも評価されなかった。夫には「女の趣味」と矮小化され、王都では他人の功績として語られ、それでも帳簿を閉じなかった。数字は嘘をつかないから。数字の向こうに領民がいるから。


——数字の向こうに人を見ている帳簿でした。


この人には、見えていた。


「すみませ——」


エルヴィンが慌てて立ち上がりかけた。椅子が床を擦る音がした。


「——いいえ」


涙を指の甲で拭った。一度だけ。


「ありがとうございます」


小さな声だった。自分でも聞き取れるかどうか分からないほどの。


エルヴィンが立ち止まった。中腰のまま、動かなくなった。


「……では、計画を進めてもよろしいですか」


「ええ」


声を整えた。涙の跡が頬に残っているが、もう拭わなかった。


「取引記録の収集に必要な商人のリストを出してください。こちらからも、辺境伯領時代の発注書の控えを整理します」


「分かりました」


エルヴィンがようやく椅子に座った。鞄から——持ってきていたのだ、最初から——白紙の紙束と筆記具を取り出した。


二人で机を挟んで、計画を詰め始めた。


取引記録の開示を依頼する商人の名前。交渉覚書の所在。クラーラの署名が入った契約書の写しを持っている可能性がある取引先。収集した書証を王都の財務監査に提出する手順。


泣いた目で数字を追うのは少し辛かったが、ペンを取れば指は動いた。九年間そうしてきた。泣いても怒っても、帳簿は閉じなかった。


窓の外の陽が傾いていく。冬の日暮れは早い。


「——この計画が動けば、辺境伯閣下の虚偽報告が王都で問題になります。そうなれば親権訴訟どころではなくなる」


エルヴィンが計画の全体像を短くまとめた。


「制度で決着をつける、ということですね」


「ええ。あなたが法廷に立つ必要はありません」


私が法廷に立たなくていい。証拠が動き、制度が裁く。


「……ノイマンさん」


「はい」


「紙束と筆記具、最初から鞄に入れていましたね」


エルヴィンが一瞬、目を逸らした。


「……断られる可能性もありましたので。その場合は持ち帰るつもりでした」


断られる可能性を想定して、それでも準備してきた。


(この人は——)


仕事への敬意。そう言った。そう言っただけだ。


でも鞄の中の白紙の紙束が、「それだけ」ではない何かを語っている気がした。


「来週までに、最初の三件の取引先に連絡を取ります」


エルヴィンが立ち上がった。


「——ありがとうございます」


二度目の礼だった。同じ言葉だったが、声の温度が違っていた。自分でも分かるくらいに。


エルヴィンが小さく頷いて、商談室を出ていった。


一人になった部屋で、書き損じの対抗書類を片づけた。もう必要ない。制度が動く。


机の上に、二人で書いた計画書が一枚残っている。


エルヴィンの筆跡と、私の筆跡が、同じ紙の上に並んでいた。

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