第7話 代わりを務めます
王立公証院の封蝋を割った時、指先がかすかに震えた。
分厚い羊皮紙。公証院の鑑印が押された正式文書。
『ヴァイセンベルク辺境伯ディートリヒ・フォン・ヴァイセンベルク代理人より、離縁届記載の養育権条項について無効申請が提出されたことを通知する。理由——嫡子の養育は父方の義務であり権利である。審理は王立公証院にて行う』
文書を机に置いた。
(来た)
あの日、商会の前で吐き捨てた言葉は虚勢ではなかった。法に訴えると言った通り、本当に動いてきた。
辺境伯の代官を通じた正式な申請。代官の署名と辺境伯領の公印が押されている。個人の感情ではなく、制度の力で来ている。
レオの顔が浮かんだ。木彫りの馬を抱いて眠る、穏やかな寝顔。
(渡さない)
指先の震えを握り込んで、文書をもう一度読み返した。審理の期日。必要な提出書類。対抗するための要件——「父方に養育能力がない」ことの証明。
辺境伯領の内情を外部から立証するのは容易ではない。辺境伯という爵位は、商家の娘が法廷で正面から向き合うには重すぎる。
それでも。
文書を引き出しにしまい、帳簿を開いた。今日の仕事がある。考えるのは夜だ。
◇
昼過ぎ、商会の表口がざわついた。
帳簿から顔を上げて窓を見ると、見覚えのある外套の騎士が一人、商会の入口に立っている。先日とは別の騎士だ。辺境伯領の紋章が外套の留め具に光っている。
また使者か。
立ち上がりかけた時、荷揚げ口の方から馬車の車輪の音が聞こえた。
エルヴィンの馬車だった。
エルヴィンが御者台から降り、商会の入口に向かって歩いてくる。騎士と鉢合わせる形になった。
騎士が口を開きかけた。エルヴィンはちらりと騎士を見て、立ち止まらなかった。
「すみません、約束の時間なので。——取引の邪魔です」
低いが通る声だった。騎士の横をすり抜け、商会の扉を開けて中に入ってくる。騎士が呆気にとられた顔をしている。
フランツが慌てて玄関に出て、騎士に「本日は商談が立て込んでおりまして」と丁重に、しかし隙なく告げた。騎士は何か言いたそうにしていたが、商人二人に挟まれる形で——結局、馬に戻った。
蹄の音が遠ざかる。
エルヴィンが商談室に入ってきた時、その顔にはもう何の表情もなかった。いつもの実直な商人の顔だ。
「お待たせしました。来月の納品数量の確認ですが——」
「助かりました」
思わず口をついた。使者を追い返してくれた礼のつもりだった。
「商売の都合です」
エルヴィンが短く返して、見積書を広げた。
商談はいつも通り、四半刻で終わった。数字を確認し、納期を調整し、互いの署名を入れる。
エルヴィンが書類をまとめて出ていった後、フランツが商談室に入ってきた。
「お嬢様、エルヴィンさんが使者を追い返してくださったようで」
「ええ。ちょうど商談の時間でしたから」
「はあ……」
フランツが首を傾げながら出ていく。商談室には私一人になった。
廊下の向こうで、フランツが誰にともなく呟いた声が——かすかに聞こえた気がしたが、帳簿に目を戻したので、聞き取れなかった。
◇
辺境伯邸。陳情の間。
冬の午後の冷たい光が、石壁に細く差し込んでいる。
「私が奥様の代わりを務めます」
リゼッテ様がそう宣言されたのは、三日前のことだった。
私——筆頭侍女マルタは、陳情の間の隅に立って、その光景を見ていた。
領民が三人、帽子を手に持って並んでいる。先頭の男が水路の修繕を訴えていた。南区画の灌漑用水路が、秋の大雨で一部崩落したのだという。
「それは……何ですの?」
リゼッテ様が小首を傾げた。
領民の顔から、表情が消えた。
クラーラ様なら——そう考えるのは詮のないことだが、クラーラ様なら水路の配管図を頭に入れておいでだった。どの区画の水路がいつ敷設され、どこが老朽化しているか。修繕の優先順位と費用の概算を、帳簿を開かずに答えられた。
リゼッテ様は「後ほど確認いたします」と領民を帰した。確認する先がどこにもないことを、この場にいる全員が知っていた。
その後、リゼッテ様は執務室でクラーラ様の帳簿——引き継ぎ書と公的台帳——を開き、十分で閉じた。
「暗号のよう」
そう仰って、椅子から立ち上がり、自室に戻られた。
机の上には、商人からの支払い催促の書簡が七通、開封されないまま積まれている。先月の支払いが二件、今月に入ってからの支払いが三件、期日を過ぎていた。
私は催促状の山を揃えて机の端に寄せ、陳情の間の蝋燭を消した。
(クラーラ様がいれば——)
思っても、言葉にはしない。ここは辺境伯のお屋敷で、私はこの屋敷の侍女だ。
窓の外では、修繕されない水路の傍を、領民が黙って歩いていた。
◇
夜。
事務室の机いっぱいに、書類を広げていた。
王立公証院の判例集。離縁後の養育権移譲が認められた先例の記録。貴族と平民の間での親権争いに関する裁定文の写し。フランツが商人仲間の伝手で集めてくれたものだ。
判例は少ない。貴族の嫡子の養育権が母方に認められた例は、過去二十年で三件。いずれも「父方の養育能力の著しい欠如」が立証された場合に限られる。
辺境伯の養育能力の欠如を、どうやって証明する。
税収が三割減った。帳簿が読めない。水路の修繕ができない——それは領地経営の問題であって、「養育能力」の問題ではない。法廷はそう判断するかもしれない。
こめかみを押さえた。蝋燭の炎が揺れている。夜の鐘が四つ鳴っていた。
控えめに扉が叩かれた。
「クラーラさん」
エルヴィンの声だった。
「……夜分に申し訳ありません。灯りが見えたので」
扉越しの声は低く、少し迷うような間があった。
「何か、お力になれることがあれば——」
「お気遣いなく」
自分の声が思ったより硬いことに気づいた。けれど、止められなかった。
「これは私の問題です」
沈黙。
扉の向こうで、エルヴィンが息を吸う音がした。
「……そうですか」
足音が遠ざかる。階段を降りていく音。商会の裏口が閉まる音。
一人になった。
書類の山が、蝋燭の灯りに照らされている。
(この人を信じたい)
そう思った自分に、驚いた。
(——でも)
九年間、一人で全てをやった。帳簿を書き、交渉をし、陳情を聞き、領地を回した。誰にも頼らなかった。頼れなかった。頼ったら——。
(また裏切られる)
ディートリヒを信じた。九年間信じた。信じて、帳簿を書いて、領地を守って、その全てが「辺境伯の手腕」として消えた。
また誰かを信じて、また同じことが起きたら。
今度は耐えられない。
書類に目を戻した。ペンを取った。対抗書類の下書きを、もう一度最初から書き直す。
一人でやる。一人でやるしかない。
蝋燭の灯りが細くなっていた。替えの蝋燭に手を伸ばした時、机の端に——。
陶器のカップが、一つ。
湯気の立つ、温かい飲み物。蜂蜜の香り。
いつ置いたのだろう。扉を叩く前か。それとも——。
指先で触れた。まだ温かい。
飲まなかった。飲めなかった。でも、捨てもしなかった。
カップを机の端に置いたまま、書類に向き直った。夜はまだ長い。




