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五歳の息子に「お母さまはいつ笑うの」と聞かれたので、笑える場所を探しに離縁届を出しました  作者: 秋月 もみじ


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第6話 苺のタルト


商会の表口に、見覚えのある紋章を掲げた馬が三頭、繋がれていた。


ヴァイセンベルク家の銀狼の紋章。


帳簿を閉じて窓から覗いた時、すでに父が玄関で応対していた。護衛の騎士が二名、その奥に——。


背の高い人影。旅装束の上から分かる広い肩幅。北方の英雄と呼ばれた男の輪郭を、私は九年間見続けてきた。


(来たのか)


使者で済まなかったということは、向こうも本気だ。


「お嬢様」


フランツが事務室の扉を開けた。顔色が硬い。


「辺境伯閣下がお見えです。旦那様が商談室にお通ししました」


「わかりました」


立ち上がる。身なりを確かめた。商会の帳簿管理者としての、飾り気のない仕立ての良い服。辺境伯夫人の衣装はもう一着も持っていない。


それでいい。


商談室の扉を開けた。



ディートリヒが椅子に座っていた。


父は壁際に立っている。私が入ると、小さく頷いて部屋を出ていった。娘の前で口を出す気はないということだ。


二人きりになった。


蝋燭の灯りが、ディートリヒの顔を照らしている。三週間前に使者を送ってきた時より、少しだけ頬がこけている。


「戻ってこい、クラーラ」


前置きはなかった。


「頭は冷えただろう」


あの頃と同じ声だった。低く、落ち着いていて、命令と願いの境目が分からない声。指揮官として騎士団をまとめる時と同じ調子で、妻に命じる人だった。


(元妻、だ)


「離縁届は王立公証院に提出済みです」


椅子には座らなかった。立ったまま、机を挟んで向かい合う。


「三年以上の実質的別居の要件も、使用人三名の証言もそろえました」


「クラーラ」


ディートリヒが立ち上がった。一歩、近づく。


「レオのことを考えろ。父親のいない子にするつもりか」


——レオ。


その名前を出されると分かっていた。この人が切れる札はそれしかない。


「レオは私が育てます」


声は平らに。抑えろ。揺れるな。


「離縁届の養育権条項に——」


一拍、間を置いた。


「——ご署名はいただけませんでしたが、法的には有効です。三年以上の実質的別居を根拠とした離縁申請では、離縁届に明記された養育権条項は、申請者側の記載が優先されます」


ディートリヒの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


あの夜、離縁届を読みもしないで執務机に放った。署名欄の隣に、養育権の条項が書いてあった。全ての条項が丁寧に記されていた。それを——読まなかった。


(あなたらしい)


そう思ったが、口には出さなかった。


「……何が不満だ」


ディートリヒの声が低くなった。怒りではない。困惑だ。九年間、妻がそこにいることを当然だと思っていた人間の困惑。


「不満はございません」


「では、なぜ——」


「今更、話すことなどございません」


微笑んだ。


自分でも驚くほど穏やかな微笑みだった。怒りでも恨みでもない。ただ——もう、この人と言葉を交わす理由がない。その事実が、口元を自然に緩ませた。


一礼して、商談室を出た。


背後でディートリヒが何か言いかけたのが聞こえた。聞かなかった。



廊下を歩きながら、息を整えた。


指先が冷たい。膝が少しだけ震えている。平気な顔をしていたが、体は正直だった。


事務室に戻る途中、窓の外が目に入った。


表口で、ディートリヒが馬に跨ろうとしている。その横を、一台の馬車がすれ違うように商会の荷揚げ口に入ってきた。幌に小さく「ノイマン商会」の文字。


馬車の御者台にエルヴィンが座っていた。


エルヴィンの目が、馬上のディートリヒに向いた。一瞬——表情が硬くなったように見えた。


(……気のせいだろう)


ディートリヒが馬を返した。騎士二名が続く。蹄の音が石畳を叩いて遠ざかっていく。


その時、ディートリヒの声が商会の壁越しに届いた。


「息子を返せ。法に訴える」


護衛の騎士に向けた言葉か、それとも誰にともなく吐き捨てたのか。低い声は冬の空気に硬く響いて、すぐに蹄の音にかき消された。


(法に訴える)


指先の冷たさが、少しだけ増した。



夕方。


エルヴィンが商会の食堂に顔を出した。


片手に布で包んだ皿を持っている。


「季節外れですが、温室の苺が手に入ったので」


ぶっきらぼうに言って、皿を机に置いた。布を開くと、丸い焼き型の上に苺のタルトが載っていた。タルト生地はやや厚く、苺の並べ方にむらがある。売り物にはならないだろうが、甘い香りが食堂にふわりと広がった。


「わあっ!」


レオが椅子から飛び降りて、タルトに駆け寄った。木彫りの馬を片手に握ったまま、もう片方の手で苺をつまもうとする。


「レオ。お行儀よく」


「はぁい」


レオが椅子に戻って、切り分けられたタルトを受け取った。一口頬張る。目が丸くなった。


「おいしい!」


「そうですか」


エルヴィンが短く答えた。表情は変わらない。


レオがタルトを頬張りながら、不意に言った。


「エルヴィンさん、これ三回も失敗したんだって」


……え。


「前にね、エルヴィンさんがね、お馬さん貸してくれた時にね、三回焼いたけど焦がしちゃったって言ってた」


エルヴィンの耳が赤くなった。


目に見えて、はっきりと。あの実直な商人の顔に、隠しきれない赤みが広がっている。


「……余計なことを言うな」


低い声で言ったが、怒りの色はない。ただ困っている。


レオは全く気にせず、二切れ目のタルトに手を伸ばした。


私は——。


口角が、上がった。


ほんの少し。自分でも気づかないほど小さく。苺のタルトの甘い香りと、エルヴィンの赤い耳と、レオの無邪気な暴露と。それらが混ざり合って、顔の筋肉が勝手に動いた。


笑った、とは言えない。笑いかけた、くらい。


でも——何ヶ月ぶりだろう。こんな風に口元が緩んだのは。


エルヴィンがちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らした。


「……次はもう少しうまく焼きます」


「期待しておきます」


自分の声が、思ったより柔らかいことに驚いた。



夜。


レオを寝かしつけた後、事務室には戻らず、窓辺に立った。


冬の夜空は曇っている。星は見えない。


(苺のタルトを、三回失敗した)


その事実が、胸の奥に妙に残っている。


温室の苺は安くない。それを三回分使って、焼いて、焦がして、また焼いて。商人が商品開発の試作をするのは普通のことだ。新しい取引先の手土産として、焼き菓子を試すこともあるだろう。


(商品開発の試作だろう。それ以外の理由は——ない)


窓ガラスに映った自分の顔が、ぼんやりと見える。


口角が、まだ少しだけ上がっている気がした。


(……ないはずだ)


ディートリヒの「法に訴える」という声が、まだ耳の奥に残っている。あの問題は、明日から考えなければならない。


けれど今夜だけは。


苺の甘い香りと、赤くなった耳と、レオの「三回も失敗したんだって」が、頭の中を占めていた。

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