第6話 苺のタルト
商会の表口に、見覚えのある紋章を掲げた馬が三頭、繋がれていた。
ヴァイセンベルク家の銀狼の紋章。
帳簿を閉じて窓から覗いた時、すでに父が玄関で応対していた。護衛の騎士が二名、その奥に——。
背の高い人影。旅装束の上から分かる広い肩幅。北方の英雄と呼ばれた男の輪郭を、私は九年間見続けてきた。
(来たのか)
使者で済まなかったということは、向こうも本気だ。
「お嬢様」
フランツが事務室の扉を開けた。顔色が硬い。
「辺境伯閣下がお見えです。旦那様が商談室にお通ししました」
「わかりました」
立ち上がる。身なりを確かめた。商会の帳簿管理者としての、飾り気のない仕立ての良い服。辺境伯夫人の衣装はもう一着も持っていない。
それでいい。
商談室の扉を開けた。
◇
ディートリヒが椅子に座っていた。
父は壁際に立っている。私が入ると、小さく頷いて部屋を出ていった。娘の前で口を出す気はないということだ。
二人きりになった。
蝋燭の灯りが、ディートリヒの顔を照らしている。三週間前に使者を送ってきた時より、少しだけ頬がこけている。
「戻ってこい、クラーラ」
前置きはなかった。
「頭は冷えただろう」
あの頃と同じ声だった。低く、落ち着いていて、命令と願いの境目が分からない声。指揮官として騎士団をまとめる時と同じ調子で、妻に命じる人だった。
(元妻、だ)
「離縁届は王立公証院に提出済みです」
椅子には座らなかった。立ったまま、机を挟んで向かい合う。
「三年以上の実質的別居の要件も、使用人三名の証言もそろえました」
「クラーラ」
ディートリヒが立ち上がった。一歩、近づく。
「レオのことを考えろ。父親のいない子にするつもりか」
——レオ。
その名前を出されると分かっていた。この人が切れる札はそれしかない。
「レオは私が育てます」
声は平らに。抑えろ。揺れるな。
「離縁届の養育権条項に——」
一拍、間を置いた。
「——ご署名はいただけませんでしたが、法的には有効です。三年以上の実質的別居を根拠とした離縁申請では、離縁届に明記された養育権条項は、申請者側の記載が優先されます」
ディートリヒの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
あの夜、離縁届を読みもしないで執務机に放った。署名欄の隣に、養育権の条項が書いてあった。全ての条項が丁寧に記されていた。それを——読まなかった。
(あなたらしい)
そう思ったが、口には出さなかった。
「……何が不満だ」
ディートリヒの声が低くなった。怒りではない。困惑だ。九年間、妻がそこにいることを当然だと思っていた人間の困惑。
「不満はございません」
「では、なぜ——」
「今更、話すことなどございません」
微笑んだ。
自分でも驚くほど穏やかな微笑みだった。怒りでも恨みでもない。ただ——もう、この人と言葉を交わす理由がない。その事実が、口元を自然に緩ませた。
一礼して、商談室を出た。
背後でディートリヒが何か言いかけたのが聞こえた。聞かなかった。
◇
廊下を歩きながら、息を整えた。
指先が冷たい。膝が少しだけ震えている。平気な顔をしていたが、体は正直だった。
事務室に戻る途中、窓の外が目に入った。
表口で、ディートリヒが馬に跨ろうとしている。その横を、一台の馬車がすれ違うように商会の荷揚げ口に入ってきた。幌に小さく「ノイマン商会」の文字。
馬車の御者台にエルヴィンが座っていた。
エルヴィンの目が、馬上のディートリヒに向いた。一瞬——表情が硬くなったように見えた。
(……気のせいだろう)
ディートリヒが馬を返した。騎士二名が続く。蹄の音が石畳を叩いて遠ざかっていく。
その時、ディートリヒの声が商会の壁越しに届いた。
「息子を返せ。法に訴える」
護衛の騎士に向けた言葉か、それとも誰にともなく吐き捨てたのか。低い声は冬の空気に硬く響いて、すぐに蹄の音にかき消された。
(法に訴える)
指先の冷たさが、少しだけ増した。
◇
夕方。
エルヴィンが商会の食堂に顔を出した。
片手に布で包んだ皿を持っている。
「季節外れですが、温室の苺が手に入ったので」
ぶっきらぼうに言って、皿を机に置いた。布を開くと、丸い焼き型の上に苺のタルトが載っていた。タルト生地はやや厚く、苺の並べ方にむらがある。売り物にはならないだろうが、甘い香りが食堂にふわりと広がった。
「わあっ!」
レオが椅子から飛び降りて、タルトに駆け寄った。木彫りの馬を片手に握ったまま、もう片方の手で苺をつまもうとする。
「レオ。お行儀よく」
「はぁい」
レオが椅子に戻って、切り分けられたタルトを受け取った。一口頬張る。目が丸くなった。
「おいしい!」
「そうですか」
エルヴィンが短く答えた。表情は変わらない。
レオがタルトを頬張りながら、不意に言った。
「エルヴィンさん、これ三回も失敗したんだって」
……え。
「前にね、エルヴィンさんがね、お馬さん貸してくれた時にね、三回焼いたけど焦がしちゃったって言ってた」
エルヴィンの耳が赤くなった。
目に見えて、はっきりと。あの実直な商人の顔に、隠しきれない赤みが広がっている。
「……余計なことを言うな」
低い声で言ったが、怒りの色はない。ただ困っている。
レオは全く気にせず、二切れ目のタルトに手を伸ばした。
私は——。
口角が、上がった。
ほんの少し。自分でも気づかないほど小さく。苺のタルトの甘い香りと、エルヴィンの赤い耳と、レオの無邪気な暴露と。それらが混ざり合って、顔の筋肉が勝手に動いた。
笑った、とは言えない。笑いかけた、くらい。
でも——何ヶ月ぶりだろう。こんな風に口元が緩んだのは。
エルヴィンがちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らした。
「……次はもう少しうまく焼きます」
「期待しておきます」
自分の声が、思ったより柔らかいことに驚いた。
◇
夜。
レオを寝かしつけた後、事務室には戻らず、窓辺に立った。
冬の夜空は曇っている。星は見えない。
(苺のタルトを、三回失敗した)
その事実が、胸の奥に妙に残っている。
温室の苺は安くない。それを三回分使って、焼いて、焦がして、また焼いて。商人が商品開発の試作をするのは普通のことだ。新しい取引先の手土産として、焼き菓子を試すこともあるだろう。
(商品開発の試作だろう。それ以外の理由は——ない)
窓ガラスに映った自分の顔が、ぼんやりと見える。
口角が、まだ少しだけ上がっている気がした。
(……ないはずだ)
ディートリヒの「法に訴える」という声が、まだ耳の奥に残っている。あの問題は、明日から考えなければならない。
けれど今夜だけは。
苺の甘い香りと、赤くなった耳と、レオの「三回も失敗したんだって」が、頭の中を占めていた。




