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五歳の息子に「お母さまはいつ笑うの」と聞かれたので、笑える場所を探しに離縁届を出しました  作者: 秋月 もみじ


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第5話 温かいもの


辺境伯領の税収が三割減った、とフランツが朝一番で告げたのは、冬の最初の雪が降った日だった。


「商人仲間から聞いた話ですがね、お嬢様」


フランツが事務室の椅子に腰を下ろし、手帳を開いた。


「お嬢様が引いた交易路——北街道の穀物商と南の薬草商、あの辺りが軒並み契約条件の見直しを突きつけているようで。元々クラーラ・フォン・ヴァイセンベルク個人への信用で結んだ取引でしたから」


知っている。あの契約の多くは、辺境伯家の名義ではなく私個人の名前で結んだものだった。私がいなくなれば、白紙に戻って当然だ。


「それから、税収の計算が合わなくて領内がかなり混乱しているとのことです。月次の収支報告が出せないまま二ヶ月目に入った、と」


……二ヶ月。


あの引き継ぎ書では足りなかったのか。いや、足りないだろうとは思っていた。複式簿記の体系は、文書で読むだけでは身につかない。手を動かし、数字を追い、矛盾にぶつかり、一つずつ解くことでしか覚えられない。


「お嬢様?」


「私はもう関係のない人間です」


フランツを見ずに言った。帳簿にペンを走らせる。ブレンナー商会の仕入れ台帳。目の前の数字に集中すればいい。


フランツは何か言いたそうに口を開きかけたが、「……はい」とだけ言って手帳を閉じた。



その日の午後、マルタからの手紙が届いた。月に一度の近況報告。


封を切ると、丁寧で控えめな筆跡が並んでいる。


『奥様——クラーラ様。お変わりないことをお祈りしております。レオ坊ちゃまはお元気ですか。


辺境伯邸では、リゼッテ様が帳簿のお仕事を引き継がれました。ただ、クラーラ様がお使いになっていた帳簿の仕組みが難しいようで、借方と貸方の区別がつかないとお嘆きです。先日は商人への支払い計算で数字が大きく合わず、お部屋に引きこもられてしまいました。


使用人一同、クラーラ様のお仕事がどれほどのものだったか、今になって痛感しております。


季節の変わり目ですので、どうかご自愛ください。 マルタ』


借方と貸方。


複式簿記の最初の一歩だ。そこが分からなければ、帳簿の一行目も読めない。


手紙を畳んで、引き出しにしまった。


(……あの引き継ぎ書に、もう少し丁寧に書いておくべきだったか)


一瞬だけ、そう思った。


一瞬だけだ。目を伏せて、それから帳簿に視線を戻した。



夜が更けていた。


蝋燭が二本目に替わる頃、ようやく新規取引先の開拓案がまとまった。来春の交易路を北ではなく東に延ばす計画。ブレンナー商会の従来の商圏とは異なるが、数字の上では採算が合う。


肩が凝っている。首を回すと、小さく骨が鳴った。


ふと、机の端に目がいった。


陶器のカップが一つ、置いてある。


湯気はもう消えかけていたが、触れるとまだ温かい。蜂蜜の香り。薬草茶に蜂蜜を落としたものだ。


……いつの間に。


振り返ったが、事務室には誰もいない。蝋燭の火が壁に影を落としているだけだった。


翌朝、商会の女中——ヘルダに聞いた。


「昨夜、誰かが事務室に飲み物を?」


「ああ、ノイマンさんですよ。夕方に納品の確認でいらっしゃって、お帰りの前にお嬢様がまだお仕事をされていたので。温かいものでも置いていきましょうかって」


「……商会の皆さんにそうされているのでしょう」


「いえ」


ヘルダが小首を傾げた。


「他のお客様にはお茶なんて出しませんよ、あの方」


「そうですか」


帳簿を開いた。ペンを取った。


ヘルダが何か続けようとしていたが、私はもう数字を追い始めていた。


(商人として気の利く人だ。それだけのことだろう)


蜂蜜の残り香が、まだ事務室に漂っていた。



その日の午後、商会の表口に見慣れない馬が繋がれた。


応対に出たフランツが、少し困った顔で事務室に来た。


「お嬢様。辺境伯領からの使者が」


使者は若い騎士だった。ディートリヒの騎士団の一人だろう、北方の武人らしい体格に旅塵のついた外套。商会の玄関に立ったまま、居心地悪そうにしている。


「奥様に、お戻りいただきたいとの仰せです」


「奥様」。


その呼び方をされるのは、辺境伯邸を出て以来初めてだった。


「離縁届はすでに提出しております」


騎士の目を真っ直ぐに見て言った。声は平らに、抑揚をつけずに。


「『奥様』はもうおりません。辺境伯閣下にそうお伝えください」


騎士が口を開きかけ、閉じた。何か反論を用意してきたのかもしれないが、私の声に怒りも悲しみもないことに戸惑ったのだろう。感情のない言葉は、感情的な言葉より扱いに困る。


「……承知いたしました。お伝えします」


騎士が頭を下げ、馬に戻っていく。蹄の音が石畳に遠ざかるのを聞きながら、玄関の扉を閉めた。


フランツが後ろに立っていた。


「お嬢様」


「何でもありません、フランツ。仕事に戻りましょう」


「……はい」


事務室に戻る途中、指先が少しだけ冷たいことに気づいた。


(もう、あの場所には何もない)


自分が作ったものが壊れていく報せと、戻ってきてくれという伝言。どちらも、もう私には関係のないことだ。


関係のないことだと、決めた。



夜。レオを膝に乗せて、寝る前の時間を過ごしていた。


「お母さま、今日は何をしたの?」


「お仕事よ。新しい取引先を探す計算をしていたの」


「けいさん?」


「数字を使って、うまくいくかどうか調べることよ」


レオが私の膝の上で首を傾げた。木彫りの馬を片手に握っている。あの日からずっと手放さない。


「お母さま、ここのお仕事好き?」


……好き。


その言葉を口にするには、まだ少し遠い。九年間、仕事を「好き」か「嫌い」かで考えたことがなかった。務めだった。やるべきことだった。好きも嫌いもなく、ただそこにあった。


でも今は違う。ここにいるのは務めではなく、選択だ。


「ええ、嫌いではないわ」


「きらいじゃないは、すきのこと?」


「……さあ。どうかしらね」


レオが不思議そうに笑った。子供にはその区別が分からないのだろう。


(嫌いではない)


辺境伯邸にいた最後の年、あの執務室で帳簿を開いた時、こんな風に答えられただろうか。


答えられなかったと思う。


レオが木彫りの馬を枕元に置いて、毛布にもぐり込んだ。


「おやすみなさい、お母さま」


「おやすみなさい」


蝋燭を消して、部屋を出た。


廊下の窓から見える空は曇っていて、星は見えない。冬の夜気が頬に冷たい。


けれど、建物の中は温かかった。


壁の向こうからレオの寝息が聞こえる。階下では、明日の仕込みをするヘルダの足音がかすかに響いている。


人の気配。人の温度。


事務室の机に戻ると、昨夜のカップはヘルダが片づけてくれていた。蜂蜜の香りはもう残っていない。


(温かいものを、差し入れてくれる人がいた)


それがどういう意味なのか、考えるのはやめた。今は、目の前の帳簿に集中すればいい。


ペンを取った。来春の交易路の計算の続きが、待っている。

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