第5話 温かいもの
辺境伯領の税収が三割減った、とフランツが朝一番で告げたのは、冬の最初の雪が降った日だった。
「商人仲間から聞いた話ですがね、お嬢様」
フランツが事務室の椅子に腰を下ろし、手帳を開いた。
「お嬢様が引いた交易路——北街道の穀物商と南の薬草商、あの辺りが軒並み契約条件の見直しを突きつけているようで。元々クラーラ・フォン・ヴァイセンベルク個人への信用で結んだ取引でしたから」
知っている。あの契約の多くは、辺境伯家の名義ではなく私個人の名前で結んだものだった。私がいなくなれば、白紙に戻って当然だ。
「それから、税収の計算が合わなくて領内がかなり混乱しているとのことです。月次の収支報告が出せないまま二ヶ月目に入った、と」
……二ヶ月。
あの引き継ぎ書では足りなかったのか。いや、足りないだろうとは思っていた。複式簿記の体系は、文書で読むだけでは身につかない。手を動かし、数字を追い、矛盾にぶつかり、一つずつ解くことでしか覚えられない。
「お嬢様?」
「私はもう関係のない人間です」
フランツを見ずに言った。帳簿にペンを走らせる。ブレンナー商会の仕入れ台帳。目の前の数字に集中すればいい。
フランツは何か言いたそうに口を開きかけたが、「……はい」とだけ言って手帳を閉じた。
◇
その日の午後、マルタからの手紙が届いた。月に一度の近況報告。
封を切ると、丁寧で控えめな筆跡が並んでいる。
『奥様——クラーラ様。お変わりないことをお祈りしております。レオ坊ちゃまはお元気ですか。
辺境伯邸では、リゼッテ様が帳簿のお仕事を引き継がれました。ただ、クラーラ様がお使いになっていた帳簿の仕組みが難しいようで、借方と貸方の区別がつかないとお嘆きです。先日は商人への支払い計算で数字が大きく合わず、お部屋に引きこもられてしまいました。
使用人一同、クラーラ様のお仕事がどれほどのものだったか、今になって痛感しております。
季節の変わり目ですので、どうかご自愛ください。 マルタ』
借方と貸方。
複式簿記の最初の一歩だ。そこが分からなければ、帳簿の一行目も読めない。
手紙を畳んで、引き出しにしまった。
(……あの引き継ぎ書に、もう少し丁寧に書いておくべきだったか)
一瞬だけ、そう思った。
一瞬だけだ。目を伏せて、それから帳簿に視線を戻した。
◇
夜が更けていた。
蝋燭が二本目に替わる頃、ようやく新規取引先の開拓案がまとまった。来春の交易路を北ではなく東に延ばす計画。ブレンナー商会の従来の商圏とは異なるが、数字の上では採算が合う。
肩が凝っている。首を回すと、小さく骨が鳴った。
ふと、机の端に目がいった。
陶器のカップが一つ、置いてある。
湯気はもう消えかけていたが、触れるとまだ温かい。蜂蜜の香り。薬草茶に蜂蜜を落としたものだ。
……いつの間に。
振り返ったが、事務室には誰もいない。蝋燭の火が壁に影を落としているだけだった。
翌朝、商会の女中——ヘルダに聞いた。
「昨夜、誰かが事務室に飲み物を?」
「ああ、ノイマンさんですよ。夕方に納品の確認でいらっしゃって、お帰りの前にお嬢様がまだお仕事をされていたので。温かいものでも置いていきましょうかって」
「……商会の皆さんにそうされているのでしょう」
「いえ」
ヘルダが小首を傾げた。
「他のお客様にはお茶なんて出しませんよ、あの方」
「そうですか」
帳簿を開いた。ペンを取った。
ヘルダが何か続けようとしていたが、私はもう数字を追い始めていた。
(商人として気の利く人だ。それだけのことだろう)
蜂蜜の残り香が、まだ事務室に漂っていた。
◇
その日の午後、商会の表口に見慣れない馬が繋がれた。
応対に出たフランツが、少し困った顔で事務室に来た。
「お嬢様。辺境伯領からの使者が」
使者は若い騎士だった。ディートリヒの騎士団の一人だろう、北方の武人らしい体格に旅塵のついた外套。商会の玄関に立ったまま、居心地悪そうにしている。
「奥様に、お戻りいただきたいとの仰せです」
「奥様」。
その呼び方をされるのは、辺境伯邸を出て以来初めてだった。
「離縁届はすでに提出しております」
騎士の目を真っ直ぐに見て言った。声は平らに、抑揚をつけずに。
「『奥様』はもうおりません。辺境伯閣下にそうお伝えください」
騎士が口を開きかけ、閉じた。何か反論を用意してきたのかもしれないが、私の声に怒りも悲しみもないことに戸惑ったのだろう。感情のない言葉は、感情的な言葉より扱いに困る。
「……承知いたしました。お伝えします」
騎士が頭を下げ、馬に戻っていく。蹄の音が石畳に遠ざかるのを聞きながら、玄関の扉を閉めた。
フランツが後ろに立っていた。
「お嬢様」
「何でもありません、フランツ。仕事に戻りましょう」
「……はい」
事務室に戻る途中、指先が少しだけ冷たいことに気づいた。
(もう、あの場所には何もない)
自分が作ったものが壊れていく報せと、戻ってきてくれという伝言。どちらも、もう私には関係のないことだ。
関係のないことだと、決めた。
◇
夜。レオを膝に乗せて、寝る前の時間を過ごしていた。
「お母さま、今日は何をしたの?」
「お仕事よ。新しい取引先を探す計算をしていたの」
「けいさん?」
「数字を使って、うまくいくかどうか調べることよ」
レオが私の膝の上で首を傾げた。木彫りの馬を片手に握っている。あの日からずっと手放さない。
「お母さま、ここのお仕事好き?」
……好き。
その言葉を口にするには、まだ少し遠い。九年間、仕事を「好き」か「嫌い」かで考えたことがなかった。務めだった。やるべきことだった。好きも嫌いもなく、ただそこにあった。
でも今は違う。ここにいるのは務めではなく、選択だ。
「ええ、嫌いではないわ」
「きらいじゃないは、すきのこと?」
「……さあ。どうかしらね」
レオが不思議そうに笑った。子供にはその区別が分からないのだろう。
(嫌いではない)
辺境伯邸にいた最後の年、あの執務室で帳簿を開いた時、こんな風に答えられただろうか。
答えられなかったと思う。
レオが木彫りの馬を枕元に置いて、毛布にもぐり込んだ。
「おやすみなさい、お母さま」
「おやすみなさい」
蝋燭を消して、部屋を出た。
廊下の窓から見える空は曇っていて、星は見えない。冬の夜気が頬に冷たい。
けれど、建物の中は温かかった。
壁の向こうからレオの寝息が聞こえる。階下では、明日の仕込みをするヘルダの足音がかすかに響いている。
人の気配。人の温度。
事務室の机に戻ると、昨夜のカップはヘルダが片づけてくれていた。蜂蜜の香りはもう残っていない。
(温かいものを、差し入れてくれる人がいた)
それがどういう意味なのか、考えるのはやめた。今は、目の前の帳簿に集中すればいい。
ペンを取った。来春の交易路の計算の続きが、待っている。




