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五歳の息子に「お母さまはいつ笑うの」と聞かれたので、笑える場所を探しに離縁届を出しました  作者: 秋月 もみじ


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第4話 木彫りの馬


織物商のグリューネ氏が契約書に署名した瞬間、ブレンナー商会の事務室に秋の終わりの陽が射し込んだ。


「——この条件でよろしいですね」


「まあ、参りましたよ。ブレンナーさんのお嬢さんに数字で押されると、こちらは逃げ場がない」


グリューネ氏が苦笑しながらペンを置いた。恰幅のいい体を椅子に沈めて、頭を掻く。値切り交渉に三十分粘ったが、私が提示した単価の根拠——過去三年の隣町の取引相場と、来春の原料価格の見通し——を崩せなかった。


数字には嘘がつけない。それだけのことだ。


父が商談室の隅で腕を組んだまま、短く言った。


「さすがだな」


「お嬢様は昔からこうでしたよ」


フランツが契約書の控えを整えながら、ちょっと得意そうに笑う。まるで自分の手柄のような顔だった。この人は私が子供の頃、商会の帳簿を覗き込んでいた時にも「筋がいい」と褒めてくれた。十五年前の話だ。


グリューネ氏を見送った後、事務室に戻って契約書を帳簿に綴じた。ブレンナー商会に来て最初の大口契約。


指先にインクの匂いが残っている。辺境伯邸にいた頃と同じ匂いだ。でも今日は、少しだけ違う。


(この数字は、私の名前で取った)


辺境伯夫人としてではなく。クラーラ・ブレンナーとして。


その違いが、思ったよりずっと大きかった。



昼過ぎに、エルヴィンが商会を訪れた。


「冬場の乾物の納品確認と、来月分の見積もりを」


商談室に通される間、レオが事務室の隅で椅子に座ったまま足をぶらぶらさせているのが見えた。フランツが仕事に出ており、相手をしてくれる人がいない。干し果子の袋はもう空だ。


エルヴィンが商談室に入りかけて、ふと足を止めた。


視線がレオに向かう。それから何も言わず、肩にかけた鞄の中を探り、小さなものを取り出した。


木彫りの馬。掌に収まるくらいの大きさで、粗削りだが足の形や鬣の流れにちゃんと馬の姿がある。


エルヴィンがレオの前にしゃがみ込んだ。長い脚を折って、五歳児の目の高さに合わせる。


「これ、貸してやるよ」


レオの目が丸くなった。


「お馬さん!」


小さな手が伸びて、木彫りの馬を受け取る。レオが馬の鼻先を指で撫でて、椅子の上で走らせ始めた。ぱかっ、ぱかっ、と口で蹄の音を真似している。


エルヴィンが立ち上がり、何事もなかったように商談室に入ってきた。


「お待たせしました。見積もりの件ですが——」


(子供好きな人なのだろう)


それ以上は考えなかった。見積書を開く。数字を確認する。今度は計算の取り違えはない。三週間で、この商会の台帳の癖にも慣れた。


商談は滞りなく進み、四半刻ほどで終わった。


エルヴィンが書類をまとめて立ち上がりかけた時、少し迷うように口を開いた。


「……坊ちゃんは、お元気ですか」


唐突な問いだった。商談の相手に聞くような話ではない。


「ええ、おかげさまで」


事務的に返した。それ以上の言葉を足す理由がなかったからだ。


「そうですか」


エルヴィンは短く頷いて、商談室を出ていった。


入れ替わりに戻ってきたフランツが、エルヴィンの背中を見送りながら呟いた。


「エルヴィンさん、最近よく来ますねぇ」


「取引が増えたからでしょう」


「はあ、そういうものですかねぇ」


フランツが首を傾げている。私は帳簿に目を戻した。



夕食の時間、レオが不意に匙を置いた。


「お父さまはいつ来るの?」


スープの湯気が、二人の間をゆらゆらと上がっていく。


……来ない。


とは言えなかった。五歳の子供に、父親はもう来ないと告げる言葉を、私はまだ持っていない。


「レオ。スープが冷めますよ」


「うん……」


レオが匙を取り直す。俯いた横顔は、やはり父親に似ている。


(あの人は——ディートリヒは、レオの前で、あんな風に膝を折ったことがあっただろうか)


昼間の光景が浮かんだ。エルヴィンが長い脚を折って、五歳児の目の高さにしゃがみ込んだ姿。何でもない動作だ。子供の目線に合わせるというだけの。


ディートリヒはいつもレオを見下ろしていた。悪意ではなく、ただそれが自然だったのだろう。上から頭を撫で、「大きくなったな」と言い、それきり執務室に戻る。


(——何を考えているの、私は)


比べるようなことではない。二人は違う人間だ。それに、エルヴィンは取引先の商人で、それ以上でもそれ以下でもない。


思考を切り上げて、自分のスープを口に運んだ。少し冷めている。



夜、レオを寝かしつけた。


木彫りの馬を胸に抱いたまま、レオは眠った。小さな指が馬の鬣を握っている。穏やかな寝息。穏やかな顔。


この顔が見られるなら、ここに来たことは間違いではなかった。


毛布を直して、寝室を出ようとした時、階下からフランツの声が聞こえた。


「お嬢様、少しよろしいですか」


事務室に降りると、フランツが渋い顔をしていた。


「辺境伯領の方から、ちょっとした噂が入りまして」


「……何です」


「交易商人が契約条件の見直しを要求しているそうです。それから、税収の計算が合わないとかで、領内がだいぶ混乱していると」


交易商人の何人かは、私個人との契約で動いていた。辺境伯家との契約ではなく、クラーラ・フォン・ヴァイセンベルクという個人の信用で結んだ取引だ。私がいなくなれば、条件を見直すのは当然だろう。


税収の計算——あの複式簿記の帳簿を、誰が引き継いだのか。引き継ぎ書は残したが、あれだけで回せるとは思っていなかった。


思っていなかった、けれど。


「もう私の領地ではありません」


声に出した。フランツに向けてというより、自分に言い聞かせるように。


フランツは何も言わなかった。ただ小さく頷いて、事務室を出ていった。


二階に戻る途中、レオの寝室を覗いた。


木彫りの馬を抱いたまま、穏やかに眠っている。


(この子が笑っていてくれるなら)


それでいい。それだけで、十分だ。


窓の外から、遠く馬車の車輪の音が聞こえた。商会のある街は、夜でもどこかに人の気配がある。辺境伯邸の、あの静まり返った夜とは違う。


レオの寝息を聞きながら、扉をそっと閉めた。

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