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五歳の息子に「お母さまはいつ笑うの」と聞かれたので、笑える場所を探しに離縁届を出しました  作者: 秋月 もみじ


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第3話 帳簿のない月末


ブレンナー商会の帳簿は、辺境伯邸のそれより少しだけインクの匂いが濃かった。


使い込まれた革表紙を開くと、見慣れた複式の形式が並んでいる。数字の癖は書き手によって違う。この帳簿をつけていたのは番頭のフランツだろう。几帳面だが、仕訳の分類にところどころ迷いがある。


「手が足りなくてな」


父——ヘルマン・ブレンナーは、帳簿の山を私の机に積み上げると、それだけ言って事務室を出ていった。


おかえり、と言われたのは昨夜のことだ。


荷物を抱えて商会の玄関に立った時、父は帳簿を片手に出てきて、私の顔を見て、「おかえり」と短く言った。それから「飯は食ったか」と聞いた。食べていないと答えたら、厨房に声をかけてレオと私の分の夕食を出してくれた。


それだけだった。


なぜ帰ってきたのか、とは聞かなかった。辺境伯との間に何があったのか、とも。ただ翌朝、この帳簿の山が机に載っていた。


(施しではなく、仕事をくれた)


ペンを取る。帳簿の三頁目に小さな計算の誤差を見つけ、余白に修正を入れた。指が覚えている。数字を追い、矛盾を見つけ、正しい流れに整える——この手の動きだけは、九年間変わらなかった。


(やれる)


ここでも、やれる。そう思えたのは、最初の帳簿を一冊通しで読み終えた時だった。



三日目の午後に、その商人は来た。


「ブレンナー商会さん、納品の件でお伺いしました——」


商談室の扉が開いて、日に焼けた顔の青年が入ってくる。栗色の髪を後ろで束ね、旅慣れた外套の下に商人らしい実直な仕立ての上着。


目が合った。


エルヴィン・ノイマン。隣領の中堅商家の三男で、独立して自分の交易路を開いている商人だ。辺境伯領にいた頃、何度か発注書のやり取りをした相手。顔を直接合わせたのは——片手で数えるほどしかない。


彼が一瞬、足を止めた。


「……ブレンナー商会の方ですか」


(辺境伯夫人、とは言わなかった)


「ええ。帳簿管理を担当しております。クラーラ・ブレンナーです」


旧姓で名乗った。声に出すのは、これが初めてだった。舌の上で少しだけ、不思議な感触がした。


「ノイマンです。冬場の乾物の見積もりをお持ちしました」


彼はそれ以上、何も聞かなかった。辺境伯邸からなぜここにいるのかも、事情も。見積書を机に広げ、商談を始めた。


助かる、と思った。


見積もりの数字を確認していく。品目、数量、単価、納期。彼の数字はいつも通り正確で——。


(……あ)


私の方に誤りがあった。商会の在庫台帳を元に出した発注予定数に、計算の取り違えがある。辺境伯領の在庫管理の数式をそのまま使ってしまっていた。ここの台帳は項目の並びが違う。


言い訳にもならない初歩的なミスだ。指先が少し冷たくなった。


エルヴィンは見積書に目を落としたまま、何も言わなかった。


ただ、彼が書いてきた見積書の数量が——私の発注予定数ではなく、正しい数字で計算されていた。


「……こちらの見積もりで問題ないでしょうか」


穏やかな声だった。


(気づいていた。けれど、指摘しなかった)


「はい。結構です」


それだけ答えた。喉の奥が少しだけ熱かったのは、安堵か、それとも恥ずかしさか。


商談は四半刻ほどで終わった。エルヴィンが書類をまとめて立ち上がった時、事務室の隅でレオが椅子の脚を蹴ってぶらぶらさせているのが目に入ったらしい。


ちらりとレオを見て、それからすぐに視線を戻した。余計なことは何も言わない。


「では、次回の納品日にまた」


「ええ、よろしくお願いいたします」


エルヴィンが商談室を出ていく。入れ替わりにフランツが入ってきて、レオに「坊ちゃま、干し果子がありますよ」と小さな袋を差し出した。レオが「ありがとう!」と目を輝かせて受け取る。


「お嬢様、ノイマンさんとの商談はいかがでした」


「問題ありません。数字のしっかりした方ですね」


「ええ、あの方は信用のおける商人ですよ」


フランツが頷いて、レオの頭を軽く撫でてから出ていった。


(有能な商人だ)


それ以上のことは、考えなかった。



──辺境伯邸。


月末だった。


俺は執務机に積まれた紙の山を前に、腕を組んでいた。


「マルタ。収支報告書はどこだ」


「奥様が——クラーラ様がお作りになっていたものですので……」


マルタの声が小さくなる。俺の問いに答えられる人間が、この屋敷にいない。


「帳簿は」


「個人の帳簿はお持ちになりました。公的な台帳はこちらに残っております」


公的台帳は引っ張り出した。数字は並んでいる。だが、そこから収支報告書をどう組み立てるのかが分からない。クラーラが残していった引き継ぎ書を開いたが、複式簿記の体系が——借方、貸方、仕訳の流れが、何一つ頭に入ってこない。


机の上には、商人からの請求書が十二通。


いつもなら月末にはクラーラが全てを処理し、俺の机には一枚の報告書だけが置かれていた。あの簡潔な一枚の裏に、これだけの紙が動いていたのか。


「クラーラはこれを……一人で?」


呟いた声は、自分でも思ったより低かった。


マルタが何か言いかけたが、俺は手を振って下がらせた。


……すぐに戻るだろう。


実家に帰ったところで、商家の娘が辺境伯夫人の暮らしを手放すとは思えない。頭を冷やせば分かるはずだ。


請求書の山を引き出しに押し込み、執務室を出た。



商会の母屋の二階、小さな寝室。


レオを毛布にくるんで、髪を撫でた。今日一日、商会の片隅で退屈そうにしていたのは見ていた。明日からは何か考えてやらなければ。


「今日は楽しかった?」


「うん」


レオが毛布の中でもぞもぞと動いた。


「おじいちゃまのお家、あったかい」


……あったかい。


辺境伯邸は石造りの、冬には隙間風が骨まで染みる屋敷だった。暖炉を焚いてもどこか寒くて、レオにはいつも厚い毛布を二枚重ねていた。


ここは商家の木造の母屋で、壁も床も薄い。けれどあの屋敷より、あったかい。


この子にはそれが分かるのだ。


頬が少しだけ——ほんの少しだけ緩んだ。


笑った、とは言えない。まだ、そこまでは。


レオの寝息を聞きながら、窓の外を見た。商会の裏庭の向こうに、街の灯りがぽつぽつと揺れている。


辺境伯邸の窓から見えていたのは、山と星だけだった。


ここには灯りがある。人の灯りが。


毛布をそっと直して、私は部屋を出た。明日の帳簿が待っている。

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