第2話 九年分の帳簿
引き継ぎ書の最後の一頁に墨を落とした時、窓の外では秋の最後の陽光が辺境の山々を染めていた。
二ヶ月かかった。
あの夜、離縁届を書き上げてから、私は毎日この執務室で引き継ぎ書を作り続けた。朝の業務手順。月次の税収計算の方法。交易商人ごとの取引条件と支払いサイクル。領民からの陳情の優先順位のつけ方。季節ごとの備蓄計画。
書けることは全て書いた。
──書けないことの方が、遥かに多かった。
北街道の穀物商グリッツ氏は、値引き交渉の際に必ず最初に高値を吹っかけてくる。二度断ると本音の価格を出す。三度目に断ると機嫌を損ねる。だから二度で止める。
南の薬草商ベルタ夫人は、毎年冬至の前に贈り物を届けてくる。その年の取引に満足していれば蜂蜜酒、不満があれば干し果物。干し果物が届いた年は、翌春の契約更新前にこちらから条件を見直す。
領民のヴェーバー老人は、陳情のたびに亡くなった妻の話を三十分する。その三十分を聞いてからでないと、本題に入れない。
こういうことは、引き継ぎ書には書けない。書いたところで、文字の上を滑っていくだけだ。
(でも、もう私の仕事ではない)
ペンを置いた。インクの染みが指先に残っている。九年間で何本のペンを使い潰しただろう。数えたことはない。数えても仕方がない。
引き継ぎ書を綴じ、机の端に置いた。帳簿は——私の速記で書かれた九年分の帳簿は、既に荷造りの箱に入れてある。
あれは私の手で書いたものだ。私の財産だ。持ち帰る権利がある。
公的な徴税台帳も領民名簿も、全て棚に残してある。けれどそれだけでは、交易商人との暗黙の取り決めも、領民への細かな配慮の数々も、再現はできない。
(……誰かが困るかもしれない)
一瞬だけ、そう思った。
一瞬だけだ。
◇
足音が廊下に響いた。軽く、少しだけ甘い香りを引きずるような足取り。
「奥様、お茶をお持ちしました」
扉が開いて、リゼッテが盆を手に入ってきた。
淡い金髪。伏し目がちな睫毛。細い首にかかった真珠の耳飾りは、先月ディートリヒが王都から持ち帰ったものだ。──客人への贈り物として。
「お気遣いなく」
短く返した。視線は引き継ぎ書に落としたままだ。
「まあ、奥様はいつもお忙しいのですね。私にも何かお手伝いできることがあれば──」
「ありません」
遮ったつもりはなかった。ただ事実を述べただけだ。
リゼッテが一瞬、唇を引き結んだのが視界の端に映った。すぐにまた微笑みを作り、盆を机の隅に置いて退室する。
お茶の湯気が立ち昇る。良い茶葉を使っている。この茶葉の仕入れ先を選んだのは私だった。
(……もう、どうでもいいことだ)
茶には手をつけなかった。
◇
離縁届は、ディートリヒの執務机の中央に置いた。
彼が王都から戻ったのは昨日の夕刻。リゼッテを伴って。帰還の宴の支度が使用人たちの間で慌ただしく進む中、私は自室で荷造りを続けていた。
夜更けに、私の部屋の扉が叩かれた。
ディートリヒだった。手に離縁届を持っている。
「これは何の冗談だ」
青灰色の瞳が真っ直ぐにこちらを向いている。レオと同じ色の目。背は高く、肩幅は広く、北方の魔物を斬った英雄の面影が、暗い廊下の灯りの中にあった。
(──ああ、この人はまだこういう顔ができるのか)
怒りではない。困惑に近い表情。自分の領地で予想外のことが起きた時の、指揮官の顔だ。
「冗談ではございません」
荷物を詰める手を止めずに答えた。
「九年間お世話になりました。帳簿は私の手元に。必要でしたら、ブレンナー商会を通じてご連絡ください」
ディートリヒが一歩、部屋に踏み込んだ。
「頭を冷やせ。お前が何に怒っているのか知らないが──」
「怒ってはおりません」
怒っていたら、二ヶ月もかけて引き継ぎ書など作らない。
「離縁届は王立公証院への提出用も作成済みです。三年以上の実質的別居──年間の同居日数が百日に満たないことを、使用人三名が証言いたします」
ディートリヒの表情が変わった。
困惑から、理解へ。そして理解から──何かを計りかねるような、奇妙な沈黙へ。
「……署名はしない」
低い声だった。
「ご署名がなくとも成立いたします。制度上の要件は全て満たしております」
私は荷箱の蓋を閉じた。留め金がかちりと鳴る。小さな音が、妙に大きく響いた。
ディートリヒは離縁届を手にしたまま立ち尽くしていた。何か言おうとして、言葉を探しているように見えた。
けれど結局、何も言わなかった。
彼は離縁届を執務机に放り──読みもしないで──部屋を出た。
足音が廊下の闇に消えるのを聞きながら、私は次の荷箱に手を伸ばした。
(読まなかった)
あの離縁届には、全ての条項が記してある。財産分与のこと。帳簿の持ち帰りのこと。そして──最後の条項。
読まなかったのは、あの人らしいと思った。
荷箱の中から、一枚の紙が顔を出した。ノイマン商会への発注書の控えだ。秋口に出した麦の保存樽の手配。
(これはもう要らない)
一度は戻しかけて、手を止めた。
(……いや、商会で使うかもしれない)
鞄に入れた。それだけのことだ。
◇
翌朝は晴れていた。
辺境伯邸の玄関前に、ブレンナー商会の馬車が一台止まっている。父が手配してくれたものだった。
レオの手を取って、玄関の段を降りる。使用人たちが何人か見送りに出ていた。マルタが目を赤くしている。私は小さく頭を下げた。
「奥様──」
マルタの声が震えた。
「マルタ。ありがとう」
それだけ言って、レオを馬車に乗せた。
レオが窓から屋敷を見上げた。五歳の目に、この大きな石造りの建物はどう映っているのだろう。
「お母さま、どこに行くの?」
「笑える場所を探しに行きましょう」
レオが不思議そうに首を傾げた。意味はまだわからなくても、いつかわかる日が来る。
馬車が動き出した。車輪が砂利を噛む音。窓の外を北方の山々が流れていく。
九年間見続けた景色だった。
レオが私の膝に頭を預けて、すぐに眠った。子供は馬車の揺れに弱い。規則正しい寝息が、車内に小さく響く。
レオの髪を撫でながら、窓の外に目を向けた。山々の稜線が遠ざかっていく。
涙が一粒、頬を伝った。
一粒だけだ。
レオに見えないように、指先で拭った。九年分の涙にしては少なすぎるし、これから始まるものの重さに比べれば──何でもない。
馬車は南へ向かっている。ブレンナー商会のある街へ。
帳簿の詰まった荷箱が、足元で小さく揺れていた。




