羽音の主
(あぁ、まただわ……)
京子はブゥゥンと耳元で鳴る羽音にそう思う。
小学生の時に京子はイジメに遭った。
その時に男子が蜂の死骸を食べさせた時から、京子の強い感情の起伏に応じるかのように羽音がするようになった。
今程、自己的な理由で利用者の食事を半量に出来ないかと介護士に言われ、京子は苛立っていた。
高齢者施設の管理栄養士としては、最後の楽しみとなる食事くらい満足にしてあげて欲しいと思うのだ。
だが、現場では『時間がかかるからー』などど、30分しかかからない食事介助を厭う声が出た。
京子はそれに苛立っているのだった。
(30分で終わるのに、なんなのよ、あいつ!しかもあの言い方!一番腹立つのは、そんなあいつがフロアリーダーって事ね!どうなってのよ、うちの相談員は!!)
ブゥゥン、ブゥゥン
「五月蝿いな」
耳障りな羽音に京子の苛立ちは加速する。
「え?」
隣の席の同じ業種の職員が京子を見た。
「ううん、なんでもない。あはは……」
「そう?なんだか、顔色が悪いけど」
「平気だよぉ」
京子はそう言って顔の前で手を振るが、気分が悪い気がする。
ブゥゥン
(ウザイ!)
小さく舌打ちする。
ブゥゥン、ブゥゥン
まるで京子の苛立ちを喜んでいるかのようだった。
気分の悪さと、羽音を無視して、京子は仕事を再開しようとボールペンを手にしようとしたが、誤って落としてしまった。
(ボールペンまで苛立つわね)
舌打ちし、机の下のペンを取る。
「痛っ」
机の引き出しに髪が引っ掛かったようだった。
「最悪」
ブゥゥン、ブゥゥン、ブゥゥン、ブゥゥン……
(いい加減に……!)
全てに腹立つ。
どうにでもなれば良い…!
そう思っていると、突然の吐き気に襲われた。
幸い、京子の部屋の隣にトイレがあった。
京子は口から溢れんばかりのモノをベンキに吐いた。
「ひいっ」
己の口から出たモノに驚愕する。
それは蠢いていた。
白く長細く、横に線が入っている。
その時、口の端に何かが這う感覚がした。
京子は急いでそれを拭い捨て、便器の中身を流し、トイレから出た。
「はぁ、はぁ……」
手は汗ばみ、冷え、微かに震える。
「大丈夫?真っ青だけど」
ナースにそう言われて、首を振った。
「大丈夫じゃない……」
虫が口から出たとは言えず、京子は首をもう一度振る。
「早退して、病院行ったら?」
ドクターにどう言えと言うのか。
だが、しかし、まともに仕事なんて出来ないかと感じた。
「はい……」
隣の席の職員に後をお願いして、施設を出る。
頭の中は真っ白だった。
だが不意にあの生き物の蠢く様子が脳裏に浮かぶ。
(うっ……)
京子は走ったが、車に間に合わす、用水に吐いた。
「っ」
水のなかった用水にはさっきの同じあれが蠢く。
それらは丸々と太り、やがて蛹になり、その形が彼らが何者であるかを示していた。
やっぱり…と、どこかで京子は思った。
蛹には大きな目があり、長い触覚が折り畳まれ、丸い腹が無防備に横たわっていた。
それが動く。
モゾモゾと。
殻から出たい、とー
蛹が少し横に広がった気がした。
(離れなきゃ、離れなきゃー)
脳は警報を鳴らしているのに、体は全く反応しなかった。
まるで、頭と体が別物になってしまったようだった。
目がそれに釘付けになって、瞬きすら許されない。
目が乾き、涙が下からせり上がる。
ぼやける視界の中で、それだけがハッキリとした被写体であった。
それはゆっくりと己の蛹から這い出て、羽を乾かす。
乾いた羽は天に向かって伸び、ブゥゥンとよく知った音を立てた。
かつては物理的の法則上、飛べないはずと言われていた生き物は一匹、また一匹と羽化する。
このおぞましい光景が、美しく神々しいような気さえする。
彼らの羽は日の光を浴び、美しく反射する。
(あぁ、なんて綺麗なんだろう……)
そう思った時、京子はよく知った音に飲み込まれたのだった。
京子の中の怒りを巣喰っていたモノは彼女の外面を傷付ける。
通りかかった人の悲鳴に、それらは霧散し、そこにはかつて人だったモノが横たわる。
彼らは人の悲鳴など無視して、空に飛び立った。
彼らはブゥゥンと羽音を立て、次は誰のどの感情にしようか品定めするのだった。
そっと止まる木の枝や、綺麗な花の側で彼らはこちらを見ている。
そうきっと、あなたの側にもいるだろう。
《了》




