五.
第五話。おしまい。
五.
高校を卒業し、大学を卒業して数年、僕は地元から離れ普通のサラリーマンとしての人生を送っていた。
給料は特別高くもないが別に低くもない。男一人が普通に生きていくにはちょうどいい報酬を受け取りながら、僕は生きている。
僕の人生に足りないものがあるとすれば、それは異性との人間関係だ。高校生の頃に血迷ったことがあるから女性経験が全くないとは言えないけれど、今までの人生で彼女ができたことも高校生以来女性と身体を重ねたことも無い。
きっとこのまま仕事を続けて一人で年老いていくんだろうな。そんなことをぼんやりと思いながら毎日生きている。
ある日、仕事終わりにスマホを確認すると一件のメッセージが届いていた。
『今度の週末、時間ある? 久しぶりに飲もうぜ』
差出人は金沢だ。金沢とは高校卒業以降しばらく疎遠になっていたが、社会人になってから久しぶりに連絡を取ってみるとお互い割と近い場所で働いていることが分かった。
それ以来、予定が合う時に遊びに行ったり飲みに行ったりしている。ただ時間が経過していくだけの僕の人生には、貴重で大切な時間だ。
数日後、お互いの職場の中間地点にある個室居酒屋に集合し、近況報告をし合ったり仕事の愚痴を言い合ったりして楽しい時間を過ごす。金沢といる時だけは、自分が学生の頃に戻ったような感覚に陥る。
一通り会話が盛り上がり、お互いアルコールが回ってきたところで金沢は周りの目を気にするような素振りをし始めた。金沢がこの素振りを見せる時は、決まって恋愛や性に関する話をする時だ。本人が意識的にそうしているのか、ただの癖なのかは分からないけれど、僕は金沢のこういうところに親しみを感じる。
そして、金沢は声を潜めて話し出す。
「なぁ、蓮は彼女できたりしたか?」
「いや、残念ながらそんな予感も無いよ」
「そうか、よかった」
金沢はそういうと自分のバッグの中を漁り始めた。
僕に彼女がいないことに安心するなんて、なんて無礼な男なんだ。
「実はさ、お得意先の人からこれを貰ってさ、よければ蓮が貰ってくんね?」
そう言って金沢が取り出したのは、真っ黒なカードだった。最初は何かのポイントカードだろうかと思ったけれど、そのカードにはバーコードや説明書きのようなものは一切なく、金色の文字で『midnight bar』とだけ書かれている。
「何これ? ミッドナイト、バー?」
「これ、東京にあるバーの会員証なんだけど、よければ行ってみろよ」
「なんで僕に渡すの? せっかく貰ったんだから金沢が行けばいいのに」
「いやー俺はちょっと行きにくいところらしくてさ」
「なんで? 値段が高いとか?」
僕と金沢が住んでいる場所とこの店がある場所はそんなに離れていないらしいから、遠くて行きにくいわけではないだろう。それに金沢は大手不動産会社で活躍するバリバリの営業マンだ。僕との年収の差はかなりある。金沢が行けない店に僕が行けるわけがない。
金沢がこのカードを僕に渡す理由が分からず、首をかしげる。
「うーん、その店さ、聞いた話によると、その、エッチなことができるらしいんだよね」
金沢は言いにくそうに答えた。
なるほど、このカードは僕への慰めというわけか。
「俺、美春がいるからそういうところ行きにくいからさ。蓮は彼女いないし、今好きな人もいないんだろ? だから俺よりは蓮に渡した方がいいと思ってさ」
金沢には同棲している彼女がいる。どうやら近々結婚も考えているらしい。確かにそんな時期に危ない橋を渡るのは避けたいだろう。
「別に蓮が行きたくなかったら行かなくてもいいしさ、まぁとにかくそれはあげるわ」
金沢の口ぶりからすると、これは僕への慰めというわけではなく、ただの優しさのようだ。
そんな真面目な男の優しさを無下にするわけにはいかない。
「ありがとう、受け取っとくよ」
「おう、一応行ったらどんな店だったか教えてくれよ」
「分かった、でも行くか分からないよ」
僕はそう言ってカードを財布にしまった。
その日の夜、金沢と別れてから僕は自宅でmidnight barについて調べた。少し興味はあるけれど、手の届かない値段設定だったらこのカードは捨てるしかない。
しかし、店の名前を調べても住所以外の情報がほとんど出てこない。会員制のバーなだけあって中々情報が出回らないのだろうか。
僕はアルコールが回った頭で情報収集することが面倒になり、諦めて眠りについた。
数日後、僕は仕事帰りにmidnight barへと向かっていた。性欲に身を任せるような行動はしたくないが、正直言って興味がある。
前々から風俗店の類には興味があり、何度も行こうかと考えていたけれど、値段や高校生の頃に感じた自己嫌悪を思い出し、断念した過去がある。
でも、金沢にカードを貰ったのもいい機会だと思い、勇気を出して行ってみることにした。
それにバーと名を打っているのでいわゆる本番行為は行われないだろう。雰囲気だけ味わって帰るということができるかもしれないという予想も僕の背中を押した。
普段だったら絶対来ないであろうキラキラと栄えた街に降り立ち、ネットに書いてあった住所へと向かう。それはあるビルの一角にあり、案外すぐに見つかった。
人気のない路地から入口へと向かう。入り口のドアは会員証と同じく真っ黒に金色の文字で『midnight bar』とだけ書かれている。
何となくかしこまった雰囲気を感じ、ネクタイをしっかりと締めてからドアを開ける。
ドアの奥には受付があり、左手には先ほど開けたのと同じようなドアがある。
受付には中性的で整った顔立ちの男性が立っていて、僕と目が合うと深々と頭を下げる。黙って立っていれば女性と思えるほど美しい人だ。
「いらっしゃいませ、カードの提示をお願い致します」
僕は金沢から貰ったカードを取り出し、その男性に渡す。受付の男性はカードを受け取ると手元の機械にそれをかざし、操作を始めた。
僕が入店してからカードを受け取り機械を操作するまでの仕草、その全ての仕草が洗練されていて、前にテレビで見た一流のバレエダンサーを彷彿させた。
「お客様、このカードは紹介用のカードでございますね。失礼ですが、こちらはどなた様から受け取られたものですか?」
「えーっと、友人から貰いました。その友人は仕事関係で知り合った人から貰ったようです」
受付の男性は黙って僕の目を見る。もしかしたら、このカードは受け取った本人、つまり金沢しか使えないのではないか。
そんな一抹の不安が頭によぎる。
「承知いたしました。では、こちらにあなた様の情報をご入力ください」
僕の不安は杞憂だったようで、男性はタブレットを差し出してくる。僕はそれを受け取り、画面の指示に従って入力を進めた。
本名、生年月日、住所、年齢、職業、複数の連絡先、出身地、クレジットカード番号、様々な情報を入力に五分程の時間を要す。
入力を終えタブレットを返すと、男性は情報を確認し手元の機械を操作した後、僕の方を向いた。
「お待たせいたしました。加賀美様、こちらからご入店いただけます」
男性は僕の左手にあるドアを指し示す。
「ご入店の前にいくつかの注意事項を説明させていただきます。当店では、お客様同士の会話は禁止されております。また、品位に欠ける行動はお控えください。加賀美様は初めてのご来店ですので、本日ご利用できるのはバールームのみでございます。また」
男性は一度言葉を区切ると、僕の頭から足まで視線を這わせ、口を開く。
「当店にはあまりにカジュアルな服装や品位に欠ける服装でのご来店は禁止させていただいております。本日の加賀美様は、基準は満たしておりますが快く受け入れられる服装ではございませんので、次回以降お気をつけください。では、どうぞ」
男性はそう言い終えると、左手のドアを開ける。
今日はたまたま取引先の人と会う予定がありいつもよりしっかりとした格好で来ていて助かった。いつも着ているような安物のスーツでは入店さえできなかったかもしれない。
僕は受付の男性に会釈をし、中へと進む。
ドアの向こうにあったのは、薄暗い空間だった。全体的に黒を基調としたデザインで、右手にはバーカウンター、部屋の奥には四人掛けのテーブル席が複数設置されている。
僕はバーカウンターの端に座り、店内を見渡す。
部屋の中には店員と見られる人物が数人と客と見られる人物数人がいる。店員は全員同じような黒いスーツを着ており、受付の男性と同じく全員が美しい容姿をしている。飾り気のないスーツが似合う美男美女揃いだ。
性的なサービスが受けられる会員制のバーと聞いた時は金だけを持っている中年男性のような客しかいないのかと思っていたが、そうでもないらしい。僕以外の客は高級感はあるが決して派手ではないスーツやシックなドレスに身を包んでいる。
最も驚いたのは、客が男だけではないということだ。奥のテーブルで女性の客と店員が談笑をしている。
一体、このバーはどういう層の人間が来るんだ。
「加賀美様、ご注文は」
店内を見回し続けていると、不意にバーテンダーに声をかけられた。
そういえば、店の雰囲気に圧倒されて注文をしていなかった。
「じゃあ、ウイスキーをロックでください」
「銘柄にお好みはありますか?」
「いや、おすすめでお願いします」
「かしこまりました」
僕が注文をすると、バーテンダーは目の前にある酒瓶を手に取る。
受付の男性と同じく、流れるようなバーテンダーの動きを僕は見入ってしまう。
「お待たせしました」
数分後、僕の目の前にウイスキーとナッツが置かれる。
それをチビリと飲みながらふと店の奥に目をやると、衝撃の光景が飛び込んできた。
先ほど談笑していた女性が、今は店員の女性と口づけをしている。
僕は思わずせき込んでしまった。静かな店内には僕のせき込んだ音と粘着質のものが絡み合うような蠱惑的な音が響く。
自分を落ち着かせながら店内に目をやると、他の客も同様に店員と唇を重ね、舌を絡ませている。そこに男女の区別はない。女と男、男と男、女と女、美男と美女の両方の店員が客と口づけを交わしている。
誰も恥じらう様子もなく、当たり前のように行われているその行為は、あまりにも綺麗で品があり、性欲を解消しているようにも愛を育んでいるようにも見えない。ただ羽ばたいている蝶のような、夜空に浮かぶ星のような、そんな美しささえを感じる。
すると、一人の男と一人の店員が共に店の奥にあるドアの向こうへと消えていった。その奥には何があるのかは分からなかったが、奥で何が行われるのかは容易く想像できた。
その異様な雰囲気に圧倒されていると、先ほど自分が入って来たドアが開き、一人の女性が入店してくる。
長い黒髪をなびかせた花のように綺麗な女性だ。その女性が僕の横を通り過ぎる瞬間、一瞬だけ合ったその目が大きく見開かれた。
「レン、くん?」
唐突なことで訳が分からない。
この女性は僕のことを知っているのだろうか。仕事先で会った人か、それとも大学時代の同級生か。それを確かめようと女性の顔をよく見ると、そこには忘れもしない見覚えのある顔があった。
「長谷川、さん?」
僕の初恋の相手で僕に唯一の経験をさせてくれた相手がそこにいた。
「なんで、レンくんがここに……」
「僕は、紹介のカードを貰って、長谷川さんこそなんで」
「私は、その」
彼女がそう言いかけたところで、バーカウンターの向こう側から声が飛んでくる。
「加賀美様、長谷川様、ここではお客様同士の会話は禁じられております。守れないのであれば退店願います」
会話が遮られ、言葉を封じられた僕と彼女は数秒間視線を交わす。
数秒後、彼女は踵を返して店を出て行った。
一瞬だけ呆気に取られていたが、僕は急いでウイスキーの飲み干し、せき込みながら会計を済ませる。値段を聞く余裕もなかったが、とりあえずクレジットカードで手早く決済を終わらせて店を出た。
周りを見回すと、彼女は店の前で立ち止まっていた。僕は彼女に駆け寄り、目の前に立つ。彼女は焦ったような困ったような表情を浮かべながら僕の目を見る。
その様子を見て、しまったと思った。長谷川さんを見た瞬間、高校生の頃に抱いていた執着心や恋心が掘り起こされ思わず追いかけてきていまったが、よく考えればあのような店で知り合いに会ってもお互い気づかないふりをし、お互いのことを決して口外しないことが当たり前のマナーだ。
それなのに僕は、明らかに僕から逃げた彼女を追いかけ、追いついてしまった。これから先どうすればいいのか自分でもわからない。彼女に何を言うべきか、何も言わずに立ち去るべきか。僕はより常識的な選択をしようと頭を働かせる。
しかし、一度掘り起こされた彼女への執着心と恋心はすぐに僕の身体を駆け巡り、頭と心を支配する。
高校生の頃、唐突にいなくなってしまった彼女と突然再会した。こんな機会を何もないままで終わらせたくはない。
強い感情に支配された僕の頭が、彼女と一緒にいることを選択する。
「よければ、お茶でもどうですか……?」
数十分後、僕と彼女は近くにあった喫茶店の店内で向かい合っている。彼女はアイスティーを、僕はブラックコーヒーを片手に、無言の時間を過ごす。
感情に身を任せて彼女を誘った僕には、彼女と話すことなど持ち合わせてはいない。
「久しぶりだね」
何も出来ないでいる僕の代わりに、彼女が口を開く。
「そうですね」
「高校以来だから、九年ぶりくらい?」
「そのくらいですかね」
「……お互い大人だね」
明らかに気まずさを紛らわすための会話だ。
わざわざ来てもらってこんなことをさせていることに、僕は申し訳ないと思う。
「なんで、三年生の時転校したんですか?」
何を話せばいいか分からない僕は、この九年間心の奥底で抱き続けていた疑問を、彼女に投げかける。
僕の問いに、彼女は黙る。何回か何かを言いかけ、下を向き、悩んでから彼女は口を開いた。
「実は私、高校生の頃からレンくんのことが好きだったんだ」
彼女の口から出た予想外の言葉に、僕は思わず目を見開いた。
「文化祭準備の時、覚えてる? あの時君に拒絶されて、恥ずかしくなって転校したんだ」
もちろん覚えている。何故ならそれは僕が好きだった人との最後の会話だったから。
しかし、彼女と僕の間ではあの時の記憶に相違があるようだ。高校生の頃長谷川さんが好きで、思い返すと気持ちの悪い程執着し、彼女を見続け、その心を大人になっても忘れられない僕が拒絶なんてするはずがない。彼女は勘違いをしている。
「長谷川さん、僕は長谷川さんに恋をしてたんだ。僕は長谷川さんのことを拒絶なんてしてない。僕は」
その後、僕は長谷川さんに想いを伝え、お互いの連絡先を交換した。数週間後から、高校生の頃思い描いていたような彼女との日々が始まった。
その日々の中で、僕は彼女に、彼女が好きで彼女をずっと見ていて彼女のことが忘れられないということを伝えた。彼女は僕に、僕を好きになった理由と経緯、依存症とも呼べる彼女の嗜好のこと、大人になってもそれが続いていること、僕と同じように彼女も僕のことを忘れられずにいたということを伝えた。
彼女がmidnight barに通っていたのは、誰にもバレずに自分のことを満たすためだったらしい。そこに運悪く、いや、運良く僕が居合わせてしまったというわけだ。
それからは、彼女は僕といることで自分を満たし、僕は彼女といることで人生が鮮やかになった。
僕と彼女を繋ぐきっかけとなり、僕が憧れ彼女が依存していたセックスは、そこにはいらなかった。
一年後、僕と彼女は結婚し、それと同時に同居を始めた。
婚姻届を提出した日の夜、僕と彼女は十年ぶりに身体を重ねた。
ここまで読んでくださりありがとうございました!
よければブクマや評価、感想よろしくお願いします!