三.
文化祭の準備。
三.
「それではうちのクラスの模擬店はレトロ喫茶にしたいと思います」
学級委員がクラスのみんなにそう告げた。
この学校では、秋に行われる文化祭で各クラスが模擬店を出すことになっている。大抵のクラスは焼きそばを作って売ったり、教室で何らかの展示をしたりする。
そんな中、うちのクラスの模擬店はレトロ喫茶となった。最初はメイド喫茶という案も出ていたが、クラスの女子大半からの反対を受け、今の形に落ち着いた。
長谷川さんはメイド喫茶に反対してはいなかったから僕としてはメイド喫茶になった方が嬉しかったけれど、男子の下心丸出しの提案が通るわけがなかった。
飲食系の模擬店は準備に時間がかかる。看板や教室内の装飾といったものを作らなければいけないし、食材の調達先だったりメニューを考えなくてはいけない。まだ文化祭まで一か月くらい時間があるけれど、これからは週に二日、放課後に文化祭準備のための時間が取られることになった。
「では、準備に関する役割分担を行いたいので、各自希望する作業を黒板に書いていってください」
クラス全員が席を立ち、黒板に向かって列を作る。みんな色々と悩みながら『食材班』や『装飾班』と書かれた文字の下に正の字を書いていく。
「蓮はどこにする?」
順番を待っていると、金沢がそう尋ねてくる。
「うーん、特に希望はないから人が少なそうなところかな」
「食材班はめんどくさそうだからやめた方がいいぞ。買い出しとか注文とかしなきゃいけないっぽいから」
「そうなんだ、じゃあ装飾班か看板班にしようかな」
金沢からの忠告を参考にして、僕は正の字が二番目に少なかった装飾班に棒を付け足す。
金沢と同じことをみんなが思ったのか、『食材班』という文字の下に書かれた正の字は他の班の三分の一程度だった。
「食材班の人数が足りないので、全ての班の人数が均等になるようにジャンケンで負けた人は他の班から移ってもらいます」
食材班以外を希望した生徒が教室の後方に集められ、ジャンケンが行われる。僕は早々に勝ち抜け、金沢は最後まで勝つことが出来ずに食材班に移されていた。
長谷川さんもジャンケンに勝ち、僕と同じ装飾班になった。
その日から、毎週水曜日と金曜日の放課後は、食材班は買い出しや予算、メニュー決め、看板班は体育館で看板づくり、装飾班は教室で装飾を考えて作ることになった。
「明日から近所のスーパーに注文しに行ったり買い出しに行ったりしなきゃなんだよなー」
文化祭についての話し合いから一週間、一緒に昼ご飯を食べている時に金沢がそうぼやく。
「お疲れ、大変そうだね」
「絶対めんどくさい、買い出しは荷物が重いからって男子に丸投げだし。そっちは教室で作業するだけだから楽だよな」
「そんなことないよ。装飾をどうするかとか何を用意すべきかとかで意外と決めるのに時間がかかってる。まぁ、僕はほとんど話し合いに参加してないけど」
「装飾班って長谷川さんもいるだろ? なんか話したりした?」
「いや、特には。班が一緒って言っても男子は男子、女子は女子で固まってるし、やってることもバラバラだよ」
「そうかぁ、残念だな」
「そうでもないよ、特に話すことも無いしね」
心からそう思っている。もちろん、どちらかと言えば彼女と話したいけれど、週に二回、彼女と同じ空間で過ごし、彼女を長時間見ることが出来る時間があるだけで僕は十分幸せだ。
「まぁ、一回ぐらい話せると良いな」
金沢のその言葉に、僕は肯定とも否定とも取れないような笑みを返す。
その日の放課後、僕も長谷川さんもいつも通り教室で文化祭の準備を進めていた。僕はメニュー表を作り、彼女は壁に取り付ける装飾を作っている。
チラチラと彼女の様子を確認しながら、僕はメニューの名前と値段を間違えないように書き込んでいく。
「ちょっと食材班にメニューの確認してくる」
クラスメイトが教室全体に知らせるようにそう言って、教室を出て行った。僕も彼女も作業を続ける。
「装飾の材料まだあるか見て来るね」
また別のクラスメイトが先ほど出て行ったクラスメイトと同じように宣言し、教室を出ていく。僕も彼女も作業を続ける。
そんなことが複数回続き、誰が示し合わせたわけでもなく教室内の人間がどんどん減っていった。
気づけば、夕日に照らされた教室内は僕と彼女の二人きりになっていた。
今なら彼女と会話ができる。むしろ会話しなければ少し不自然な状況だ。
言霊というものは本当にあるのだろうか。昼休みにあんな話をした後に訪れたこの状況に、僕はそう思う。
絶好の機会だし、彼女と会話したい気持ちはあるけれど、何を話せばいいのか分からない。彼女とは友達ではないし、ただ毎朝挨拶をするだけの関係だ。
彼女との会話のことばかりを考え、作業が滞る。一分、五分、どんどん時間は経過するが、会話の種は浮かばない。
「メニュー表の方は終わりそう?」
僕の手が完全に止まったところで彼女が話しかけてきた。
「うん、順調だよ」
いきなりのことで少し反応が遅れてしまったが、緊張が伝わらないように返事をする。
僕が無難な回答をしたせいか、教室は再び静寂に包まれてしまう。
「そっちは?」
一度話しかけられたことで静寂が余計に気まずくなり、思わず自分から話しかける。
「うーん、こっちも順調だけど最終的にどれくらい作ればいいのか分からないから何とも言えないかな」
「そっか、大変だね」
「お互い様だね」
教室は三度目の静寂に包まれる。しかし、今回の静寂は三秒も経たず、彼女によって破られた。
「こうやってちゃんと話すの、去年誘ってくれた時以来だね」
彼女のその言葉で、頭の中の奥深くにしまってあった去年の記憶が掘り起こされる。
去年の春、この学校に入学して、僕は長谷川さんと同じクラスになった。入学式の日に自己紹介で彼女を見た時、綺麗な人だなと思った。その時はまだ恋心なんて芽生えていなかった。春に咲く桜を見た時と同じような気持ちで、ただ綺麗だと思った。
去年の夏、彼女の噂を耳にした。最初は悪意のある人間が広めたただの噂話だと思ったけれど、その噂はどんどん広まり、何度も耳にするようになった。色んな人から教えられ、実際に噂を体験した人の話も聞き、それがただの噂ではなく、紛れもない事実だということを知った。それを知ってから、僕が彼女を見る目と彼女に抱いた印象が変わった。
去年の秋、ちょうど今と同じ時期、僕は人目につかない時と場所を選び、彼女に僕とセックスをして欲しいと頼んだ。その時の僕は、今まで異性と触れ合ったことがほとんどないことからくるコンプレックスや性行為への憧れ、興味、性欲しか頭になかった。彼女を性行為の対象としか見ていない僕の頼みを彼女は真顔で受け入れ、自宅の住所が書かれた紙を渡してきた。
その数日後、僕は彼女の自宅を訪れ、人生で初めて女性と身体を重ねた。数時間、彼女が住むマンションの一室で過ごし、日が落ちてから帰宅した。その日、家に帰るまでは高揚感に包まれていたが、帰宅してからは付き合ってもいない人間とセックスをしてしまったことへの罪悪感とそんなことを同じクラスの女子に頼んだことへの自己嫌悪に苛まれた。
去年の秋から冬、学年が上がるまで僕は彼女とほとんど目を合わせず、会話もしていない。彼女とは友達だったわけじゃないから元々会話と呼べるものをしたことは無かったけれど、罪悪感、自己嫌悪、気まずさ、羞恥心、己が行ったことの隠蔽、様々な感情が渦を巻き、自分から彼女に関わることも、彼女を見ることすらできなかった。
そして、今年の春、毎日挨拶をしてくる彼女に僕は恋をした。今年の春から抱いたこの感情は、去年のものとは全く違う。
去年の僕はただの性の対象として、今年の僕は思いを寄せる相手として、彼女を見ている。
「私のこと嫌いになったりした?」
彼女の言葉で、僕の意識は過去の記憶から現実へと引き戻される。
「いや、嫌いになったりしてないよ」
僕は強く否定する。
「そっか、よかった」
彼女は少しだけ恥じらうように下を向いている。
「もう一回、誘ってくれたりしないの?」
彼女は下を向きながら訪ねてきた。
想いを寄せる人からの、行為の誘い。羞恥と性欲が熱になって僕の身体の中を駆け巡る。声にならない声を出し、少し迷ってから迷っている自分のことを嫌いになって口を開く。
「誘わないかな」
そう言うと、彼女は僕の目を真っ直ぐ見た。
「どうして?」
彼女は先ほどまでの恥じらいを感じさせない眼差しで問い詰めてくる。
性行為に誘わない理由は、僕が彼女を好きだからだ。しかし、そんなことを今この場で伝える気にはならないし、好きだから性行為に誘わないというのは一見相反しているように聞こえて、回答にならない気もする。
「そういうこと、したいとは思わないから」
「私のことを誘った人は、一回ヤったらその後何回も誘ってくる人がほとんどなんだ。少なくとも、一回で終わってるのはレンくんだけだよ」
「そうなんだ」
「なんで誘ってくれないの? 私、気持ちよくなかった?」
彼女の問いで、去年の彼女の部屋での出来事が鮮明に思い出される。そこで感じた熱も感触も何もかもが脳裏に浮かぶ。
「いや、そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、なんで」
「長谷川さんと性行為したいとは、今は思わないから」
僕の言葉が彼女の耳に届いた瞬間、彼女の目から光が消えた気がした。
彼女は再び下を向いて、床に落としていた装飾を作るための材料を手に持った。
「そっか、ごめん」
彼女はそう言うと、会話を終えて装飾作りを始めた。
それ見て僕も作業に戻る。沈黙に包まれた教室は相変わらず気まずかったし、何故彼女があんな質問をしたのか、何故僕を誘ったのか、何を考えているのか、彼女に聞きたいことが尽きなかったが、彼女からはもう会話をする意思を感じなかった。
数分後、クラスメイトが戻り、再び静寂が訪れることはなかった。
文化祭の準備は滞りなく終わり、レトロ喫茶の模擬店は盛況で幕を下ろした。あの時の教室での会話以来、僕と彼女が言葉を交わすことはなかった。
そして、学年が三年生に上がった年の春、彼女は転校した。
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