一.
新しい連載。一気にあげる。
僕が好きな子は、ビッチだ。
クラスの男子と、何人も、何度も、身体を重ねているらしい。実際見たわけではないけれど、みんな口々にそう言っているし僕の知り合いの中には実際に彼女と致した人間もいる。
彼女が多くの人と身体を重ねているのはただの噂ではなく、紛れもない事実だということを僕は知っている。
そんな彼女に僕は恋をしている。
一.
「おはよっ、レンくん」
「あ、おはよう。長谷川さん」
朝の教室、自分の席で一限目の支度をしていると同じクラスの長谷川 瞳さんが挨拶をしてくる。
長谷川さんと僕は同じ高校で同じクラスの、ただのクラスメイトだ。二年連続で同じクラスということもあり、全く知らないわけではないけれど友達とも言えない距離の関係だ。
入室と同時に僕に挨拶をした長谷川さんは、窓際にある自分の席へと真っ直ぐ向かっていく。
それを横目で追い、机の上に出された教科書に目を戻す。僕が長谷川さんを直視ではなく横目で見るのは、僕に勇気と度胸がないからだ。
「蓮、今日の古典の宿題見せてくれない?」
同じクラスの金沢 晴翔、彼も去年から同じクラスで、お互いがお互いの、高校での初めての友人だ。今では悪びれもなく宿題を見せる仲になっている。
「うん、いいよ。昼休みまでに返して」
「ありがとう、助かるー」
僕は古典のノートを金沢に渡す。金沢にはほぼ毎日のように宿題を見せているが、僕が金沢に宿題を見せてもらったことはない。金沢が宿題を忘れた日は僕が宿題をやっているけれど、僕が宿題をやらなかった日は金沢も宿題をやっていないからだ。
「そういえば、今日も挨拶されてたな」
僕のノートを小脇に抱えたまま、金沢は会話を始める。
挨拶とは、長谷川さんからの挨拶のことだ。
「そうだね、今日も律儀にしてくれたよ」
「なんでいつも挨拶してくれるんだろうなぁ」
金沢の言う通り、長谷川さんは毎朝僕に挨拶をしてくれる。理由は分からない。
「僕の席がドアの真ん前だからじゃない?」
「普通それだけで律儀に挨拶なんてするか?」
「他に理由がないからね」
「やっぱり、蓮のこと狙ってんじゃない?」
「いや、そんなのあり得ないって。長谷川さんとはまともに話したこともないんだよ」
「でも、長谷川さんっていったらあの話があるし、気になる男子を見境なく狙っててもおかしくないからな」
確かに、『長谷川さんが僕を狙っている』という説も完全に否定はできない。
金沢の言う『あの話』とは、長谷川さんの素行に関するものだ。
端的に言うと、長谷川さんはこの学校の色んな男子と関係を持っているらしい。関係というのは肉体関係のことだ。
その関係が、一夜限りのものなのか、継続的に行われているものなのかは色んな説や噂があって定かではないが、『長谷川さんが色んな人と関係を持っている』というのは紛れもない事実らしい。
僕はその事実を聞くたびに、ささくれが引っ掛かった時のように胸が痛む。
「うーん、そうかなぁ。でも長谷川さんは僕なんか相手にしないよ」
僕は不本意ながらやんわりと否定する。金沢はそんな僕の否定に同意する。
「まぁな、俺が言うのもなんだけど蓮とヤってもあんまり面白くなさそうだしな」
「それはちょっと傷つくなぁ。僕だってやる時はやる男かもよ」
「一回もやる時が来たことないのに?」
デリカシーの無い金沢の言葉に、僕は黙るしかない。
生まれてからこれまで約十七年間、僕は女性と特別な関係になったことがないし、女性に特別な感情を抱いたこともなかった。そんな僕だが、今人生で初めての恋をしている気がする。
恋の相手は、さっき僕に挨拶をしてくれた長谷川さんだ。
僕は長谷川さんのことが好きだ。長谷川さんが多くの人間と関係を持っていると聞くと、何か言いたいけど何も言えない気持ちで胸が苦しくなる。
その日の昼休み、金沢から古典のノートを返してもらい、一緒に弁当を食べていた。
「そういえば、長谷川さんってさ、なんであんなにうまくやれてるんだろ」
「うまくって?」
「だって、普通あんな噂があったら女子の友達とか離れていきそうじゃん? でも、教室でも部活でも友達いるし、なんならクラスのカースト上位で人脈広いタイプだろ? その二つが両立できてるのが不思議でさ」
金沢の言う通り、長谷川さんは友達が多い。教室ではいつも誰かと一緒にいるし、所属しているバレー部でもちゃんと練習に励んで、部員との健全な絆もあるようだ。
「案外女子はそういうこと気にしないんじゃない?」
「いやぁ、女子こそそういうこと気にするだろ」
「じゃあ、そもそも噂を知らないとか」
「それこそないだろ、女子なんて噂好きなんだからあんなに有名な噂を知らないわけがない」
「女子だから噂好きっていう決めつけは今の時代相応しくないよ」
そんな軽口を叩きながら、僕は長谷川さんのことを考える。
僕が思うに、長谷川さんに友達の多い理由は人当たりの良さにあると思う。顔が整っているというのもあるけれど、長谷川さんには人が不快だと感じる要素が全くない。誰と話す時も表情豊かだし、話は面白いし聞き上手だし、価値観を押し付けることも正義感を振りかざすこともない。
僕みたいなただのクラスメイトに毎朝挨拶をしてくれるような律義さも兼ね備えている。複数人と肉体関係を持っていること以外は、人から好かれる要素しかない人だ。僕はそんなところに惹かれた。
まぁ、僕は長谷川さんとまともに会話したことが無いし、長谷川さんを一方的に観察した結果そう思っているだけだから本当の理由は全然違うかもしれないけど。
「俺は、女子たちは実は表面上だけ仲良くしてて、裏では長谷川さんに対する悪口三昧だと思うなー」
金沢はいやらしいけど的確な予想を立てている。
「そうかなぁ、でも長谷川さんが嫌われてるなんて噂聞いたことないよ」
「そりゃ長谷川さんの噂なんてアレ以外流れないだろ。長谷川さんといえばアレ、アレと言えば長谷川さんなんだから」
教室という場所のTPOに合わせた金沢の発言は、考えたくはないがとても現実的だと思う。
そうであって欲しくない。好きな人が学校中の男子と身体を重ねている上に不特定多数の人間から嫌われているなんて状況になったら、僕は怒りと悲しみと嫉妬と失望を混ぜたものに押しつぶされてしまう。
金沢と話しながら、長谷川さんのことを見る。
僕らと同じように教室で弁当を食べている。長谷川さんはニコニコ笑い、周りにいる女子も笑っている。
僕はあの笑顔が薄皮一枚でないことを願った。
そうやって観察していると、長谷川さんが横目で僕を見た。
僕は焦って目を逸らす。見ていることがバレたのだろうか、気持ち悪いと思われただろうか。
目が合ってしまったことへの不安と少しの嬉しさに頭の中を占領され、その後の金沢との会話には全く身が入らなかった。
昼休みを挟んで午後の授業、今日行われるのは生物だ。
僕は生物の授業が好きだ。生物の授業が面白いとか、生物の成績がいいとかそんな健全な理由ではない。
理由は、長谷川さんをたくさん見ることができるからだ。
移動教室の席順では、僕の斜め前に長谷川さんがいる。僕が将棋の桂馬だったら長谷川さんの席にぴったりと止まれる位置関係だ。
生物の授業中、僕は半分以上の時間を長谷川さんの観察に充てている気がする。自分でも気持ち悪いと思うけど、誰の迷惑にもなっていないし許されるはずだ。
今日もいつものように長谷川さんに視線を向ける。しかし、僕の視線はいつもとは違う場所に吸い寄せられた。
長谷川さんの下着が透けている。僕は慌てて視線を逸らした。
今の暑い時期、女子の下着が透けてしまっているのはそこまで不思議なことではない。ワイシャツの性質上、金具の突起や生地の多少の凹凸が見えてしまうのは避けられないらしい。
しかし、今日の長谷川さんはそのレベルではない。色と形がぼんやりと分かるぐらい透けている。
長谷川さんの下着は、普通の女子高生が着けるものにしては少し大人っぽいと思えるものだ。女性用の下着に詳しいわけではないけれど、機能性寄りは芸術性を重んじたようなデザインな気がする。
そこまで考えて、無意識に下着の観察をしてしまっている自分に気づいた。
いくら見えるからと言ってジロジロと見るのは良くないと思う。良くないとは思うが、願望と興味によって目が勝手に動かされてしまう。
長谷川さんを見ているのか、長谷川さんの下着を見ているのか自分でも分からないまま、僕はチラチラと見続ける。
そうやって理性に反抗した観察を続けながら、考える。何故長谷川さんはあの下着を着用しているのだろうか。
自分が着用している下着が透けてしまうかどうかなんて、きっと女子なら完璧に理解しているだろう。それなのに長谷川さんはあの下着を選んだ。今まではそんなことなかったのに、この薄着になることが必須な気候の中、あの下着を着用した。
一体何故だろう。あの下着をつけなければいけない理由があるのだろうか。
そこまで考えて、僕は嫌な想像をしてしまった。
もしかして、この後予定があって、その予定のためにあの下着を着用しているのではないか。人に見せるためならあのデザインに納得がいくし、下校直後にその予定があるのなら学校に着用してきていることにも説明がつく。
そして何より、長谷川さんならそんな予定があってもおかしくない。
自分で苦い想像をしてしまってからは、先ほどまでの興奮は波を引いて行った。
しかし、僕の眼球はまだ透けた下着に興味があるらしく、チラチラと目で追ってしまう。視界に下着が映るたび、僕の心は痛み、悲しみと失望で満たされていく。
目に映り、落ち込み。目に映り、頭を抱え、目に映り、悲しくなる。
この日の生物の授業はその繰り返しで、結局授業内容は一切頭に入ってこなかった。
悶々とした気分でチクチクと心を痛めながら、放課後を迎える。クラスメイトが部活に向かったり下校したりする中で、僕は身支度のふりを続けていた。
カバンに教科書を詰めるふりをしながら、友達と話している長谷川さんを見る。
今日、この後、誰かと合流するのか、どこへ向かうのか、何をするのか。自分にとって嫌な想像で頭が埋め尽くされる。今すぐ何も見ずに走って家まで帰りたいと思うと同時に、長谷川さんが話す人や向かう場所を見続けたいという欲が僕をこの場に縛り付ける。
長谷川さんがどこへ行こうと、どうせ教室を出るまでしか見ることはできないのに、せめて教室から出るまででも見ていたいという気持ちに駆られ、カバンをいじり続ける。
今の僕は、尾行や盗聴や盗撮を行っていないだけで、ただのストーカーだ。自分でも相当気持ち悪いと思いながらも、誰からも咎められず怪しまれず責められないということが免罪符になる、それなら何をしてもいいと勝手に決めつけてしまっている。
そんな心と体が乖離している状況で長谷川さんを見続ける。
「じゃ、私帰るねー」
教室中に聞こえる声で彼女は友達に別れを告げる。
これでようやく僕も帰れる。
彼女が誰かの下へ行ってしまう。
安堵と悲しさを感じながら、僕は本当の帰り支度を始めた。
彼女が教室を出るために僕の前を通り過ぎる瞬間、今日最後となる彼女の姿を目に焼きつけようと顔を上げると、彼女は横目で僕を見ていた。
昼休みの時と同じように、一瞬だが確実に僕は彼女と目が合った。僕は昼休みと同じように不安と嬉しさを感じる。
彼女は颯爽と教室を出た。数分後、僕はトボトボと教室を出る。
もしかしたら、彼女は僕がノロノロと帰り支度に時間をかけ、自分のことを見ていると気が付いていたのだろうか。そんな考えが頭をよぎるが、今となってはどうでもいいことだ。
きっと彼女はこの後、僕が知っているかもしれない誰かと甘美な時を過ごすのだろう。
あくまでこれはただの予想だが、紛れもない事実に基づいた予想だ。自らの頭から出力されたそんな予想に胸を押しつぶされながら、僕は自宅へと足を進めた。
それでも彼女が好きな自分に、僕は日付が変わるまで苦しめられた。
次の日の朝、いつも通り登校し、いつも通り席にいると、いつも通り挨拶される。
「おはよっ、レンくん」
「あ、おはよう。長谷川さん」
ただいつも通りなのは挨拶までで、彼女と僕の間で数か月ぶりとなる言葉のキャッチボールが始まる。
「最近さ、よく目が合うよね」
僕の心拍数が一瞬にして跳ね上がる。彼女の『最近』がどの程度の範囲を示しているのかは分からないが、昨日のように彼女を観察していることに気づかれているのだとしたら、とてもマズイ。
「そう、かな? たまたまじゃないですかね」
僕は下手くそな演技で白を切る。
「えーそうかな。なんか私に用があって見てたとか、そういうことではない?」
「いや、特に用は無いよ」
「そっかー、じゃあ、私の勘違いかもね。ごめんごめん」
そう言って彼女は自分の席へと向かった。
危なかった、ひとまず胸を撫でおろす。僕が彼女に想いを寄せていることに彼女はどれくらい気づいているのだろうか。できれば何も気づいていないでほしい。
この学校に僕のような人がどれだけいるかは分からないけれど、この学校の男たちの長谷川さんに対する印象は『頼めば近づける人』だ。恋人同士がするようなこともできるし、0.01mmの距離まで近づくこともできるだろう。
そんな人を本気で好きだと知られたら周りの人間からも彼女本人からもどう思われるか分からない。後ろ指指されるかもしれないし、軽蔑されるかもしれない。
僕のこの気持ちは、出来れば誰にも知られたくない。
「蓮、数学の宿題見せてくれない?」
この気持ちは、一番の親友と呼べる金沢にも話してはいない。
「いいよ、授業前までに返して」
「さんきゅー、なんか今日は話しかけられてなかった?」
きっと長谷川さんの話だろう。この男は毎朝よく見ている。
「うん、話しかけられた。ちょっとだったけどね」
「なんの話?」
「なんか『最近よく目が合うねー』って」
長谷川さんとの会話の内容を聞いて、金沢はホクホクとした顔になった。
「なに、長谷川さんのことずっと見てるの?」
「いやいや、そんなことないよ。たまたまだって」
「毎日挨拶されて、好きになっちゃった?」
「ちょっ、そんなことないって」
図星だ。それが全てとは言わないけれど、僕が長谷川さんを好きになったきっかけは毎日挨拶をしてくれるからだ。
自分でも「そんな些細なことで?」とは思うけれど、好きになってしまったのだから仕方がない。
金沢に図星を突かれたが、必死に平静を装って誤魔化す。女子に挨拶されたから好きになっちゃいましたなんて、そんなピュアな小学生みたいなこと言えない。
「まぁでも、好きなら頼めばヤらせてくれるんじゃない? あ、もしかして本当に好きな子とはそういうことしたくないタイプ?」
「だから好きじゃないって、長谷川さんとそういうことする気もないし」
二つの嘘をついた。僕は長谷川さんのことを好きだし、長谷川さんとセックスをしたい。でも、こちらから頼んでするなんてことはしたくない。長谷川さんとはしっかりと付き合って、しっかりと段階を踏んだ上で身体を重ねたい。
『長谷川さんは頼めばヤらせてくれる』という文言を聞くたびに、嫌な気分になる。僕が心から求め憧れている行為とそこらにいるただの男子高校生が性欲処理のために行う行為が同じだという事実が僕を苦しめる。
「まぁまぁそういうなって、蓮は彼女もいないんだし、一回ぐらい頼んでみれば? 一回ヤればその相手が本当に好きかどうか分かるって言うし」
「これ以上からかうなら宿題見せないよ」
「いやっごめんごめん。見せてもらわないと困る」
僕が数学のノートを奪う素振りを見せると、金沢はからかうのをやめて席に戻ってくれた。あれ以上言われていたら、長谷川さんへの好意と噂に対する嫌悪感で金沢を嫌いになってしまいそうだ。
金沢からの責め苦に耐えた僕は、授業の準備をしながらチラッと長谷川さんの様子を伺った。
楽しそうに友達とおしゃべりしている。
彼女は、昨日の放課後誰かと一緒にいたのだろうか、今日の放課後も誰かといるのだろうか。そう考えると、また胸が締め付けられる。
彼女は今僕が頼んでも受け入れてくれるのだろうか。こんな苦しい思いをするのなら、もういっそ彼女に。
そんな考えがよぎったところで僕は彼女を見るのをやめ、同時に考えることもやめた。
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