恋人たちの夜
演習授業の行われる日は、それだけで一日の正課が終わる。「余力を残すことなく演習授業に打ち込めるように」という学校側の計らいだ。
内容によって所要時間は変わり、例えばサバイバル演習なんかだとほとんど終日使い果たすわけだが、今回の演習内容は比較的短時間で終わる一騎打ち。それもカグラとノースの二人しか参加しておらず、加えて思いのほか早く決着がついた為、お昼前には下校となっていた。
「さようなら」の後、カグラはホノカたちと一緒に近くの喫茶店で昼食を取り、午後は図書館で勉強に励んだ。
学校創設来の天才は、剣術だけでなく勉学も怠らない。カグラは閉館まで、時間を忘れてひたすら机に向かっていた。
図書館を出る頃には、すっかり日も沈んでいて。自室に戻ったカグラは、まずシャワーを浴びた。
頭上から降り注ぐ心地よい温かさのお湯が、汗と共に疲労も流し去ってくれる。
演習の際に負った傷が多少染みるものの、軍事学校に在籍していれば日常茶飯事のことなので、もう慣れっこだ。
シャワーを浴び終えて、バスタオルで濡れた体を拭いていると、
(……ん?)
見えたわけでも聞こえたわけでもない。しかし確かに部屋の中に何者かが居座っているのを、第六感で感じ取った。
(部屋に戻った時は、誰もいなかった。ということは、シャワーを浴びている間に侵入したのか?)
カグラはバスタオルを腰に巻く。
最低限の装備で脱衣所から出ると、部屋の中ではマントで全身を覆い、フードを深く被って顔を隠した侵入者がベッドに座っていた。
内股座りをしている。つまり女性だ。
女性であるならば、侵入者の正体は想像に難くなかった。
カグラは警戒心を解く。そして、
「ホノカ」
カグラが呼ぶと、侵入者ーーホノカはフードを取って、その可愛らしい顔を露わにした。
「エヘヘへ。来ちゃった」
「来ちゃったって……ハァ」
カグラは額を押さえながら溜め息を吐く。
軍事学校の規則では、特例でもない限り異性の寮に立ち入ることは禁じられている。だからカグラも今朝、ホノカを部屋まで起こすことをせず門の前で待っていたのだ。
「あれ? 思ったより反応が薄いな。もしかして……嬉しくない?」
「嬉しいよ。だけどこっそり男子寮に来ることがどれだけリスクの高いことか、わからないホノカじゃないだろう?」
「それは……ごめんなさい」
叱責を受け、ホノカは俯く。
悲しそうなホノカの表情は、カグラがこの世で最も嫌うものだった。
カグラはホノカの頭を優しく撫でる。
「会いに来てくれたことは、本当に嬉しいよ。ありがとう」
「カグラ……うん!」
ホノカの表情が途端に明るくなったことは、言うまでもない。
そのままの勢いで抱き着こうとしたホノカに、カグラは静止をかける。
「服を着るから、少し待っていてくれ」
「えー。別にそのままで良いのに」
「俺が良くないんだよ。いつまでも半裸でいたら、風邪を引いちまう」
そう言うと、カグラは一度脱衣所に戻り、部屋着に着替える。
恋人の前だからって、変に着飾ったりしない。ごく普通のTシャツと長ズボンだ。
しかしだからこそ、二人の恋人としての距離が近しいことを表していた。
着替えながら、カグラは扉越しでホノカに尋ねる。
「それでホノカ、本当は何しに来たんだ? 会いたかったから会いに来たってだけじゃないんだろ?」
「まぁ、会いたかったからっていうのも、理由の一つなんだけどね」
他にも同等かそれ以上に大切な用件がある。そんな意味を含んだ返答だった。
「ほっぺ」
「頬?」
着替えを終え脱衣所から出てきたカグラは、聞き返す。
ホノカは自身の頬を指差していた。
「そう。ほっぺの傷、そのままにしてるでしょ?」
「あぁ……」
エンバートンとの一騎打ちの際、彼の放った弾丸で付けられた頬の傷に、カグラは触れる。
まだ塞がっていないその傷に触れると、ヒリヒリとした痛みが体内を駆け巡った。
「キスじゃなくて、傷だったのか」
「キスして欲しい時は、ほっぺじゃなくてここを指すもん」
ホノカは頬を差していた指を、唇に移した。
「だから今は、はい!」
ホノカはポンポンと自身の太ももを叩く。ショートパンツを穿いている為、快音が部屋に響いた。
「ほら、カグラ。こっちに来て」
「わかったよ」
カグラはホノカの隣に座る。
見つめ合う二人の距離は、10センチにも満たない。それでもホノカは満足していなかった。
「遠すぎる」
ホノカは呟くと、もう一度太ももを叩いた。
「隣じゃなくて、ここ。ここに頭を乗せるの」
「……わかったよ」
一度言い出したら聞かないホノカの性分は、カグラも熟知している。彼は頬の傷を上に向けて、ホノカの太ももに頭を置いた。
カグラの頬とホノカの生脚が直に触れる。この為に、ホノカはわざとショートパンツを穿いてきていた。
「にひひひひひ」
奇妙な笑い声を発しながら、さっきのお礼と言わんばかりにホノカはカグラの頭を撫でる。
こそばゆそうにしているカグラの表情もまた、愛おしい。
「手当てするんじゃなかったのかよ」
「その前に、ちょっとだけお楽しみ〜」
一頻りカグラを堪能してから、頬の傷に消毒を施し、傷全体を覆い隠すようにガーゼを貼る。
治療が済んでも、ホノカはカグラを膝の上から解放しようとしなかった。
「えへへへへー。カグラ、カーグラ」
胸焼けするくらい甘い声で、ホノカはカグラの名前を連呼する。
「……」
この部屋には自分たち以外誰もおらず、その為誰に見られているわけでもない。しかし……流石のカグラも、羞恥の沸点を超えていた。
「明日も学校だ。治療が済んだのなら、そろそろ女子寮に戻ったらどうだ?」
退いてくれとさり気なく促してみるも、
「えー! 今日は泊まってくー!」
予想の斜め上をいくセリフが返ってきた。
「泊まるって、お前な……」
こうしてホノカを部屋に上げただけで、危ない橋を渡っているのだ。宿泊なんてもってのほか。学校側に知られたら、大目玉をくらうのは確実。下手すれば、退学ものだ。
まぁ、ホノカはそんなことお構いなしなのだが。
「お泊まりを許してくれるまで離さなーい!」
ホノカはカグラの顔をギューッと抱き締める。カグラの顔は、ホノカの胸部に埋まる形になった。
ドッドッドッドッ。
カグラの鼓動が速まる。それはきっと息苦しいからだと、カグラは自分に言い聞かせた。
「どう? 気持ち良い?」
「ノーコメントだ」
「泊まらせてくれる気になった?」
「……今晩だけだぞ」
仕方ない。一晩くらいなら、泊めてやるか。そんなニュアンスを醸し出すが、実のところ、同じようなやりとりをつい一週間前にもしていた。
自分に厳しく、他人にも厳しく。だけどホノカにだけは甘い。それがカグラである。
「やった!」
言質をとって、ようやくホノカはカグラを離す。
「あー、苦しかった。そして暑かった」
「またまたー。本当は嬉しかったくせに。このムッツリスケベ」
「……息が出来なくて、死ぬところだったんだぞ?」
一瞬返答に詰まったのは、少しだけホノカの乳房を意識した自覚があったからだ。
「おっぱいに挟まれての窒息死なんて、男の子からしたら本望なんじゃないの?」
「なわけあるか。俺の望みは、ホノカとずっと一緒に生きていくことだ」
ホノカと出会い、恋人同士になった3ヶ月前のあの日から、ただそれだけがカグラの望みで。こうして一つ屋根の下で愛を確かめ合う日常が、ずっと続いて欲しい。その為にカグラは強くなっている。
「あっ、うん……そうだね」
そんな赤面必至の小っ恥ずかしいセリフをこの上なく真剣な表情で言われては、今度はホノカが言葉を詰まらせ、顔を真っ赤にする番だった。