カグラとホノカ
カグラがメルトリアと別れてから、1分と経たずして。
「おーい! お待たせ-!」
威勢の良い声と共に、一人の女学生がカグラに向かって駆け寄ってくる。
他の女学生と同じ制服に身を包み、しかしながら他の女学生の誰よりも可憐な(カグラ主観)金髪の少女。
メルトリアがお淑やかなお嬢様ならば、この女学生は差し詰めお転婆なお姫様だろうか?
「そんな走り方をしていたら丈の短いスカートが翻って、パンツが見えるぞ」と、カグラは注意してやりたかった。
「……ホノカ」
待ち合わせ場所にようやく姿を見せた恋人の名前を、カグラは呟く。
カグラの前に着いたホノカは、両膝に手を付き、荒ぶる息を整えながら、彼に尋ねた。
「ごめんね。待った……よね?」
「当たり前だ」と、カグラは言い返したかった。「約束の時刻から何分過ぎていると思っているんだ」とも。
「……40分の大遅刻だ」
だからカグラの返答は、最早叱責に等しかった。
カグラの表情と声色の中に、憤りを見抜いたのだろう。ホノカはシュンと項垂れる。
「……怒ってる?」
カグラはゆっくり頷くことでホノカに答えた。
ホノカは知っている。カグラは基本的に穏やかな人間で、滅多に怒ることはない。
どんな我が儘を口にしても応えてくれるし、自分が失敗したときは優しくフォローしてくれる。
(そこがカグラの魅力の一つなんだよね)
たとえそれがホノカにしか見せない表情だったとしても、それ故信じて貰えなかったとしても、ホノカは誇らしげに誰かに語って聞かせるだろう。でも……
そんな温厚なカグラを怒らせてしまった。
嫌われてしまうのではないかという恐怖が、ホノカの頭を過ぎった。
「あっ、あのね!」
カグラに嫌われるなんて、絶対に耐えられない。世界が終わり、死ぬことよりも遥かに恐ろしい。
みっともないとわかっていながらも、ホノカは遅刻の言い訳をし始めた。
「私たち、付き合い始めて三ヶ月が経つじゃん? だけど未だにカグラと一緒にいるとドキドキが止まらないっていうか、二人で登校するってだけで緊張しちゃうっていうか。そしたらベッドに入ってもなかなか眠れなくて。そしたら、そしたら……」
繰り返される「そしたら」。数を重ねるごとに、声量は段々小さくなっていく。
「……寝るのが遅くなって、起きたら八時を過ぎちゃってました」
「ごめんなさい」。謝るホノカ。カグラと同じ紅瞳は、今にも涙が溢れ出しそうなくらい潤んでいた。
そんなホノカの額に、カグラは軽くデコピンをした。
「ひぇっ!?」
愛らしい声を上げながら、ホノカは一部分だけ赤くなった額を両手で押さえる。
「なっ、何をするの!?」
「遅刻した罰だ。……ったく。何かあったのかと心配したじゃねぇか」
カグラは別に、待ちぼうけをくらったことに対して怒っているわけではない。遅刻したホノカのいい加減さに怒っているわけでもない。心配かけたことに怒っているのだ。
昔以上に何が起こってもおかしくない時代。いや、何かが起こることが当たり前の現代。メルトリアにホノカの現状を知らされるまで、気が気ではなかった。
過保護なのはカグラとて自覚している。だが、「大丈夫だろう」と、杞憂には流せない。
その慢心が、大切な人との永遠の別れをもたらすことだってある。
「……」
予期せずツンデレを披露した恋人に、ホノカは一瞬ポカンとなった。しかしすぐに、
「うんっ、ごめんね! カグラ大好き!」
曇っていた顔がパーッと明るくなり、ギューッとカグラに抱きついた。
このままキスでもしそうな勢いである。
抱擁しながら、ホノカはうんうんと心の中で何度も頷いていた。
謝罪のつもりで抱きついたホノカであったが、結果として彼女自身へのご褒美になってしまったわけで。大満足なわけで。
自分の胸に埋もれる恋人も、多分同じ感想を抱いてくれているのだろう。そして自分を抱き締め返してくれるだろう。そう思っていたのだが……当のカグラは、全く別のことを思っていた。
「……痛い」
「え? ……あっ、ごめんね!」
指摘されて、ホノカは慌ててカグラから離れる。
女の子からのハグといえば聞こえは良いが、ホノカの場合豊満すぎる胸部と鍛えられ常人より強い膂力のせいで、相手の胸部を圧迫し、呼吸活動を阻害してしまうのだ。
抱きつくというより、締め付けるという言い回しの方が適切な程に。
余程苦しかったのだろう。「ゲホッゲホッ」と軽くむせるカグラ。それでも恋人への気遣いは忘れずに、「大丈夫」とホノカに告げる。
カグラの「大丈夫」を、ホノカは鵜呑みにしなかった。
「でも……。ただでさえ遅れてきたのに、その上カグラをこんな目に遭わせて……」
ホノカが俯く。
良かれと思って起こした行動がカグラに迷惑を被っているのだから、落ち込むのも無理はない。感情の起伏が激しいホノカならば、特に。
萎れるホノカにカグラは微笑みかける。
「ホノカ、今日の化粧は、一段と力を入れたみたいだな」
「え? うん、だってカグラと登校デートするんだもん。……あっ、化粧なんかに時間をかけている暇があったんなら、もっと早くここに来れただろうって思ってる? 怒ってる?」
カグラは首を横に振る。
「せっかく時間をかけて可愛いメイクをしてくれたのに、そんな暗い顔をしていたら台無しじゃないか。そう言いたかったんだよ」
いつもなら、ホノカの顔が茹で蛸のようにボッと赤くなるところだが、今朝は違った。
「……可愛いのは、お化粧だけ?」
まさかのカウンター。
ホノカは顔を俯かせたまま、目だけをカグラに向けた。
角度でいえば、上目遣いなわけで。明らかに、それ以上の言葉を催促している。
(……まったく)
女心とは、難解なものである。
しかしホノカの心に限っては別だ。カグラにとって、これほど単純明快なものはない。
今の問いにどう答えればホノカが最も喜ぶのか、カグラは本能でわかっていた。
「訂正はしないぞ。ホノカが可愛いことなんて、言うまでもない事実だからな」
遠回しに「可愛い」と言われて、ホノカは上機嫌になった。
「そっ、そうかな?」
丈の短いスカートの裾を軽く持ち上げながら、ホノカはわざとらしく小首を傾げる。
「誘っているのか?」と問われれば、勿論イエスだ。
いつもより丁寧に施された化粧は言わずもがなで、潤った唇には艶かしさが滲み出ており、今にも奪いたいという欲求に駆られてしまう。
それにこの香水。首筋やら胸元から漂ってくる良い香りが、カグラの男心を一層揺さぶっていた。
「……」
カグラの性欲を刺激するのは、化粧や香水だけではない。
いけないとわかっていながらも、カグラの視線はついつい大胆に開けられた胸元やチラリと見える太ももに向いてしまう。
付き合い始めてからというもの、段々と露出度が上がってきているような気がする。
今でこそ二つ開いているワイシャツのボタンは、以前は一番上しか開いていなかった。スカートの丈だって、ここまで短くなかった。
他の男の目もあるというのに。嬉しい反面、恋人としては心配なところだ。
「……どこ見てんの?」
「!」
指摘されて、カグラは慌てて目を逸らす。
時間を忘れて、見入ってしまっていた。恐ろしいのは自分の欲望か、はたまたホノカの魅力か。
ホノカはジト目をしながら、
「えっち」
口では非難しつつも、胸元や太ももを隠す素振りはない。ホノカとて、満更ではないのだ。
「うっ、うるさい」
子供みたいに反論するカグラ。その反応を見て、ホノカは微笑する。
(カグラだって、可愛いじゃん)
口に出したら、今度は「俺は男なんだぞ? 可愛いと言われたところで嬉しいはずもない」と拗ねられてしまうのが目に見えている。だからホノカはそのセリフを自らの胸の内に留めておいた。
――本当は声に出して伝えるのが恥ずかしかっただけなのかもしれない。
「……ほら」
カグラが手を差し出す。
「うん」
ホノカもその手をしっかり掴んだ。
「早くしないと、遅刻しちゃうもんね」
「ったく。誰のせいで遅刻しかけていると思ってるんだ?」