◆13 ~ 郷愁と罪悪感
運命が狂うのは一瞬で、とても簡単なことだ。
わたしがそれを知ったのは、子供の頃。
かつて、私の世界はとても狭かった。
父と、母と、妹。私の世界にあるのはたったそれだけ。
よくある、ごく普通の家庭だったと思う。
貴族としては、あまり胸を張れるものではなかったかもしれない。
贅沢とはいえなかったけれど、それでも、私たちは満ち足りていた。
……けれど。平穏はいつしか、徐々に、壊れていった。
貧しくなっていく家庭。
領民と共に汗を流し、希望を見ていた父の眼は、徐々に濁っていった。
いつも穏やかで、困ったような顔で笑っていた母も、藁ですらもない理想に縋りつくようになった。
何か、切っ掛けがあったわけではない。
気が付けば、少しずつ、やがて取り戻しようがないほどに――。
(……ん)
目を開く。
揺れる車両の音。列車の一室で、目を開いた私の視界、車窓の向こうには故郷の穏やかな風景が広がっていた。
風車がゆっくりと回り、その足元には麦畑が広がっている。
ふと、視界の端に美しい花畑を見た。
アルニの花だ。この村の名前の由来にもなった、唯一の特産物と言える花。
夏の終わり、咲き終わりの時期になれば、あの薄紅色の花が一斉に風に舞うのだ。その美しい光景を幻視するように、目を閉じた。
「…………」
『――当列車は間もなく、アルナスに到着します。お下りのお客様は、忘れ物のないようにご注意の上――』
アナウンスの声にふっと現実に引き戻されて、足元の旅行鞄と、組み立て式の槍を入れたケースを手に、わたしは立ち上がる。
人のまばらな客席を通り抜け、扉の前に立つと、やがて音を立てながらゆっくりと列車は止まり、扉が開く。
列車から降りると、そこはやはり見慣れた、小さな駅だ。
人が一人立っているだけの改札を通り抜けると、草の匂いがまじった風が鼻をくすぐった。
深く息を吐いて、歩き出す。
「……あれ、アイーゼお嬢様じゃないか?」
旅行鞄片手にしばらく歩いたわたしに声をかけてきたのは、一人の農夫だ。畑仕事の真っ最中なのか、脇に置いてあるカゴには、たくさんの野菜が積まれている。
「ラミルおじさん。久しぶり」
「ああ、久しぶりだなぁ! 三年ぶりぐらいか? えらい別嬪になっちまって!」
「……そんなに変わってないと思う」
「そうか? そうかもな! また村の若ぇ連中が騒ぎそうだ!」
ラミルおじさんはにっかりと笑って、籠から真っ赤なニルメの実を取り出した。
「どうだい一個! 採れたてだぞ?」
「……ん。もらう」
ニルメを受け取って、袖で拭き、ぱくりと一口。
都会で食べるものと違う、かつての夏を思い起こさせる甘酸っぱさが、口の中に広がった。
「そういや、結婚なんて噂が広がってるが……ひょっとしてそのために帰ってきたのか?」
その質問に、わたしは返す言葉を失った。
結婚するのはわたしじゃない。妹だ。
それを確かめるために、あるいは止めるために帰ってきた。
言葉にすれば簡単だけれど、それは他人に言えることではない。子供の頃から付き合いのある相手であっても。
無言のまま、しゃくり、しゃくりとニルメをかじり、指をぺろりと舐めて「ごちそうさま」と告げる。
「ニルメ、ありがと。村は、特に変わりない?」
質問を無視した形になった言葉に、おじさんは何かを察したかのように「あー」とポリポリ頭を掻く。
「セルマのじいさんがまた腰を痛めたとか、そんな話ぐらいだな。これといって変わったこともねえよ」
「トールたちはうまくやってる?」
「ああ。今でも元気に自警団やってるよ。最近はめっきり魔物も減ったし、暇そうにしてんじゃねぇか? 後で顔のひとつも出してやってくれ」
「そう……鍛え直したほうがいいかな」
「そりゃあいい」
豪快に笑うおじさんに、アイーゼも薄く笑って、旅行鞄に再度手を伸ばす。
「それじゃあ、また」
別れを切り出し、背を向けて――罪悪感が僅かに爪を立てるのを感じつつも、再び屋敷を目指す。
アルナスは本当に小さな村で、少し歩けば、田舎町に少し不釣り合いな大きめの屋敷に辿り着いた。
玄関のベルを鳴らすと、褐色の肌をした男性が姿を現す。
「アイーゼお嬢様。おかえりなさいませ」
「うん、久しぶり。ランドさん」
ランド・ラネス。リリエス家の家令だ。久々に見たその姿は、少し、白髪が増えたようにも見える。
家令といっても名ばかりで、家は別にあるし、畑も持っていて普段はそちらで過ごしている。リリエス家からの給金だけでは食べていけないからだ。
「旦那様からは、数日遅れると連絡を受けております」
「うん。……ミミの婚約者と話してくるって言ってた」
「左様ですか」
荷物を預かりつつも頭を下げる彼に、変わっていないなと、そう思った。
彼はリリエス家の事情には、不干渉を貫いている。
わたしの味方をしてくれるわけではない。ただ何も言わずに、私たちの面倒を見てくれる。敵でも味方でもないけれど、家が狂ってなお私たちが生きてこれたのは、たぶん彼のお陰だ。
「ミミはどうしてる?」
「ミミお嬢様でしたら、お部屋に。ですが、お着替えと湯浴みの準備をしておりますので、ぜひ先にそちらを」
「……わかった」
本心では一刻も早く妹に会いたい。
けれど、旅で汚れた格好のままで会うわけにいかなかった。
逸る心を抑えながらも、案内されるままに歩を進めた。




