#44 ~ 蝶の悪夢
――セト・オーランド。
イリアの兄にして、オーランド家の長男……だった。
「だった……?」
「ああ。……五年前に、亡くなった」
セト・オーランドは天才だった。
伯爵の家に生まれ、父よりも剣の才に恵まれ、将としての才にも優れ、また性格もどこか人を惹きつけるものがあった。
「イリアも、そんな兄によく懐いていた。あの庭で、よく二人で遊んでいた……」
誰もが、彼は未来の伯爵だと期待した。
オーランド伯爵家は軍務派ともいわれる貴族の重鎮であり、辺境軍においても極めて重要な存在といえる。
伯爵、ベリオル・オーランドは戦時において南部辺境軍の一部を束ねた将であり、彼もそれに倣うものだと言われていた。
そう言われる通りに、彼は育った。
士官学院を首席で卒業後、辺境軍に所属した彼は、実家の後押しもあって、瞬く間にその頭角を現していった。
だが、そんなときに事件が起こった。
国境近くの村が魔物に襲われたのだ。
実のところ、村が魔物に襲われる例は、ないわけでもない。
魔物避けの点検不足や故障、あるいは想定していないルートからの攻撃。特に小規模の村となれば、その危険性は常にある。
こうした危険性の排除は、帝国軍の日常業務だ。
そんなものは、いつも薙ぎ払って終わり。
そしてこの日、セト・オーランドは魔物撃退の指揮を執っていた。
「だが、違った。あれは罠だった」
村ひとつを使った毒餌。
しかもそれは。
セト・オーランド、たった一人を殺すための毒だった。
村の救援に向かった彼らは、武装集団に包囲されて殲滅された。
それはあまりにも凄惨な狩りだった。
妨害によって通信は途絶され、生き残ったのはたった一人。セトの命令によって必死に包囲網を潜り抜けた伝令兵、たった一人だった。
「その後、軍は大規模な部隊を編成して救援に向かったが、誰一人、生き残ってはいなかった。そして息子は――」
ぐっと伯爵の手に力がこもる。
セト・オーランドは……帰ってきた。
首のない、死体になって。
「それからだ。娘が変わったのは……」
それまで本を好み、大人しかった少女は、ひたすらに剣を磨き続けた。
それは兄を追うようであり、あるいは、兄の影を振り払うようでもあった。
「彼女の剣はまるで、セトの生き写しのようだった」
だからこそ、止められなかった。
嫌な予感は、ずっとあったという。それでも彼女の剣に映る懐かしさが、その予感から目を逸らさせた。
「私が愚かだった……イリアは、聞いていたんだ……あの時……」
伯爵にもたらされた報告。
セトを襲った武装集団。賊たちはみな、蝶の入れ墨があったこと。
それは帝国の闇で暗躍する、ある暗殺組織……黒の蝶とも呼ばれる極めて危険な組織の特徴。
突如現れ、消えていく、形のない都市伝説のような存在。
帝国政府は、彼らの背後にあるのは、隣国であり仮想敵国であるセシリア王国ではないかと疑っていた。
「蝶のタトゥーを見て、その男を追いかけたというのなら、間違いない。娘は……知っていたのだ。兄を殺した者たちのことを」
つまり。
彼女が、あれほどまでに強さを求めていたのは――
「復讐だ。イリアは、セトの復讐のために、今まで……」
伯爵がこぼした言葉に、俺は目を閉じた。
思い起こす。ただ必死に、剣を振っていた彼女の姿を。
立ち上がる。
「……伯爵、俺は行きます」
「ユキト君、娘は――」
「連れ戻します。必ず」
俺は、行かなくてはならない。
彼女に伝えなくちゃいけないことがある。
「クロ、いけるか?」
「ワフッ」
しゃがみこんでクロを撫でると、元気な返事が返ってくる。
時間は、あまりないかもしれない。
後悔は後でいくらでも出来る。
だから今は、急がないと。
中庭を見る。
空は曇り、今にも雨が降り出しそうだった。




