◆29 ~ 名も無き感情(イリア・オーランド)
「何なんだ、あの教師は!?」
クラス中に不機嫌そうな男子生徒の声が響いて、イリアはわずかに眉根を寄せた。
「今日も素振りだけだったじゃないか。あんな訓練に何の意味がある」
「全くですね。平民の癖に偉そうに」
「それどころか、どこの馬の骨とも分からん田舎の生まれと聞いたぞ」
教室の一角を独占しているその話題は、ユキトのものだ。
始まってから二週間が経つが、剣の技術教練において行われているのはただ素振りのみ。
それも精も魂も尽き果てるまで素振りをさせられるものだから、一部の生徒に不満が溜まっている。
もっともその不満を、本人にぶつける勇気など彼らにはない。
彼らは理解しているのだ。
ユキトという男が、自分よりも圧倒的強者だということに。
――理解させられた、というべきか。
最初の授業で見せた素振りひとつで、彼は生徒全員を圧倒したのだ。
(つまらない連中)
イリアにとっても、今の状況は嬉しいものとは言えない。
彼女もユキトに剣を習い始めたとき、ひたすら素振りをさせられた。その理由も、今では分かっている。基礎がなっていないからだ。
しかし彼女は既にそれを超え、様々な技術や理合を彼から学んだ。
それは途轍もなく身になるものだった。
剣の振り方だけではない、間合いの制し方、虚実の技法、様々な敵を想定した訓練など、彼女の発想にないものばかり。
今、剣術クラスが素振りしかさせてもらえないのは、他の生徒の大半がそのレベルに達していないからである。
(私だって、先生の訓練を受けたいのに)
イリアへのユキトの個人指導は終わっている。
正直言って、続けて欲しいと思ったが、学院でも家でも訓練となると、彼自身が鍛錬をする時間がなくなってしまう。
学院でもユキトはイリアの先生になるのだから、指導が受けられなくなるわけじゃない。
――そう思っていたが、これでは本格的な訓練が始まるのはいつになるのやらだ。
いい加減文句を言ってやろうかと彼女が考え始めた時。
「いい加減にしろ」
低い声が、その騒ぎを打ち払った。
「ユグノール――貴様」
「俺たちが素振りしかさせてもらえないのは、俺たちが未熟だからだ」
「なんだと! 私はオイレル・カサンドラ流の門下だぞ!?」
カサンドラ流とは、帝国貴族に広く伝わる剣術である。
しかし広く伝わりすぎて分散し、各地の流派がカサンドラ流を名乗っている。まあもともと、帝国の考え方でない『流派』という概念を、無理に宮廷剣術に当てはめたことによる弊害ともいえた。
オイレルといえば剛剣で知られる一門だ。
もっともクラスメイトとして見知っているイリアにとって、彼はそこまで剛剣の類とも言えないが。
「あの人が只者でないことぐらい、お前たちだって分かるだろう? 違うというのなら、教室で管を巻いてないで決闘のひとつでも挑んでみればいい」
彼の言葉で、全員が押しだまった。
シグルド・ユグノールは侯爵家の長男だ。しかもその剣術は、クラス内でも一二を争う。
ユキト先生に会う前の私だったら、剣術だけでは彼に敵わなかったかもしれない。
ゆえに、彼の発言力は極めて大きい。
「彼が素振りをしろというのなら、俺はするぞ。たとえ意味がなかろうとだ」
ユグノールはそう言って、彼らに背を向けた。
その背後で、「ちっ」と舌打ちした貴族生徒たちが、教室から出ていくのが見える。
「オーランド、少しいいか」
「っ、ええ、何?」
そのシグルド・ユグノールに突然声をかけられて、私は頷く。
「ユキト先生に個人的に知己があると聞いたのだが、事実か?」
「……ええ、まあ」
「そうか……」
彼は悩むように口元に手を当て、
「俺を紹介してもらうことは出来ないだろうか?」
などと、よく分からないことを言い放った。
「紹介と言われても……」
「まだ素振りしかさせてもらえない未熟の身だが、出来ることなら聞いてみたいことがいくつもある」
「それなら、普通に聞けばいいんじゃないかしら?」
「……無礼だと思われないだろうか?」
「それはないと思うわ。普通に教えてくれると思う。彼は講師なんだから」
私の言葉に、少し驚いたように目を見開いたシグルド・ユグノールを見て、少し苦笑する。
彼がそんな大層なことを考えるとは思えなかった。むしろ少しでも生徒の身になるにはどうすればいいか、悩んでいるのではないかとすら思う。
そんな彼が妙に神聖視されている。それがおかしくて、少し笑ってしまったのだ。
「……なるほど確かに。そうかもしれんな。自分の生徒でない相手にも熱心に教えてるようだし……」
「……え?」
その言葉に、私は思わずユグノールに問い返した。
学院の敷地にある、訓練場のひとつ。
炎をまとった少女に向かって槍を振る、ユキトの姿があった。
「まだ遅い! 相手の目を見て、動きの出がかりを意識して! 間合いの内側に入らせるな!」
しかも檄まで飛ばして、だ。
その光景が信じられなくて、呆然と、ただそれを見ていた。
「聞いたところによると、彼は三日で槍をマスターしたらしい。それでいて三年最強のリリエス先輩と互角以上に戦っている。驚きを隠せんよ、まったく」
「どうして……?」
「なんでも、戦技大会に出場する先輩が教官に相談したそうだ。総合に出場する一人だからな。学院も許可、というか積極的にお願いしたと聞いたが」
唖然と、その言葉を聞いていた。
君はいいのか、と問うユグノールの問いに、私は何も返せなかった。
自分の中に渦巻く感情が分からなくて、名前もつけられない。
訓練中のユキト先生と、ふと目があった。
逃げるように、私はその場を後にした。




