3 どちらにしろ妹に乗り換える事は決まっていたようです
深夜の灯りが抑えられた廊下を静かに歩き、台所へ向かう通り掛かりに、妹の部屋から灯りが漏れていることに気付く。まだ寝ていないの? と声を掛けようとして、中から2人分の声がしてやめた。
こんなのは、知りたくなかった。
「ヴィル殿下、これでやっと私たち、公式に結ばれるのですね」
「そうだよ、ヴェロニカ。幼い頃の取り決めだったが、いずれは婚約破棄するつもりだった。理由はなんでもいい。君の両親ともそう決めていたし、アナスタシアは見事に愛想の無い女になった。そんな言い掛かりめいた理由よりも、聖女になってくれるとは。これで私たちに障害は何もない」
「馬鹿なお姉様。ヴィル殿下のことも、両親は本当は私を嫁がせたがっていたのよ。先に産まれたからって気が急いたなんて。ふふ、だから私とあんなに違う暮らしをさせて、躾がなってないからと婚約解消に持ち込むつもりが……、うふふ、殿下、まだ婚前ですよ」
「いいだろう? あんな感情の無い女と別れられた記念だ。少しだけだから、なぁ」
「もう、子供が出来るようなことはダメですよ」
それ以上、聞いていられなくて私は足音を消して部屋に戻った。あの軋む床で生活していたのだ、この位造作もない。
それでも、この襲いくる絶望感と虚脱感は何だろう。怒り? 悲しみ? そんな生温い感情はもう残っていないはずなのに。
あんまりだ。私の事を想ってくれていたと思った2人の関係は、昨日今日のものではない。あれは、もっと前から。しかも両親も知っている。むしろ、私はヴェロニカの引き立て役に過ぎなかった。
両親も承知していた。私が幼い頃から受けてきた妬みによる虐待……それは勘違いだ。
私を本来の淑女教育から遠ざけ、私に貧しい振る舞いを叩き込み、自信を砕き、いずれ婚約破棄させるためのこと。
思えばダンスや詩歌音曲の教育は受けていない。馬鹿な私、絶対に必要なものじゃないか。社交界デビューも何だかんだと遅らされていたが、私がそれについて自ら望む言葉を発してはいけなかったし、疑問に思ってもいけなかった。
どこまで私は家畜根性が染み付いているのだろう。出てきたのは、笑い。深夜だから声を抑えるのに苦労した。一通り薄暗い部屋の中で声を抑えて嗚咽のように笑う。床にへたり込んだ体を立たせて、サイドテーブルの水差しからコップに水を注いだ。
被ったら目が覚めて、全部夢だった、なんてならないかしら。まさか、家で過ごす最後の夜にあんなものを聞かされるとは思わなかった。
私はお茶を飲まずに、冷たい水を飲んだ。冷えていく胃の腑に何かが煮えている。涸れている涙は、やはり溢れもしなかった。
(何もかもどうでもいい……、どうせこの場には2度と帰ってこないのだし、もう関わることもない人たちだ)
水を飲んだからか、腹の奥の熱は少しおさまったように思う。胸の内側から聞こえる温かい声は、まだ何を言っているのか遠く聞き取れない。
(これも聖女の力? 聖女って何だろう……、もし、この世界で一番不幸な者に与えられる称号だとしたら……馬鹿ね、不幸は比べるものではないわ)
明日の食事に困って蹲って寝ている誰かより、私が不幸だなんて思わない。ただ、その誰かの方が私より不幸だとも思わない。
その誰かは鞭で打たれまい。その誰かは裏切られまい。それは、私にとっては喉から手が出るほど欲しい何か。
温かい声が少し大きくなる。
私はその声を聞き取ろうとベッドの中に潜って目を閉じた。さっき聞いた会話を、2度と思い出したくないから。
温かい声は眠りに近付くと少しだけ大きくなる。その日、私はこの家から完全に気持ちが離れていたからだろうか。
眠りに落ちる間際に、確かにはっきりと、それでいて夢のような言葉を聞いた。
『おやすみ、アナスタシア。祈りの塔で待ってる、僕のお嫁さん』
その声はとても澄んでいて、それでいて身を委ねるのに何の躊躇いもない安心できる声で。
私は、その声のおかげですぐに寝付いた。