20 白い旦那様と黒い旦那様
旦那様が帰ってきた。ひどく不機嫌に、ソファに横になって目を閉じている。
私は不機嫌な人にどう接していいのかわからない。私に対して鞭を使い、理不尽に食事を取り上げる。そう扱われていたから、どう対応していいかわからなかった。
だから、されたかった事をしてみようと思う。
「おかえりなさいませ、旦那様。私にはお茶を淹れる事はできませんし、不思議なグラスに飲み物を満たす事もできません。なので、これを一緒に食べませんか」
灌木は常に熟れた実をつけていて、私はそれを2つもいだ。旦那様の顔の前に膝をつき、微笑んで一つを差し出す。
旦那様は人の食べ物を好んで食べるようになった。私はもうずっと、この実を食べている。
私にとってはこちらの方が美味しかった。たぶん、人の食べ物は与えられたり与えられなかったり、いらない時にも食べなければいけないものだと思っていて、この実はいつでも実っていて好きな時に口にしていいものだから、そう思うのだろう。
美味しいものを、一緒に食べる。それは、私が一人で嫌だった時に、飢えた時に、誰かにしてほしかった事だ。
「アナスタシア、俺は……むぐ」
「どうです? 久しぶりに食べると美味しくないですか?」
何かを言おうとした旦那様の口に実を詰め込む。この実には種がない、皮も噛み切れるし、薄いから気にならない。
私もそのまま一つ口に入れる。濃厚な甘さが口いっぱいに広がるのに、後味のさっぱりしたこの実は、美味しい。
咀嚼して飲み込んで笑顔になると、旦那様は同じように咀嚼して飲み込んだ。
「……すっぱい」
「あら? そうなんですか?」
「俺の舌は濁ったようだ。あぁ、アナスタシア。俺は、俺は、今とても憎いのだ。君を虐げた奴らが、君をまだ下に見ている。それが憎い、君は下に見られる必要なんて無いのに」
「それは、旦那様、違いますよ」
旦那様はとても苦しそうにしている。私があの日、死を悟り神に……旦那様に愚痴を言った日のように。
「誰でも、自分は誰かより優れている、うまくやっていると思いたいのです。人を下に見る人を咎めていては、キリがありません。そして、大体の人はこう思うのです。この人は自分よりここが劣っている、だが、ここが優れている、と」
「下に見ながら……上にも見ている?」
「えぇ。私は自分の力で聖女になった訳ではありませんが……」
「それは違う。アナスタシアは、無私であった。それは、アナスタシアの力だ。憎しみにも悲しみにも囚われず、欲を抱かず、無私であること。優しくなければ無理だ」
「そうですか? では、私は無私であったから聖女に選ばれた、だから旦那様が眠らせた人は、皆わかっているのです。アナスタシアは自分より『人間として』劣っているが『聖女』である、と」
人であった私は御し易く当たりやすい相手だったろう。反抗心もなく、憎しみもなく、ただ全てを受け入れる女。
だが、私は聖女になった。王よりも上の存在に、人の枠まで超えてしまった。
人間のアナスタシアは、もうあの人たちの心の中にしかいない。今の私は、聖女・アナスタシアだ。いくら人間だった時の私を下に見られていても、もう私はその枠を超えてしまって、なんだか他人事にしか思えなくなっている。
「旦那様、私の鬱憤は、もう晴らしてくださっていいのです。人間だった見下される私はあの日死に、今は聖女で、あなたの妻です。私を見下す人も、見上げる人もいません。だって、私と旦那様は、二人きりで一緒に幸せになるのですから」
「アナスタシア……」
旦那様の長い髪が、生き物のように蠢く。肌の色が、徐々に白くなっていく。
髪の色が、綺麗な白金色に変わっていく。あの日飲み込んだ私の人としてのカケラ、あの黒い鬱憤を、旦那様は手の中に吐き出した。
「やっぱり、私の鬱憤で黒くなっていたんですね」
「……君を知れば、君を幸せにできると思って」
「だめですよ、こんな美味しくなさそうなものを飲んでは」
「……うん。口直しに何か美味しいものが食べたい。アナスタシアが美味しかったものは何?」
「今は、コレです」
私は近くの灌木からまた実をもいだ。
白くなった旦那様は体を起こして、もう一度実を頬張る。
難しい顔をして咀嚼すると、ごくんと飲み込み……。
「すっぱい」
「ふふ、では旦那様が好きなものを食べましょう。旦那様とご飯を食べるなら、それが私の幸せです」