15 神の奇跡は地上から消えた
早回しで数時間後の大聖堂には、貴族から貧民街の平民までが押し寄せていた。
皆、過去に神の奇跡……神学によって治してもらった傷や病気が再発したと訴えている。
血を流し、息が詰まり、中には死に瀕した友や兄弟や母親を背負ってきている人もいる。
神官は今、誰も神学の力を使えない。応急処置をして回っても、結局は癒すこともできないままで、施せるものも無くなった。そもそも、神殿にはそんなに物資がないのだ。
「彼らが使ってた神の力は、僕のように形を持たなかった神というふわっとした物から借りていた力。当然、僕は意識と形を得たから、アナスタシアを虐めた人たちに力を貸す気は無い。この押し寄せてくる人をアナスタシアが助けたいのなら、僕の力はいくらでも貸してあげる」
「わ、分かりました。私は……直接彼らに虐められた訳ではありません。旦那様、どうか彼らに癒しをお与えください」
「いいよぉ」
私が両手を組んで奇跡を願うと、旦那様は私に力を貸してくれた。私の組んだ手に旦那様の大きな白い手が重なった。
神殿の奥の祈りの塔が金色に光った、というのを、この城下町にいる人々は目撃したらしい。後で旦那様から聞いたことだ。
押し寄せた人から、そんな元気もなかった人にまで、金色の光が降り注ぎ、全てを癒していく。私は、ただ一心に祈った。
——取り上げるべきでない人からは取り上げないように、再び癒されるように。細かいことまでは分からない、それでも神の力によって癒された人が、もう一度苦しむ必要は無いと願った。
祈りの塔を中心に、町中に癒しの光が降り注ぐ。後に聖女の奇跡と呼ばれる出来事が、今起こっている。
大聖堂に押し寄せた人たちは、奇跡の恩恵を受けて徐々に帰っていった。彼らは神官の起こす奇跡でも、聖女の起こす奇跡でもどちらでもいいのだ。神の奇跡によって治ったことが大事なのだから。
奇跡を与えてくれる人を信じる。それを通して神を信じる。信仰とはそういうものなのだろう。私は、私に害を加えた人以外にまでとばっちりが行くのは嫌だ。
面目も信用も丸潰れになった神殿の神官たちは、羞恥と侮辱に顔を真っ赤にしていた。中には、役立たず、と罵って帰る人たちもいたからだ。
むしがいいようだが、神官が神殿で雨風を凌ぎ飢えることもなく、毎日薬湯で沐浴できているのは、奇跡を起こすことができたからだ。
その為に神学を学び、人々に与えていたから、自分たちにもお布施や予算が与えられていた。
神官が奇跡を扱えなくなったとしたら、それらは全てなくなるだろう。
大神官はいち早くそれを悟り、顔面を蒼白にして膝をついた。神よ、と呟いて祈りを捧げた。
神の像の前で祈りを捧げる。私を鞭打った手を組んで、私を飢えさせた人が祈っている。旦那様は白けた顔をしていた。
「アナスタシアに八つ当たりしておいて、自分はぬくぬくとした場所で、本当はお腹いっぱい美味しいものを食べていた人たちの祈りなんて、雑音でしかないからやめてほしいな。うるさいから神官の声は要らない。言葉もいらない」
不愉快そうな顔で鏡に手をかざすと、彼らは声を失った。祈ることすら許されない。彼女たちは声を、そして言語というものを取り上げられた。筆談もできない。
意思はある。それを言葉にできない。神学を学んで祈った人たちの声は心の声であろうと旦那様に届くようで、私を虐めていた人たちの声まで聞く気は無いという事らしい。
喉を押さえて、或いは頭を押さえて、神官たちは必死に祈りの言葉を思い出そうとした。声に出そうと、心の中で唱えようと必死になったが、神官たちからは言語というものが取り上げられた。
神罰が下った、と一番最初に悟ったのは神官たちだった。
その後、この国は徐々におかしくなっていく。早回しで見ていった。
まずはこの神殿が扉を閉ざし、行き場のなくなった人が、飢えた人が、城に押し寄せるようになった。城ならば何とかしてくれる、という最後の砦だ。しかし、城内にまで人を入れることはできない。演習場や美しい庭にテントが建てられ、雨風を凌がせて炊き出しを行う。城の蓄えは見る間に減っていった。兵たちの食事も貧相になる。
言語を失った神官たちは沐浴の回数を減らし、当たり前に食べていた物を作って、食べようとした瞬間に全てが消えるという事態に陥っていた。消えた食べ物は、街中の飢えた人に突然与えられた。
神官たちは塩を舐めて水を飲むことだけが許された。
当たり前のように、神官たちは痩せ細る。言葉を持たない神官たちは、自分たちの姿の異様さでもって、陛下に訴え出るしかなくなった。
神官に神罰が下ったという話は広がり、私の生家にも、ヴィル王子にも、その話は届いた。彼らはこの間も毎日神罰に苦しんでいたらしい。
ヴェロニカは着るドレスが日々なくなっていき、伸縮性のあるブカブカの寝巻きのような服で過ごしていた。いつ、自分が急激に太るか分からないからだ。
父も母も床に伏せっていた。日に一度必ず訪れる苦しみは、どのタイミングで襲ってくるか分からない。寝ている時なのか、食事中か、仕事中か……、辛うじて家臣が領の運営をしていたが、責任者がこれでは立ち行かないだろう。領を国に返せば家名が無くなるが、例え1時間で終わると分かっていても、そのストレスは計り知れない。
ヴィル殿下は誰にも言えない神罰を、いよいよ父親である陛下に言わなければならなくなった。この機会を逃せば、もう言い出すタイミングなど訪れることはないだろう。元の所業も恥ならば、神罰も恥だ。
優しい人だと思っていたが、今は欲求をどこに向けていいか分からず、使用人に暴力を振るうようになったようだ。とてもじゃないが、この人は王族に相応しくない。
英雄色を好むともいうが、当たられた使用人たちの傷は私が祈る事でそっと治した。暴力を受けた時の痛みや憎しみはなくならないけれど、せめて苦しまないで欲しいと思う。
国中の私と関わりのあった……私を虐めていた人が、陛下の元に訪れるまで、鏡の中では2週間、私の体感では1日の時間が過ぎていた。
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