泉 鏡花「駒の話」現代語勝手訳
泉鏡花の「駒の話」を現代語(勝手)訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように言葉を付け加えたり、ずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
浅学非才、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章を、どこまで理解し、現代の言葉で表現できるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品の勝手訳を行うにあたっては、「鏡花コレクションⅠ 幻の絵馬」(国書刊行会)を底本としました。
なお、これまで、語句の注釈については(* )として、その言葉の直ぐ後に記載していましたが、文章の流れが悪くなり、読み辛いとのご意見もありましたので、今回はできるだけ注釈を少なくし、一つの試みとして、最後にまとめて記載することにしました。もしかしたら、この注釈すらすでに必要ないかも知れませんが。
横町だけれど、私の家の裏庭とその家とは板塀一枚があるだけである。向かっては生垣で、中に細い露地が一つあるだけだから、下屋(*1)の屋根は二間とは隔たらない。その横町の二階家は――今は空き家になっている――門も羽目も黒く塗ったところへ……私の家も似たようなものだが、それ以上の古家で、窓も瓦も、こう黒いほどだから、通称を黒邸という。その二階の窓、濡れ縁、同じく煤ぼって黒い湯殿口に、勝手次第、気の向いたままに、白い猫がすっと現れる。
野良猫のように、のそのそと出たり、泥棒猫のように、ごそごそ引っ込んだりするのじゃあない。女猫で、容子よく、すっと姿を現すのである。
真っ白ではないが、茶の雑毛がほとんど目立たない所へ、事があって身構えると、颯と靡いて、その斑さえ隠れたのである。けれども、白とも、青とも言わないで、愛称は駒であった。――近所の女たちは「駒ちゃん、駒ちゃん」と呼んだものである。
私の母は、島田髷の若娘の時分には、大層猫が好きで、膝に抱いたり、襟を押つけたりしたという。それを聞いただけでも妬ましいくらいで、くやしい。……物心がついてからは、内に飼い猫は居なかったし、子どもは犬と仲が良い。で、馴染みのないところへ、善悪譚だの、猫又七変化などという草双紙で脅かされて、猫は絵にあるように、お妾を囓ったり、婆に化けたり、人に祟るものと思ったのが習いとなって、嫌いと言うよりも不気味であった。――猫嫌いが品評をするのは当たらないし、第一、世間で言う、人間の見る目と、猫連中の見る目とでは、面の姸醜の標準が違うそうであるが、女たちは、駒ちゃんは別品だ、別品だと言った。猫の目と言うけれど、目はいつも細りして、裂けた口も何処となくニヤリ……いや、どうもこれでは少し気味が悪い。決してそうした意味ではない。――とにかく色白の別品だ。
はじめ見た頃は、内の物干に丸くなって日南ぼっこをするのも、ぬっと伸びて塀の上を伝うのも、実は私の大嫌いな蛇がとぐろを巻いたり、蜿を打ったりするほどではないにしても、あまりいい気持ちはしなかった。――
「叱! 畜生」と、
長刀を廻すような手つきで、遠く離れた所から追い立てると、「裏の家に聞こえますよ」と、女たちにたしなめられたものである。
そのうち、ある年、夏の初め頃から可厭な病が流行だし、大流行の兆しがあった。市内のそこここに、病気の小火のような黒煙がパッと上がった。鼠が毒を啣えて放火をすると言う。この火は水では消えない。皆肝を冷やした。金杉の屑屋の集落の中に燃え始めた時――折から下根岸に住居のあった、今は亡き蕉園(*2)から、手紙の片隅に――「近所に可厭な鼠が居ます。お近づきなさいませぬように」とあった。――今でもその言葉の優しさを覚えている。……病気の性質も、大抵これでお分かりのことと思う。……
その時の、駒ちゃんの功績と言ったら! 町内の家並、五軒七軒、縺れるように鼠を追いかけ廻した後、梁へ逃れるのを、衝と猟って、引き伏せて、ふッと咽喉を掻く状は、姿優美な巴女(*3)が、馬上で勇ましく敵と引組んで、ぱらりと鎧の袖を揺する……と、敵手の体は、もんどり打って、地に落ちるという趣があった。
その頼もしさを想像されたい。
ついでだから言おう。……蕉園さんの話だが、そのお祖母さんは、確か京都の人で、猫好きであった。春雨の頃、もう仕舞おうという炬燵に長閑にあたっていると、ふっくりとその櫓に寝た京から連れてきた齢老いた飼猫が、ふと欠伸をして、退屈そうに、
「おお、しんど」
と人語を話したと言うのである。猫好きだから敢えて妖しいとも思わず、また他に何の異常もなかったという。なるほど、猫が言いそうなことだとも思われる。
これも昔の書物にある話だが、ある山寺に飼われた老猫で、鼠を駆るのが巧みなのが、夕間暮れ、桁を走りざまに獲物を追うと、爪が及ばず、破れ畳へ落ちてしまった。途端に、
「南無三」と叫んだのを、まさしく老僧が聞いたという。
世にありふれた想山著聞奇集は、真偽のほどはともかく、怪奇を分かりやすく語る、親切丁寧な書物であるが、それが説く、
『馬のもの言いたる事』の中に、東海道藤沢、化粧阪(*4)で、権吉という非人情、無慈悲な馬子の馬が、
「毎日々々重荷を背負わせる、末の冥利が悪かんべいさ」と言ったとあるのは、さもありそうで、しかも野気を帯びて笑わせる。が、同書にも書かれている伽婢子に、延徳元年三月、将軍義煕が江州栗本の陣に病んで逝ったが、その前夜、十五間の馬屋の葦毛の馬が、たちまち人のようにものを言い、
『今は叶わぬぞや』と言えば、また隣の川原毛の馬は、
『あら悲しや』と言ったとか……。
これは結構もの凄い。
が、ご安心願いたい。私は何も、駒ちゃんが人語を発したとまでは言わないつもりである。
言葉はいささか軽いが、駒は本当によく取った。――猫が鼠を捕るのに不思議はないが、駒はまったく、よく取った。――同じ取るにも、上手下手があるのは拒めない。夜中に捕るにも、がたり、ぴしりと騒々しい音を立てるなどいうことは決してない。噛んでも獲物の血を板の間にも壁にも、一滴も垂らさない。畳には毛一筋散らさず、濡縁を遠慮なく歩行いても、泥のぽつぽつぽつとした、あの足跡などは留めなかった。
はばかり(*5)の壁の崩れから、鼠の子が、ちょろちょろを通り越して、ぞろぞろ出る。病沙汰のあった折は、それが皆めらめらと火のようにも思える。我等が手の施しようのないところに、駒は油障子の下に泰然と控えて、そんな鼠などは、踞ったまま、出鼻の面を、一つ、前脚でトンと地を叩く程度で、もう獲物はぐったりとなって、凜とした髯の下にぶら下がって、ぶるぶると尾を震わせる。鼠には気の毒だ。残酷ではあるが、その、猫に捕られるのは因縁事だし、その、人に忌み恐れられようになったのは、おいらの所為でも、三年先の烏の所為でもない。学者方と、衛生係さんと、お医師である。……いたし方がない。で、そうして活きながら啣えた鼠の子は、たちまち屋根を飛んで、飼主の許に帰って、その子達、猫の子の前に放して走らせて、狂わせて、実地に狩ることを教え、かつ餌に当てるのだそうである。歯形もつかず、溌剌としたまま取って運ぶのは、巧みでなければならない、と皆が言った。
駒は身だしなみも可い。一寸伸びると雨が降るとかいう、屋根の日南で鼓草が生える時、あの顔を前脚で、ちょいとやる……にしても、耳の痒い時でも、足の裏がむずむずする時でも、塀に居て、瓦に乗って、窓下に湯殿の屋根に、どこに居る時でも、人の目に触れるところでは、後ろ向きにも、もちろん前覗きにも、駒が面洗いをし、化粧をしたのを見たことは一度もない。身だしなみが可いと言えよう。今時の芸妓は廊下どころか、芝居の桟敷に居てさえ、ぐいぐいと顔をつくる。座敷でさえ鼻の下を伸ばして塗るのに――
ただ一度、下町の知り合いの娘が来ていて、暑さのあまり、恥じらいながら私の露地裏で行水をした。色の白い女である。極まりを悪がって、明るさの少ない五燭の電燈さえ引っ張らなかったので、その物陰は暗かった。が、幽かに二日月(*6)が背戸越しに射した。で、一人で手拭いを背に当てながら、涼風に誘われて、葉越しに円ッこい片膝を立てて振り向くと、例の黒邸の生垣を伝った――誂えは夕顔だけれど――糸瓜の花が、ふわふわと大きく咲いた中に、ト、耳が立って、目が光って、下屋の軒端の葉隠れで、駒が大きく白く面を洗っていた。
娘は背筋を裂かれたように、キャッと言った。
道理だ。しかしながら、男猫ではなかったのである。
ごめんなさい。――これから少々化けますから。……
女中が、暗いままで、足慣れた台所の流し元へ出ると、天井裏でコトリと静かな音がする。見ると、二、三段棚を吊った天井近い破風の隅に、駒が仄白く乗っている。
「あら、駒ちゃん」
と、素っ頓狂な声を立てるが、たちまち袖を蔽った口許で、極低声で
「鼠が……来……て……い……る……の?」
と、掠れて囁く。――猫の気持ちになって、後で言うのを聞けば、うっかり「あら、駒ちゃん」と言うと、駒が鼠の通り路となっている所を『あながま』だと、前脚で、軽くちょっと圧える――そこを圧えておいてから、髯を捌いて口を開け……恐くはないようにニャーと言いそうだが、しかも微かな声さえも立てないのは……『来ていますが……静かになさい――騒ぐと鼠が参りませぬから』と、言うのだそうである。
「怜悧ですこと」
なるほど、聞けばそうらしい。
長い夜には宵から来て狙っている。
が、不意に出会うものを驚かさないために、コトリと平時の合図をする他には、物音を立てない。
がたりと響くと、
「ああ、取った」
寝そびれた枕に響いて、直ぐに分かる。たちまち風が抜けるように窓を出て、露地を裏の屋根へトンと飛ぶ音。やがてトーンと聞こえるのは、駒が寝床へ帰ったのである。
「はい。どなた? はい、はい、どなた? はい……ただ今……」
ひっそりとした秋の真夜中であった。私は一人で二階に居た。もちろん、仕事をしていたのだが、不意にこの声に驚かされた。階下の奥に寝ている家内の声ではない。女中の声で、ある。
「どなた?」と言って起き上がった……夢を見たか、魘されたか、寝惚けたか。それにしても、「はい」と言って、「ただ今」は、穏やかではない。真夜中……置時計は二時半を五分前だ。
何とも不気味だ。が、勢いを示して貫くように階子を下りた。
家内もその声で目覚めたらしい。が、蚊帳を取ったばかりの頃、衾を半ば抜けながら、蝉が殻を脱いだように、いや、空蝉が蟹蜷(*7)になったような姿で、寂しそうに怯えている。
家内に引き添い、私は立って、気を配り、声を呑んで顔を見合わせた。
もう、女中部屋の障子を開けて、女中は台所をがたがたやっている。水口を開けるらしい。
「誰だ!」
と当に言おうとした時、
「ああ、駒ちゃんなの?――まあ、駒ちゃん……」
ニャ―
それを聞いて、たちまち勇気づいた。
「どうした」
と、私たちは、その一重隔ての襖を開けると、女中部屋は真っ暗である。急いで電燈を点けた時、女中は台所をがたひしと廻っていた。
「どうしたんだい」
「ああ、駒ちゃん――駒ちゃんです。……鼠を取って、今、いつもの所から出て行きました。兀鼠の大きな奴でございましたわ」
「ああ、鼠か」
私は茶の間へ来て、呼吸つぎに温湯をぐいと飲った。家内は箪笥に寄っかかって、
「夢を見たの? ――『はいどなた?……ただ今』って言っておいでだったよ」
「え、夢でございましょうか。寝ています所へ駒ちゃんが来たんでございます。……それが他所のおかみさんの姿をしておりましたの。――白地の中形(*8)の浴衣を着て、黒い帯を引っかけにして、束ね髪で……あの、容子のいい中年増(*9)なんでございます。……」
と言った。そこまでは、何を寝惚けたことをと思ったが、
「それが、あの、そして……背が七、八寸、一尺ほどもない小さな婦で、暗い中に透き通って見えたんでございます。
私は茶の間から立って出た。ぎょっとしたように引き退る家内と入れ替わったのである。
女中は枕元で、膝小僧を押し包んで、
「あの、その婦が私の枕元に……」
と言いかけて、枕を押さえて、きょろきょろと四辺を見ながら、
「いえ、門口でございました。門の戸の外に立ったのでございますんですが、小さな婦の背丈に比べると、その戸の高さったらありません。木目がありありと立ちまして、あの、まるで、杉の樹が突っ立ったようなんでございます。その戸を、コトコト……そうでございますね。トントンとはではなく、コトコトと敲くんでございます。それが、戸の外に立ちましたのがやっぱり透き通ってこちらから見えるんでございますもの。――はいはいと言って、どなた? と、格子を開けましたつもりでございましたのが、このお台所の障子でございましたように思われます。中年増のおかみさんがそこに立っていますから、『どなた?』と申しますと、『ちょっとお開け下さいまし』と、小さな声で言いますから、はい、と言って、その大きな高い戸に手を掛けました。ええ、それがそこにございますその張物板でございました。――戸じゃぁない、おや、張物板だと気がつきますと、足許の障子の際に、駒ちゃんが、後ろ脚で立っていましたのが、すっと前脚をついて、あの、いつもするように口を大きく開けまして、ニャー」
キャアとも言いそうな家内も熟と聞いていれば、私も我ながら恐れなかった。第一女中が澄ましている。
「ああ、このニャーだよ、さっきから女中さん、女中さんと聞こえたのは。そう思い思い、あの、二枚重ねてありました張物板をぐっと引きますと、……吃驚しました……大きな鼠が隅の方に、――旦那様が、襖をお開けなさいました明がさして、目を光らしていたんでございますが、それと一緒に、駒ちゃんがわけなく引っ啣えて、ちょっと仰向いて、私に大きさを見せて、すいと、あの穴から湯殿の屋根へ抜けましたんでございます。鼠は漬け物桶と壁との間へ、晩方、張物板を立てつけましたわずかの隙間へ遁げ込んだんでございましょう。駒ちゃんが余り狭くってどうしても入れなかったもんですから、枕許の障子を敲いて、私を呼んだんでございますのよ」
女中は、更に猫の気になったように、歴然とそういったのである。
翌朝は、水口から屋根を覗いて、軒端に挨拶でもしていそうな駒に、
「昨晩は。――」
「お前さんはいい年増なんだってね」
と、女たちが笑いながら声を掛けているのが聞こえた。――駒はそれほど柔和で、鷹揚で、もの静かで、気味を悪がらせなかったのである。
「お前さん、ちょっとお前さん、来てご覧なさいよ」
「何だよ」
「駒ちゃんが嬰児を連れてきましたから」
「ふう」
台所で呼ぶのを、茶の間で答えて――月末は近づくし、いいアイデアは浮かばないし、私は一向に気乗りがしない。
その時、家内はお菜ごしらえをしていて、美味しく食わせて喜ばせようと思っていたのだから、山の神にも邪念はない。慈眼という微笑んだ顔色で襖口へ現れて、
「見ておやんなさいよ。――せっかく人の言うことをきき分けて連れて来たんですからさ。――昨夜晩方、台所を片付けているところへ、早めに棚の上へ駒ちゃんが来ましたからね。……駒ちゃん、お前さん、このあいだお産をしたというから、お鰹節をお祝いに上げたじゃないか。赤ん坊を見せてくれなきゃずるいよッて、そう言って……」
「ああ、さもしいことを言う」
「だって先は畜生ですもの」
「こっちが人間だから、尚さもしい」
「でも、何でも、よく分かってね。……今、台所口へ来て、小さな声で鳴くから、出てみますとね、一疋連れて来ているの。見せに来たんですよ。きき分けて。……よ、見ておやんなさいよ、可愛いんだから」
女中の下駄を借り物にしてつッかけて、台所から裏露地へ出ると、
「おや、いつの間に――」
三疋揃っていた。同じような、白の勝った三毛の、頭の扁たい、ふよふよと大きい、そしてまだ肩の細いのが、ちょぼりとした尾を動かしながら、鼻のさきで、ふうふうと、根太石の、それでも鼠の往き交うらしい穴を嗅ぐ。駒はその黒邸の、壊れかかった裏木戸の隅のごみ箱の上に、前脚をついて、胸に一疋、これは黒斑なのを抱いて乳を吸わせながら、地からふわふわと湧いたような、その三疋の児を熟と見ていた。
「可愛いね。みんないい児だね。ああ、いい児だ」
と、雨上がりの小春日和で、ぽッと真綿のような地気の漂う中に、頭を撫でるのを、駒は嬉しそうに、こう頷くらしい。蒸れて立つごみの湿気も、この時和光同塵(*10)で、仔猫はただ春の陽炎に毛の生えたもののようであった。
「抱いているのは秘蔵っ子かい? おや、もう蔵したね。――さあ、皆連れてお出で。――犬が来ると不可ないから」
そのうちに、ふらふらと木戸の下を潜りそうにするのもあれば、ごみ箱に立ちかかったのもあり、いつか駒の背に乗ったものもある。と見るうちに、もう一つも居ない。子どもの始末に敏捷い駒の甲斐性は、さながら腹へ吸い込んで、人目から消したもののようであった。
「……凄いくらい、よく人の言うことが分かってね……」
いやいやそれよりも――その頃、九段上になかなか好い鳥屋があって、結構遠方にもかかわらず出前をしてくれた。……暮れ方、台所で、この調味をしていると、ああ、そこは畜生だ。鼠を取ることは先に述べたような駒だから、鯣の脚や、秋刀魚の腸などにびろつくような不行儀なのではなかったが、鳥だけはどうにも堪らないと見えて、早くも臭いを嗅ぎつけて、水口から顔を出してニャーとやる。……二切、三切、あいよ、と何時も喜ばせていたのだけれど、私は自分の口からも言う……さもしい話だが、このご馳走は些と堪える。臓物なんぞをしゃぶるのではない。ささ肉や、皮付きをぺろりでは、その、まったく堪える。もうご免、と断って、お裾分けをしないことになっていたところ――今度は縁側を覗いていたが……。茶の間に鍋を掛けて、ふつふつ芳しい香を立てていた鍋に向かって、頸を伸ばして、座敷の真ん中へ、ぬッと来た。
「やるよ」
私は襲われたように片膝を立てて、
「おやりよ」
と言った。
「不可ません、不可ません、不可ません。癖になります。きりがないんですから。――あっちへお行き、駒ちゃん、不可ない」
ニャ――
「やった方が可いよ」
そこへ玄関の戸が開いた。家内が取り次ぎに立ったのを見ると、こちらが待ち構えていた客だったから、とにかく二階へ、と私は性急……以上の慌て者だから、いきなり階子段を駆け上がると、ヒヤリと触るばかり裾に搦んで、大きな鞠のように、ぱっと飛び上がったものがある。たちまち目前の畳へ、白く盛り上がってニャーと鳴いた。暗がりで、この時は慄然とした。「やるよ」と言って、引き受けた言葉を解し、拒絶した家内の後は追わないで、わざわざ二階へ飛んで縋ったのである。と、驚くばかりで、私はアッと声を立てた。
駒も、物干へ衝と逸れた。
その瞬間は、鍋には誰も居なかったのに、その上、皿には鳥の肉が捌いてあったのに――けれども、盗みも奪いもしない。一切れすら掠めもしなかったのである。
夕の雲は定まらず、朝の風は乱れた。長雨、また旱、……蒸し暑さ、また急に冷たい気温。そして暴風雨など、よくない時候が続き、駒はそういう内に歳を取り、老猫となった。下の締まりが悪くなったよ。汚いねえ。この畜生がと、隣近所では干棹を振り回したり、バケツの水を掛けるようになった。
遠慮したのか、飼われているその黒邸の棟さえ憚って、何処を密と伝ったか、背戸続きの裏の平屋の霜の日蔭に、小さく向こうむきに踞る。……腰に張りがなくなって、べとりとして、毛も汚れた。海鼠を乾したような形になって、僅かばかり、陽の影に尾を暖める……時々その状が憫然に見えた。
夜は塀の上で、げぶげぶと嘔吐いたりする。
もう、屋根へも出ない。
と、あの陽炎の影のように、一度連れて出たので、知っている三疋の仔は、いずれも他へもらわれて、その時胸に抱いていた、変わり種の黒斑が残った。駒と同じように優しく、大人しい雌猫で、もうこの仔猫の方の世になっていたのである。が、余りに駒が甘やかした……目に立って可愛がるので、飼主もこれを残したというのだが、……その大人しく、優しいところだけが親猫に似ていて、駒が半分萎して投げる鼠の子にさえ後退りをするのだという。……駒はそれを見ると、睨みもせず、いじらしそうに抱き寄せて、しっとりと頬ずりをするのだということであった。
「弱虫やい、やい」
と、女たちも囃したが、その黒斑は、穏やかな日には屋根へ出て、湯殿の廂へ下りようとする。三尺の高さもないのに、前脚をソッと下げるかと思えば、引き込めて、手を焼いたようにおどおどして後へ退いた。
向こうの屋根に、あの海鼠のようにへたばった駒が、これを見て、耳を屹と立てるが、また萎々となって、その都度ぐったりと俯向いた。
それでも一度、その後女中が黒邸へ行って、縁の下から、駒を抱いてきたことがある。
うちでは雀を可愛がって、いつも餌をやる、というほどでもないが、毎朝のように洗い流しを撒いてやる――ある時、チュ、チュという嬉しい声も聞こえないし、羽影が見えないのに、五十羽、百羽が一斉に漁ったように、立ち所に餌が消えることがしばしば続いた。撒き替えても直ぐになくなる。一同気をつけて見ると、鼠が居たのである。臆病者の雀は、そのため、恐れをなして寄りつかないで、樋竹の中から、恨めしそうに覗いたり、電信の針線にずらりと留まって悲しげに鳴いている。あちこち、飯粒の置き場所を替えてみたが、雀の来るところへは、言うまでもない、鼠は出没自在なのである。
餌を運ぶ女中が憤って、黒邸の駒を抱いて来た。……その時は、二階の物干の脇の甍に米を置いた。
「番をして頂戴――お婆さん」
ああ、今となっては、もうどうしようもない。――巴(*3)は尼になって、もう七十余りだ。役立たずの番太郎に交代したようなものだ。それにしても、鼠を捕れということか。案山子に番を頼むというのか……私はあまりの哀れさに心が痛んだ。
餌はそのまま白く乾いた。さすがに鼠は出なかった。が、雀の怖がることはそれ以上で、何にもならない。……気がついて苦笑しないものはいない――駒はさぞ人間を笑ったろう。いや、もう笑う元気もなかったろう。――抱いて返す時にも物干の上でしたたか尾籠をしていたから、それを恥じてか、哀れにも礼心で皿に盛った小魚には面を背け、尾を垂れて食わなかった。
黒邸という大きな塚には、末路の猫が籠もっている……昔の功績を何となく知ってはいても、人はしかし、誰もほとんどその存在を忘れたのであった。
冬の日、早く暮れかかり、雲暗く、今にも時雨が来そうだったが、しばらくは明るかった。忙しく、それでいて静かに、淋しくも感じられていたのだが、その時、私は行きかかった奥の座敷で、吃驚させられて、不意に膝をついた。どしん、みりみりずしん、ぐわらぐわら、キャー、わッと言う女まじりの人声がして、近所の人が何事かと露地へ飛び出した。
駒の仔猫がごみ箱の傍で、こぼれた萩の傍の蝶々にちょっかいを出しているところへ、恐ろしい猟犬が襲ってきたのである。これは横町の某邸に飼われている焦茶色の洋犬で、渾名を鬼鹿毛と言った。――ツラも、大きさもほとんど耳を垂らした小作りな馬に斉しい。――その頃、私の内に居た背の高い、書生さんの顔を、いきなり舐め辷って、頭の上へ頤を乗せた。……箪笥がぎりぎり通れるくらいの横露地に向いた小窓を、出し抜けに覗くと、ぬいと女中部屋の窓へ額に収まったようにその面が映っていた――その大犬が、荒々しく、まっしぐらに地を摺って、飛んで、仔猫を猟ったのだそうである。
どこに居て守ったのか、誰も知らない。――瞬時に我が児を口に啣えた老猫は、雲から駆け下ったように見えた。ト、横に退いて、躱す途端に、後脚で湯殿の戸を蹴った。その力、その弾みで、地から宙を二丈三尺、黒邸の下屋の屋根の真ん中へ颯と飛んだ。全身の毛が一団となって、吹雪が空に翻るように見えた。
その中空の煽りに捲かれたように、故とかは分からないが、棒に渡した六、七本――雨もよいで、干し物はもう、どこの家でも取り込んであったが――物干棹をばらばらと揺り落とすと、振り乱れて前後に、息つく間もなく落ちかかる数本の棹を、下にいた鬼鹿毛は刎ね潜り、飛び抜けるのに、辺り構わず、戸にも木戸にも、荒れ狂うようにしてぶつかった。ぶつかりながら、尚も空に躍って狙ったのである。両方のその響きで、内も隣家も、向き合った平屋の格子戸も、戸は外れる、木戸は刎ねる、台所の棚のものは、どこの家の皿小鉢もばたばたと皆落ち転げた。
駒の威力ばかりではない。借家自体の安普請も加わって、冗談ではない、実際その震動は凄まじかった。
私が見た時、猟犬はごみ箱に、頤をついて喘いで、駒は甍に、仔猫を庇って、スックと爪を立てていた。時雨の雲に乗ったように、面は光って凄かった。
が、恐怖で腰の立たない仔猫を、飼い主の家人が屋根へ出て抱いた時、駒は霜が消えていくように見えたのであった。
(了)
*1 家の一番上の屋根ではなく玄関の上などに小さく乗っている屋根
*2 池田蕉園……女性日本画家
*3 巴御前の女武将をイメージ
*4 鎌倉七切通しの一つ。最も斜面が急な切通し
*5 便所
*6 陰暦で、八月二日の夜の月
*7 ヤドカリのことか?
*8 染め模様の入った浴衣地
*9 20代の女性
*10 仏や菩薩が衆生を救うために、本来の姿を隠して、煩悩の塵をまとって、俗世に現れること
この作品は、まだ青空文庫にはないようです。
岩波書店「鏡花全集 巻二十二」もしくは、私が底本にした「鏡花コレクションⅠ」にありますので、機会あれば、是非原文でお読みになって下さい。




