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5話

 満月の夜だった。

 ひんやりとした空気が気管を通って肺に染みてゆく感覚があって、シンは眼を閉じる。夜の漣が淑女の奏でる楽器のように響く。

 体外に広がる静謐な空間が心地よかった。熱のように荒れ狂う衝動をおさえるにはちょうど良い。


 エスの内なる声が発する暗澹とした音色が、繊細なピアノのように美しい旋律を刻み始めている。

 知らず高鳴る胸をおさえ、シンは深呼吸した。

 ここ数日、衝動がひどくなっている。

 ――歌えばいい

 甘いささやき。今まで誰も、そんなことを言ってくれる人はいなかった。

 詠唱禁止は意識の奥底に沈められ、重い錨となってシンをとどめている。

 なのにいとも簡単に錨ごと溶かしてしまうような力さえあった。

 そっと喉元を手で抑えた。


「シン」


 背後からのバリトンに、シンははっとして振り向いた。

 海にぽつねんと立つ孤島はほかに照明を受けないため、夜は一切の暗黒となる。だが満ちた月の淡い光を最大限に浴びて、全身を黒の外套で覆ったエスは悠然とそこに佇んでいた。

 静かなピアノ。あるいは澄んだベルの音をおもわせる、エスの心の旋律。

 何が言いたいのかは、感じ取れた。


「ここを、出ていく」

「…うん」

「世話になった」


 いつも以上に、エスの口調はぎこちない。シンは顔を伏せた。


「すまん。お前から受けたものに何一つまともに報いることが出来ない」


 シンはゆるくかぶりを振った。


「…ひとつだけ聞かせてくれる?」

「ああ」

「過去のこと…妹さんと、“導き手”の人のこと、教えて」


 エスの音色が揺らいだ。

 シンは、けれどまっすぐに見つめた。

 エスが全快し、すぐに出て行けいけるのを少しだけ長くとどまってくれたのは知っている。

 そして自分に引きとめる力がないということも。

 だからせめて、その欠片だけでも残して行ってほしかった。エスの、心の欠片を。

 微かな溜息とともに、エスはわかった、とつぶやいた。


「俺には妹が一人いた。リラという名だ。他に家族はいなかったから、唯一の家族だった。そして将来を誓った女もいた。彼女は“導き手”として人々を救うべく歌っていた。マリアという名だ。知っているか」


 シンはかぶりを振る。

 エスはそうかといっただけだった。淡々とした口調とは裏腹に、エスの旋律がかすかに熱を帯びる。

 ――なぜか胸がひどく圧迫されるような感覚を受けた。


「リラとマリアは仲が良かった。導き手として奔走するマリアに、リラは少しでも助けになれたらと侍女としてつきそうようになった。俺も護衛として常に側にいた。マリアは優れた“導き手”だったし、驕り高ぶるところもなく、常に平等に人に接した。当然、人望は厚かった。俺もリラも、そういうマリアが好きだったし、周りもそうだった。忙しくはあったが三人一緒で、幸せな毎日を送っていた。リラにも将来を約束する奴が現れて、やがて四人になった。だが、マリアは病気になった。“導き手”としては致命的な、喉の病気だ」


 知らず、シンは背筋を震わせた。


「汚染を押し返すために、乞われただけ境界で詠唱を重ねた。そのせいで汚染物質が徐々に喉にたまり、マリアの声帯を冒したんだ。彼女は歌えなくなった。“導き手”が汚染の影響を受けて、病気になるということは先例がなく、対処の仕様もなかった。当然だ。マリアほど人々のために詠唱を重ねた“導き手”はいなかったんだから。そしてマリアの力に嫉妬し、疎ましく思っていた他の“導き手”たちは信じなかった」


 ぎり、とエスが歯噛みする。


「精神が不安定になっていたマリアにつけこみ――誑かしたんだ」


 とたん、静かに堰をきった濁流のような感情がシンに押し寄せた。

 悲鳴の合唱を思わせる旋律。

 慟哭が、嘆きが、憤りが、後悔が、渾然たる旋律となって響いた。


「あいつらは…他の“導き手”どもは、マリアに寄せられる羨望と崇拝を嫉んでいた。恨んでいた。マリアが歌えなくなったのをせせら笑い、歌えない彼女の前であいつらは一斉に歌ったんだ。共鳴作用だよ。ぼろぼろになったマリアは、引きずられて歌ったんだ。声帯が壊れ、肺が腐り、吐いた血で気管がつまってその命を散らすまで」


 白く握りしめた手から血が滴った。

 シンは全身が総毛立った。引きずり込まれる。記憶の旋律へ、共鳴する。


 ――歌いたい、歌いたいのエス。苦しい…

 ――俺が守る。ずっとそばにいる…!

 ――苦しい。歌いたい。歌いたいのに…っ!


 顔も声も聞いたことのない。なのに、シンはまるで鏡の自分を見ているような気がした。

 境界線をなくし、どろどろに溶けていく。心のもっとも深いところが共鳴している。

 全身を暗闇に浸し、不協和音の旋律が耳をつんざき、崩れてゆく。

 その痛みは、あまりになじみ深く、冷たく、悲しかった。

 だがかろうじて自我を保ったのは、自分のそばにエスはおらず、向こうにはエスの心すべてが存在していたから――その相違を感じたからだった。

 ざわりと胸が騒いだ。


「マリアは…他の“導き手”に、殺されたの」


「そうだ。彼女がいなくなれば、邪魔が消える上にその穴埋め分だけでも他の奴らの需要が増すからな。しかも直接手を下さない。どうしようもなく腐りきった狡猾なやり方だ。俺は、はじめ何も知らず、ただマリアの死のみを知らされ、衝撃で自らを見失った。けれどリラは一足先に真実を知ってやつらを糾弾したんだ。そして、口封じのために殺された」


 血を吐くようにエスは言う。低く押し殺した声は、まるで汚泥をかきわけて進むかのように重い。

 シンはただ、愕然とそれを聞くしかなかった。エスが“導き手”を憎む理由――それは、十分すぎるような気がした。

 何も言うことができなかった。許されなかった。


「お前は、リラにもマリアにも似ている」


 硬直するシンに、エスはかすかに微笑んだように――見えた。


「生きろよ」


 淡く、とけるような旋律を残して。

 エスの黒い影は、跡形もなく消えた。あとには何も残らない。


 シンはただ、虚空を見つめた。どこへともなく消えたエスの影を追うように。

 やがて瞳から涙があふれ出しても、じっと月光の照らす闇を見つめていた。  




 汚染が拡大している。

 潮風に乗って海面を滑りながら禍々しい旋律が徐々に広がっていくのを、シンはぼんやりと聞いていた。

 海鳥の姿はなく、鉛を含んだような雲が重くたちこめている。

 たぶん、エスが“導き手”を葬ったためだろう。あるいは今も、そうしているのかもしれない。


 自室の窓にもたれかかり、シンは一日中ぼうっとしていた。

 突然表れ、突然消えた一人の男――エスがいなくなってから、二日が経った。

 別れの間際のことは強烈に覚えているのに、この二日間、まるで霧の中をうろついているように記憶があやふやだった。

 確かなものが何ひとつなく、メロディだけが空回る。

 目を閉じる。溜息をつく。



 海に閉じ込められたこの島は、時間の流れがひどく緩やかだった。

 見るものといえば海と空と鳥、そしてときおりクジラやイルカがちらつくぐらいのものだ。他には何もない。ただ海を眺めることになる。

 あるいは、はるかその向こうにある大陸に思いを寄せるだけ。


 シンは、しばしば屋上へとエスを連れ出した。

 そしてあるとき、気を引こうと一人で話を盛り上げているうちにふいに足を踏み外して海に落ちたことがあった。鼻腔に入り込んでくる塩水、全身に感じる冷たさは、強い腕に引き上げられて救われた。

 横たえられたシンは激しく咳こみ、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、エスが泣きそうな顔をしたのを見てしまった。


 ほぼ一人ごとのようにシンが話しかけるのを素気なく聞いている、そんな普段のエスからは考えられない顔だった。

 あるいは、自分の都合のいい幻覚だったのかもしれない。

 溜息。


(寂しいな…)


 エスが去ったあの日から、なんだかとても気が重い。あの鋭く優しく、悲しい旋律を聞いていたい。身を浸していたかった。

 だがふいに聞こえてきた旋律に、シンはぴくりと反応した。顔をあげる。


(何…誰の歌?)


 それは微かな、震えるような音の塊だった。耳元をとぶ虫の羽音に似ていて、顔をしかめる。

 だが確実に人の声だ。固有の振動が鼓膜に伝わる。次第に加速を得て大きくなってゆく。

 海がざわめく。

 次に聞こえたのは、悲鳴――そして、唐突に途切れた。


 エスははっと下の階を見つめた。いつの間にか塔からせりだした部分へと集まっていた世話人たちが、何かに追われるように塔へと逃げこむ。

 せりだした先端に、何隻もの船が連なって止まっていた。そこから細い影が、単身降り立つ。


 シンは一連の光景をまるで夢のように見ていた。

 自分と世話人のほかは誰も踏み入れないはずの場所に――大きな船が、何隻も止まっている。

 そこから出てきたのは、一人の少女だ。その他の影は見えない。


 間違いない。あの少女が、この奇妙な歌の音源だ。両眼を大きな目隠しが覆っている。


 だがその足取りはまるで滑らかだ。

 鳴りやまぬ旋律が見えない手で確かめるように広げてゆく。

 その包囲網が塔全体に及び、やがてシンも絡め捕られる。

 シンは顔を歪めた。触れたことで相手に察知され、同時に自分も理解する。

 あの少女は間違いなく盲目だ。だからその代わりに――声を出すことで、その振動と反射で限りなく正確に事物をとらえることができるのだ。

 むしろ、それを望んで目を失ったように。

 シンのほうを見るように、盲目の少女は屋上に顔を向けた。


「ねえっ!」


 耐えきれず、シンは下に向かって叫んだ。


「あなた、誰! どうしたの? 迷子になったの?」


 とたん、シンは裂かれるような喉の痛みを感じて息を詰まらせた。喉を抑える。何が起こったのか、解らなかった。

 盲目の少女はこちらを見たまま、確かに宣言した。


『目標捕捉。廃棄予定の特異種――“シン”と確認』


 耳鳴りのように響く声。まるでそれを合図としたかのように、シンは激しく咳こんだ。

 獣の鳴き声のようで、止まらない。やがて、何かが爆ぜた。

 鋭い痛みが喉を刺す。抑えていた手に、何かが染みた。手を開く。視線を落とす。

 澱んだ赤――濁った血だった。


『稀少声帯病への感染を確認。感染危険度少。上陸に問題なしと判定』


 シンは呆然と少女を見やった。

 何が――何が起こった?

 少女の声を合図として、船に潜んでいたものたちが次々と姿を現した。

 甲冑に身を包み、武器を手にした男たちが塔に入り込んでくる。入れ替わるようにして盲目の少女はさがった。

 やや遅れて、一人の青年と少女が降り立つ。


 少女と目があった。盲目の少女とはまったく違う――強い眼差しと、きれいな服に身を包んでいる。

“導き手”だ、とシンは本能で理解した。

 突き刺すような、それでいてかすかにふるえた旋律が押し寄せる。


『わたくしはソイン。あなたを解放しにきたわ』

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