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4話

 数日間、晴れの日が続いていた。空のあかるさに時折目を細め、シンは軽快な足取りで自室の隣へと向かう。

 おざなりにノックをして返事を待たずに入ると、ベッドに腰かけたままの男が不機嫌な顔をしていた。――太い弦をはじくような音。


「おはよう、エス。身体の調子はどう?」


 にっこりと笑って言うと、男――エスは深くため息をついて額に手をあてた。


 負傷してこの孤島に落ちてきてから二週間近く経っている。

 その間、シンは毎日介抱し世話をやいた。

 エスは警戒をあらわにし、突き放す態度と言葉を隠さなかった。だがそれもどうやら効かないらしいと解ると、黙って溜息をつく――つまり、あきれるばかりだった。


「…お前、とてつもない馬鹿か? それともとてつもない子供か?」


「うん?」


「俺がお前の同胞を殺して回っているということは理解しているか」


 シンは首をかしげながら、うん、と返した。

 めげずに毎日やってくるシンを牽制するためにエスは自分のしたことを話した。エスが更に溜息をつく。


「解らないんだよ」


 シンは素直に答えた。本音だった。同胞。同じ血族。導き手。


「私は、私一人だから。仲間といわれても解らないし、悲しむこともできない。あなたが殺したのを実際この目で見たことがあるわけではないし、怖がることもできない」


 滑らかに息を吐くように。シンにとって同胞というのは白紙の楽譜に似ていた。確かにあると解るのに、その存在を読み取れない。

 エスから感じたのは倦んだような、それでいて暗く吹雪のような音色だった。

 感情に合わせて、エスの音色は微妙に変化する。

 今、エスは微かに高い音程に感情を揺らがせた。表情には出ずに、シンを見る。


「…そうか」


 反駁されることはなかった。感情の音色が、かすかに和らいだ。


 シンとエスの奇妙な同居生活は、静かに、けれど断続的な揺らぎを交えて続いた。

 単調な音色に混じる不協和音のようなそれは、やがて日常の中へと溶け込んでいく。

 遠巻きにおびえながら見守るしかない世話人たちを尻目に、エスのことはすべてシンがみた。

 衣服も食事も、すべて整えた。寝る場所はすぐ隣の部屋に設けた。古いが広い建物であったので、部屋はいくらでも余っていた。

 はじめは鬱陶しそうにしていたエスがやがて緩やかに変化していく音色を、シンは心地よく聞いていた。

 エスの芯なる音色は、とても穏やかで優しい。ただその旋律は、深い悲しみと憤り、憎悪に塗り固められてしまっていて微かにしか聞こえないのだ。



 シンは、エスを連れ出した。

 この孤島には何もないけれど、何にも邪魔されない広い海と空がある。白い鳥が舞い上がる。


「気持ちいいね」


 建物から大きくせり出したところに立って、シンは伸びをした。潮風が髪をくすぐる。目を閉じる。潮騒と、光と風の調和する音色が聞こえる。


「…お前」


 少しとまどうようなバリトン。シンはゆっくり振り向いた。


「歌いたいか?」


 いきなり、核心をつく。シンは眼を瞠って、それからなんとか笑った。


「うん」


 今もなお、胸の内側に旋律が渦巻いている。自然の音を聞くだけで、伴奏はもう始まっている。

 唇を噛んでいなければ、手を握らなければ、あふれてしまう。


「歌えばいい」


 シンはぱちくりと目を開いた。それからくすくすと笑いだす。


「無理だよ」


「なぜだ」


「なんでって、」


 シンは苦笑した。エスは、本当に不思議だ。何を考えているのか解らない。


「あはは、歌えたら、最高だよね。でも、女神の血は私にそれを許してくれなかった。なんのためにか知らないけど、歌ったら人を殺す声なんていうのをくれた。聞いてくれる人がいなければ、歌っても意味がないもの。それに、聞いたら死んじゃう歌なんて気持ち悪くてしょうがないでしょ」


 自嘲する。胸が痛い。言葉すら、膿んだ心を刺す。シンはくるりと身をひるがえした。嗚咽を、寸前で押し殺した。

 深く息を吸う。ゆっくりと吐く。エスに、知られないように。


「…“導き手”は、歌を歌うことが呼吸と同意義なんだろう」


 シンは答えなかった。


「歌うことで、自分を定義づける。歌こそが喜びだと、そう聞いている。歌えるなら、歌えばいい」


 エスが微かに言葉につまった――ような気がした。

 しばらく、海鳥の鳴く声だけが聞こえた。やがてぽつりと、バリトンが切り出す。


「楽しそうに、嬉しそうに歌っていた」


 シンは振り向かなかった。振り向いてはいけないような気がした。


「多くのものが慕っていた。優しい女だったから、乞われれば喜んで歌っていた。だが、たった一人のために歌う歌が何よりうれしいと、はにかんだ笑みを浮かべていた」


 まるで大切なものをそっと包みだすような響き。シンは知らず胸をおさえていた。

 心をきゅっと締め上げるような、それでいて温かく包みこむような旋律――共鳴作用。

 エスがこぼす記憶の欠片。それはきっと“導き手”で、大切な誰かだったのだろうと容易に推測できた。

 ――胸が、痛む。


「俺も、妹も…あいつのことが、好きだった」


 微かな、優しく悲しい音色。潮風に後押しされるように、シンはゆっくりと振り向いた。エスと目が合う。

 エスは、すぐに目を伏せた。開かれていた音色はすぐに止んでしまう。


「妹さんが、いたんだね」


 後ろで手を組み、シンはあたりさわりのないように聞いた。エスはあいまいに返事をするだけだった。




「流刑者…ですって?」


 耳をつんざくような報せを、ソインはやや声を荒げて受け止めた。

 頭を垂れ、神殿に座す神像を前にするかのごとく態度を崩さぬ調査員を見下ろす。

 イドに力を貸すため、調査団に“悪魔”の行方を調査させれば、海上の孤島に転移したという。

 しかもそこにいるのは、歴史の表舞台から抛られた、“導き手”の流刑者だという。

 たしかに、力をかさにきて横暴な振る舞いをするものはいる。

 だがそれはすべて、導き手の背景にある護衛集団によって処理されているはずだ。何かを奪ってしまえばその代金を後で何倍かにして払い、暴力を振るえば治療費と病院の手配を負担するなど。


 実際に刑を科されることなどありえないし、またそれほど重い罪を犯したものがいるはずがない。

“導き手”は人類の命綱そのものだ。多ければ多いほど綱は太くなるから、人々がそれを手放そうとするはずがない。

 たとえ、綱がどんなに荒れて手を痛めようとも。


 ――突然変異。


 ソインはふるえた。連綿と続く女神の血脈。気が遠くなるほど延々と重ねられてきた積み木。けれど、それに狂いが生じないことなどあるのだろうか。

 望まれない力を持った“導き手”が生まれてくることを、否定できるわけがない。


「なぜ…そんなものを生かしているの」


 声は老朽化した弦のように震えた。

 同い年の少女だという。望まれない力だと解っているなら、なぜ消してしまわなかったのか。

 むざむざ生かしておくなど、いたぶっている――あるいはそれ自体に怯えているようにしか思えない。

 あるいは、はたして少女は直接手を下すほどにおぞましく恐ろしい化け物なのか。


「あのものの声は確かに“悪魔”と並び称すべきものです。なぜあのようなものが生まれてきたのか解らない。何が原因なのか、何が作用しているのか。けれど、それゆえに研究対象としての価値はある」


 切り込む冷やかな声が答える。執刀医を思わせる目だった。

 瞬間、それまで持ち上げられていたということを自覚する。

 すべての賞賛、名誉、羨望はそのひとつひとつが傀儡の糸だったのか。ソインは絶句した。


「ですが、あれが“悪魔”の手に渡り、さらに利用されるとなると厄介なことになります。一個師団をつぶすことなど容易になる。意見は割れていますが、おおむね破棄のほうこうで固まっています。ですから、どうぞソイン様の力とイド様のお力で決着をつけていただきたい。援護にはいくらでも回します」


「悪魔”はまだしも、私たちに同胞を殺せと言うの!?」


 きん、とソインの声はつんざくように響く。

 それでも男は動じず、冷やかな目は、かすかに嗤ったようだった。白々しい慇懃な態度でそれを押し隠しながら。


「お手を煩わせてしまい、心苦しい限りです」


 それ以上は無用といわんばかりだった。ソインは見えない脅迫に屈服した。

 男の眼が見透かしたように核心をつく


 ――お前たちに同胞という意識などあったのか、と。


 導き手は各地に散っている。互いの存在を音によって共有することはあれ、実際に顔をつきあわせる、会話するということはほとんどない。

 同胞の生死を確認することは――そのことだけが、重要なことだった。

 穴埋めをする必要があったから。

 そうでなければ、皆がみな、己の城をもっていて、そこでふるまうことが精いっぱいだった。他の導き手のことなど気にはしない。ともすれば侵入者であり敵対する者ぐらいにしか、思わない。


 ソインの中で、何かがごとりと音をたてて動いた。

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