表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

3話

 イドは、一見すると優男という言葉がぴったりの青年だった。

 事実、その性格も温厚で冷静だった。礼儀正しく、物腰も穏やかだ。

 周りからの称賛を浴びてもけっして驕ることがない。

 優しい、けれどどこか悲しい瞳が、ソインを惹きつけてやまなかった。


 自分の目の前に、人々は膝を折り、頭を垂れることが当然だった。

 けれど、イドにはなぜかそうしてほしくなかった。丁寧に接されるたび、距離があるように感じてしまう。

 それはたとえ命令したところで取り払えるものでもない。もどかしく、腹立たしかった。


 イドを護衛に命じた。いつでも手が届くところにいてくれるように。

 でも、なのに遠い。陽炎のように、残響のようにつかめずに。


「…この間は、惜しかったわね」


 海鳥が鳴いている。ベランダに立って、ソインは海風になぶられる髪をおさえた。

“悪魔”の襲撃を受け、間一髪でイドが助けてくれてからというもの、神殿の警備は三倍になった。

 それでもソインが神殿から動くまいとしたからだ。


 やがて海の向こうに沈もうとする橙色の太陽が見えた。海面が燃えるような色に染まる。

 傍らに控えていたイドが、静かに首肯する。


「怪我は、もう大丈夫なの」

「はい、致命傷ではありませんでしたから。寸前のところで取り逃がしてしまい――」

「それは、もういいといったでしょ」


 あくまで事務的な、礼儀正しい騎士じみた口調にソインは苛立った。

 先日――ソインの所有する護衛兵団を率いて、“悪魔”を追いつめた。

 ソインは、イドの、兵士のための賛歌をうたった。

 士気を高め、一時的に身体能力を活性させるための歌だ。

 その連携が功をなし、あともう一息というところまで追いつめたのだが、寸前のところで“悪魔”は空間転移の術を発動させて逃げた。


「あのとき、術は不安定になっていました。おそらくそう遠くは逃げていないはずですが」


 ソインは黙る。

 たとえ二人きりになったところで、イドの態度が変わることはない。

 大衆の前に出てもなんら問題ない、理想的な護衛の態度を保っている。


「ねえ、イド」

「はい」

「あなた、私のことを以前聞いたことがある?」


 イドは、軽く目を見開いた。だがすぐに柔和な笑みにとって代わられる。


「ええ。希代の歌姫、類まれなる“導き手”ソイン――その名を知らぬものなど、おりませんよ」


 予想とたがわぬ答えに、ソインはくすりと笑った。


「あなたも、みんなと同じことを言うのね。噂ばかりが先行して。実際、自分の耳で聞いたわけでもないでしょうに」

「現状がすべてを物語っておりますよ。あなたがた導き手がいるおかげで、世界は均衡を保っている。この一帯が汚染にさらされていないのも、貴女のおかげだ」


 その声に、嘘や世辞の音はない。けれど純粋な称賛に混じって、ひどく複雑な何かがあるのを、ソインは不思議に思いながら聞いていた。

 ざわりと胸が騒ぐ。


「あなた、なぜあの悪魔を追っているの? あれは確かに討つべき存在だけど、なぜあなたがそう思ったのか知りたいわ。あなた、あいつと知り合いだったの?」


 イドがはじめてソインの目の前に現れたとき――あの“悪魔”をさして、名前を呼んだのだ。

 ソインはまっすぐにイドを見つめた。イドが、呼吸を飲んだ。

 その揺らぎは動揺、葛藤、不安、焦燥――入り乱れた、複雑な感情。なにか、重大なことに触れたのだ。

 横たわっていた壁が揺らぐのを感じ、ソインは思い切って踏み込んだ。


「イド、答えて」


 意図的に、声を変える。拒絶を許さぬ意志を強く伝える抑揚。女神の血族のみに許された力。

 イドは一瞬目を伏せ、懺悔をするように深くため息をついた。


「仰る通り、私と“彼”は、知り合いです。いえ、私にとって…兄のような存在でした」


 はじめて、イドの声に強い感情が滲んだ。ひどく疲れているような音だった。

 ソインは黙ってそれを聞いていた。


「彼は、決して狂っているわけじゃない。悲しみと憤りが深くて、あまりにも深すぎて、あんな行動をとるようになったのです。けれど、決して許されることじゃない。ただしいことじゃない。僕は――僕こそが、彼を止めなければならない」


 ふいに、イドと“悪魔”をつなぐものが浮かび上がったように見えて、ソインは動揺した。

 イドと“悪魔”に横たわるものは、ソインとイドの間でつながるものよりもはるかに深く、強い。


「姫、お願いがございます」


 急にかしこまり、イドは片膝を折って頭を垂れた。


「もし、彼を――“悪魔”を捕縛いたしましたら、その後の処置は私に任せていただきたいのです」


 追い詰められた、真摯な声だった。なにか、焦燥にかられ、怯えてすらいるような。

 あの“悪魔”は人々の宝、希望たる導き手を殺した。捕まったらただ死刑になるだけでは済まないことは、ソインにも解っていた。

 だが、これではまるで、イドがあの“悪魔”を案じているようではないか。


 ソインは混乱した。兄のような存在、というのも解らない。

 剣を交えておきながら、身を案じるとはいったいどういうことなのか。

 知らず胸を焦がす羨望の念に、息苦しくなった。自分の知らないイド。

 自分以外を強く思うイドに、ふつふつとした憤りすらわいてくる。当たり散らしそうになる寸前のところで、ぐっと噛み潰した。


「理由を、聞かせて。あの男はあなたの実兄? 親族なの?」

「…いいえ。けれど、やがて家族になろうとしていた人でした」


 その意味するところを知らぬほど、幼くはない。もとは赤の他人が義理の家族になろうとする。

 そう結びつけるのは、婚姻関係。あの男がイドの家族と婚姻を結んだのか、それとも。

 ソインはもう一方の考えを締め出した。考えるだけで、身が内側から焼き尽くされてしまいそうだった。


 イドは、自分の護衛だ。他の誰のものでもない。たとえ過去であっても。

 だが、それははたして過去なのか?

 ――イドは、今もその誰かを想っている?


 そう推測したとたん、まるで水が上から下へ流れるようにすとんと胸に落ちた。イドの瞳、揺れる声の抑揚――そのすべてに、合点がいく。

 かき鳴らすような激しい旋律が、胸のうちに渦巻いた。荒れ狂い、圧迫する。

 ぐっと唇を噛んだ。


「…解ったわ。けれど、条件がある」


 自分は、いま、ひどく醜い顔をしている。

 イドが顔をあげる。期待するような瞳が、いまは疎ましい。


「私を名前で――ソインと呼びなさい」


 イドが何かを言おうとした。けれどそれを塞いだ。まるで身を投げるかのように、ソインは自ら唇を重ねていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ