3話
イドは、一見すると優男という言葉がぴったりの青年だった。
事実、その性格も温厚で冷静だった。礼儀正しく、物腰も穏やかだ。
周りからの称賛を浴びてもけっして驕ることがない。
優しい、けれどどこか悲しい瞳が、ソインを惹きつけてやまなかった。
自分の目の前に、人々は膝を折り、頭を垂れることが当然だった。
けれど、イドにはなぜかそうしてほしくなかった。丁寧に接されるたび、距離があるように感じてしまう。
それはたとえ命令したところで取り払えるものでもない。もどかしく、腹立たしかった。
イドを護衛に命じた。いつでも手が届くところにいてくれるように。
でも、なのに遠い。陽炎のように、残響のようにつかめずに。
「…この間は、惜しかったわね」
海鳥が鳴いている。ベランダに立って、ソインは海風になぶられる髪をおさえた。
“悪魔”の襲撃を受け、間一髪でイドが助けてくれてからというもの、神殿の警備は三倍になった。
それでもソインが神殿から動くまいとしたからだ。
やがて海の向こうに沈もうとする橙色の太陽が見えた。海面が燃えるような色に染まる。
傍らに控えていたイドが、静かに首肯する。
「怪我は、もう大丈夫なの」
「はい、致命傷ではありませんでしたから。寸前のところで取り逃がしてしまい――」
「それは、もういいといったでしょ」
あくまで事務的な、礼儀正しい騎士じみた口調にソインは苛立った。
先日――ソインの所有する護衛兵団を率いて、“悪魔”を追いつめた。
ソインは、イドの、兵士のための賛歌をうたった。
士気を高め、一時的に身体能力を活性させるための歌だ。
その連携が功をなし、あともう一息というところまで追いつめたのだが、寸前のところで“悪魔”は空間転移の術を発動させて逃げた。
「あのとき、術は不安定になっていました。おそらくそう遠くは逃げていないはずですが」
ソインは黙る。
たとえ二人きりになったところで、イドの態度が変わることはない。
大衆の前に出てもなんら問題ない、理想的な護衛の態度を保っている。
「ねえ、イド」
「はい」
「あなた、私のことを以前聞いたことがある?」
イドは、軽く目を見開いた。だがすぐに柔和な笑みにとって代わられる。
「ええ。希代の歌姫、類まれなる“導き手”ソイン――その名を知らぬものなど、おりませんよ」
予想とたがわぬ答えに、ソインはくすりと笑った。
「あなたも、みんなと同じことを言うのね。噂ばかりが先行して。実際、自分の耳で聞いたわけでもないでしょうに」
「現状がすべてを物語っておりますよ。あなたがた導き手がいるおかげで、世界は均衡を保っている。この一帯が汚染にさらされていないのも、貴女のおかげだ」
その声に、嘘や世辞の音はない。けれど純粋な称賛に混じって、ひどく複雑な何かがあるのを、ソインは不思議に思いながら聞いていた。
ざわりと胸が騒ぐ。
「あなた、なぜあの悪魔を追っているの? あれは確かに討つべき存在だけど、なぜあなたがそう思ったのか知りたいわ。あなた、あいつと知り合いだったの?」
イドがはじめてソインの目の前に現れたとき――あの“悪魔”をさして、名前を呼んだのだ。
ソインはまっすぐにイドを見つめた。イドが、呼吸を飲んだ。
その揺らぎは動揺、葛藤、不安、焦燥――入り乱れた、複雑な感情。なにか、重大なことに触れたのだ。
横たわっていた壁が揺らぐのを感じ、ソインは思い切って踏み込んだ。
「イド、答えて」
意図的に、声を変える。拒絶を許さぬ意志を強く伝える抑揚。女神の血族のみに許された力。
イドは一瞬目を伏せ、懺悔をするように深くため息をついた。
「仰る通り、私と“彼”は、知り合いです。いえ、私にとって…兄のような存在でした」
はじめて、イドの声に強い感情が滲んだ。ひどく疲れているような音だった。
ソインは黙ってそれを聞いていた。
「彼は、決して狂っているわけじゃない。悲しみと憤りが深くて、あまりにも深すぎて、あんな行動をとるようになったのです。けれど、決して許されることじゃない。ただしいことじゃない。僕は――僕こそが、彼を止めなければならない」
ふいに、イドと“悪魔”をつなぐものが浮かび上がったように見えて、ソインは動揺した。
イドと“悪魔”に横たわるものは、ソインとイドの間でつながるものよりもはるかに深く、強い。
「姫、お願いがございます」
急にかしこまり、イドは片膝を折って頭を垂れた。
「もし、彼を――“悪魔”を捕縛いたしましたら、その後の処置は私に任せていただきたいのです」
追い詰められた、真摯な声だった。なにか、焦燥にかられ、怯えてすらいるような。
あの“悪魔”は人々の宝、希望たる導き手を殺した。捕まったらただ死刑になるだけでは済まないことは、ソインにも解っていた。
だが、これではまるで、イドがあの“悪魔”を案じているようではないか。
ソインは混乱した。兄のような存在、というのも解らない。
剣を交えておきながら、身を案じるとはいったいどういうことなのか。
知らず胸を焦がす羨望の念に、息苦しくなった。自分の知らないイド。
自分以外を強く思うイドに、ふつふつとした憤りすらわいてくる。当たり散らしそうになる寸前のところで、ぐっと噛み潰した。
「理由を、聞かせて。あの男はあなたの実兄? 親族なの?」
「…いいえ。けれど、やがて家族になろうとしていた人でした」
その意味するところを知らぬほど、幼くはない。もとは赤の他人が義理の家族になろうとする。
そう結びつけるのは、婚姻関係。あの男がイドの家族と婚姻を結んだのか、それとも。
ソインはもう一方の考えを締め出した。考えるだけで、身が内側から焼き尽くされてしまいそうだった。
イドは、自分の護衛だ。他の誰のものでもない。たとえ過去であっても。
だが、それははたして過去なのか?
――イドは、今もその誰かを想っている?
そう推測したとたん、まるで水が上から下へ流れるようにすとんと胸に落ちた。イドの瞳、揺れる声の抑揚――そのすべてに、合点がいく。
かき鳴らすような激しい旋律が、胸のうちに渦巻いた。荒れ狂い、圧迫する。
ぐっと唇を噛んだ。
「…解ったわ。けれど、条件がある」
自分は、いま、ひどく醜い顔をしている。
イドが顔をあげる。期待するような瞳が、いまは疎ましい。
「私を名前で――ソインと呼びなさい」
イドが何かを言おうとした。けれどそれを塞いだ。まるで身を投げるかのように、ソインは自ら唇を重ねていた。