その5 はひふへ日本語
異様な空気を漂わせて数分。ようやくルイさんが戻ってきた。けれど表情は曇っていて、何かに悩んでいる様子にとれる。
「ルイ、何かあったのか……?」
こんな時、一番に心配しているのは、やはりベガさんだった。てってこてってことルイさんのもとへ向かい、彼の両手を握っている。その思いは、後姿から見て取れる。二人は、感情の共有でもしているかのように、似通った雰囲気を持っている。
そしてベガさんは、頭上から右に垂れ下がる一本の長い髪が、フラフラと漂っている。それが余計に切なさを増幅させているようにも見える。
「朝倉からだったよ。急ぎ調子で『急いで来てくれ!!』って言ってた」
「……そっか。いったい何だろうな」
よく見ると、ベガさんの顔色が澱んでいる。その表情には何か、私たちの知らない事情を隠しているようにも見える。でも、指摘はすべきでは無さそうだ。話を捻じ曲げてしまいそうだったから。
「一体何があったのでしょうね……今回ばかりは、行ってみた方が早そうです。」
ソプラテスさんは真剣に語る。ベガさんに関わることなのであれば、急いで行くにこしたことはないだろう。
だけど、私たちはルイさんのお父さんに会って、交渉をしないと。姉はどうするつもりなのだろうか。
「…………。」
姉は相変わらずぼーっとしていた。
本当に何があったのだろう。朝倉研究所の話題が出たっきり、ずっと上の空のようだ。
「姉さん」
「……ピンク色!!」
「その話はさっき終わったよ。というか話すらしてないよっ!」
「そうだっけ!?」
ずれているとはいえ、思考が一致する辺り流石姉だ。というか姉は、単純にボケるためのパワーを蓄えているだけな気がしてきた。話題とか関係なしに、私は心配しすぎだったのかもしれない。
だが、これでは話が頑固に動かない。
「まあまあ……。そうだ。Yumeさまもいらっしゃることですし、ルイ様とベガ様は行ってこられてはどうでしょう」
助け舟のごとく、ソプラテスさんが話をほぐして、動くようにしてくれた。
それがいいかもしれない。ユメさんが居るならば話はどうにかなりそうだし、何よりこの二人が互いに友達であったことがより一層、ハードルを下げてくれる気がする。
「まあ、そういうことなの。お兄ちゃんと赤髪さんは、行ってくるの」
「ありがとう、ユメ。じゃあ、僕らだけ行ってくるよ」
「留守は任せた。数時間はかかると思う。もし長くなってたら、帰ってもいいからな」
「うん、わかった」
そういえば、話の続きはどうするつもりだろうか。って、考えるまでもないか。恐らくは先ほどの契約で、今は普及していないがゆえに、盗聴されることがないボードフォンでの連絡を余儀なくされている……。といった理由だろう。
「じゃあ、いってきまーす」
リビングの扉に着いた二人がそう言うと、「気を付けてねーーー!!!」と、大声で姉が呼びかけた。ルイさんが、姉の目を見て、少し固い笑顔をして、扉は閉じられたように見えた。もしかしたら、ルイさんも、何か気が付いていたのかもしれない。
ほんの少しすると、家一帯の窓が大きく揺れる。きっと、ベガさんの力を使って向かったのだろう。きっとそうだろう。
その音に紛れて、悲鳴のような声も聞こえた気がするが、あえて触れないことにしよう。
そうして風も声も消え去ると、再び沈黙が流れ始める。
だがそれは、ユメさんの世間話風の発言によって直ぐに破られた。
「そういえば、ソプラノくん。日本語流暢なの。お勉強、頑張ったの?」
確かに。今思えば、ずっと暮らしていたかのように流暢な日本語だ。隣で姉もうんうんと頷いている。やはり行動が煩い。
「ああ、いえ。特に頑張ったというわけではないんですよ。日本で旅をしている内に、自然と身についてしまったんです」
「えっ」
「ええっ!?」
「それ、びっくりなの。因みに、期間はどれぐらいなの?」
「えっと、一ヶ月前後です」
「は!?」
「ひ!!?」
「ふふ、やっぱりソプラノくんは、秀才だったの」
「へ、は、はい。ありがとうございます」
流れるような「はひふへびっくり」だった。「ほ」が無い。とはこの空気では、決して言えないなと思ったので、心の中にそっと閉まっておくことにする。
そんなことよりわずか一か月で、ほぼネイティブと同じになれる。これは最早秀才なぞではなく、天才と呼べるのではないだろうか。
とてもとっても、私や姉にはできない領域だと感じてしまうのだった。
「あー! 『ほ』が無いね!!!」
「姉さんはいい加減空気を読めえ!!」
ポカっと一発だけ、当てておいたのでした。




