PR 少年科学者の生い立ち
学問とは、様々な分野から成り立っている……というのは、周知の事実であろう。だがあえて例えるとすれば、高校の学習においてだけでも、国語学、外国語学、数学、地理学、歴史学、情報学、公民学、倫理学、化学、物理学、生物学、地学……など、数えるのに苦労する。
私はそれらを、一年生の時に全て身につけてしまった。月並みな表現かもしれないが、自分にとっては幼稚園児の行うお遊戯にも及ばない、楽しくもない、簡単な作業でしかなかった。
二年生になり、私は専門学として、理学全般を学習することにした……が、半年もせずに全て学び終えてしまった。複雑になったとはいえ、難解なのは未だに解き明かされていないことぐらいなのだ。現状解き明かされた世界の真理や事象は全て理解しきってしまった。
その頃には、私は学校に行かなくなった。意義を感じないのと同時に、研究機関への配属が決定したためである。
私はまだ、初等義務教育すら終了するような年齢ではなかった。だが、国が特例として、私を研究者として雇ったのだ。それが小学二年生の夏の終わり頃のことであった。
それから数ヶ月後、私は世界を揺るがしかねない、自分も想像だにしない発見をしてしまった。そしてそれは、数年をかけて、世界中の識者へと広がった。だが、気づいた頃には、知れてはならぬ禁断の理論となり、私は研究者としては、疎外された存在となったのである。
義務教育でいう、中学一年生を迎える頃には、自身の研究所を持つことができた。国からの贈り物であった。だが、敷地内から出ることは一切許されなかった。物資の提供は一定のスパンで行われ、外に出る必要は無い。そして居住空間も存在するため、生活に困ることは一切無い。
……つまる所、私は隔離されたのだ。俗世間とは突き放された、広大な荒地に。人など寄り付かない、未開にも近いこの土地に。
だが、別に気に病んでなどいない。この研究所では好きなことが出来るのだから、文句など出るわけがない。私の論の証明や、追加実験だって、ここでなら誰に何を言われようこともない。
初めはそれで十分に満足だった。それ以上の幸せなど無かった。だが次第に、足りないものが見え始めてきたのである。言葉に示すのは大変気恥ずかしいものであるが、私にはそれだけが足りていなかった。




