その終わり
申し訳ありません!15日22時10分ごろ少し差し替えました。内容が多少増えましたが、面倒でしたら読み直しの必要はない程度の変化です。ご迷惑をお掛けいたします
レイスは木に登ってみた。こんなことをするのは初めてだ。太い幹に腰を下ろし、眼下に広がる光景を目に焼き付ける。
広い屋敷に、美しく手入れされている庭園。生命力溢れる木々に怒った顔をしてこちらになにか叫んでいるクァンツ様。ああ、いい風が吹いている。
かなり流してはいけないことを風景と一緒のレベルで流してレイスは気が付かない振りをした。
「おいっ! 馬鹿か! 何やってるんだ!!」
いい天気だな。そう思ってレイスは視線を上に向けた。あからさまな無視である。なぜ見つけてしまうのだこの人は。普通なら見つからない場所なのに。レイスの心がざわついた。
そうこうしているうちに、木の下から音がする。
「え、登るんですか?」
クァンツが勢いよく登ってきた。レイスは思わず無視していたことも忘れクァンツを見てしまった。レイスのイメージでは、クァンツが木登りなんてするはずがないと思っていたからだ。
そしてやはり、
「クァンツ様、ふっ、そ、その御年で、木登り、に、似合いすぎですっふはっ」
彼女は笑った。慣れてもいない、というか、始めて登った木の上で。案の定バランスを崩し――
「この馬鹿っ!」
レイスの登る倍以上のスピードで登り終えたクァンツにその手を取られ、体が木から落ちることはなかった。
レイスの表情は、今までクァンツが見たなかで一番驚いた顔をしていた。
「……あ、ありがとうございます。申し訳ございません、お手数をおかけしてしまって」
呆然としたレイスの口からはそんな言葉が出たが、クァンツからは何も帰ってこない。怒っているのか、呆れているのか、どちらにしても自業自得だと思いレイスは黙ってクァンツが何かを話すのを待った。
重い空気が流れ、レイスの手は取られたまま、二人はそのまま黙りこんで木の上で少しの時間を過ごした。
「お前は……こういうことをしないと思っていた」
いろいろな言葉を想定していたが、クァンツのその言葉はレイスの想定外であった。そこに咎められているような響きはしない。
「そうです……よね。私もそう思います。ただ、なぜでしょうか。木登りしてみたかったん、ですかね。あれ、こんなのまるで、子どもみたいですよね」
自分自身でも行動が理解できず、レイスは首を傾げる。それにクァンツは深いため息をついた。子どもみたい、自分で言ってそれが心に重くのし掛かる。
レイスは気がついているだろうか。今自分が微笑んでいないことを。まるで迷子の子どものような表情をしていることを。
「せめて自分の家で登れ。うちで事故なんて起こされたらたまったものではない」
クァンツは怒りもせず、突き放したような言い方をした。そこでレイスの表情はいつもの微笑みに戻り、クァンツに取られた手をお礼とともに抜こうとした。
が、手はクァンツの手から外すことは出来なかった。クァンツはレイスの握り閉められた手を無理矢理に開かせる。
「……馬鹿か。お前明日は15になるんだろう。こんなに傷だらけな女があるか」
慣れぬ木登りを素手で行ったため、レイスの手のひらには無数の傷が出来ていた。所によれば血も出ていたり、木の破片が刺さったままであった。
「痕が残ったらどうするつもりだ。嫁き遅れにでもなるつもりか」
その傷を見てクァンツが鼻で笑う。心配してくれているのだと、レイスは分かり難い心遣いを感じ取った。
クァンツの手にはレイスよりも多くの傷がついていることを、レイスは気がついていた。それでもクァンツはレイスの心配だけをして、恨み言一つ言わない。
「……クァンツ様のように、ですか? それにしてもまるで、本物のお兄様の様なことを仰って下さるのですね」
レイスは知らない振りをした。クァンツがそれを望んでいるから。宝箱の中に入れるようにして思い出としてしまいこむ。
12歳だったレイスが15歳になるように、時は平等に過ぎていき、クァンツも今年でもう31になる。周囲からは奇異の目ではなく理解を勝ち取り、侯爵家当主として引き継ぎの仕事に忙しい毎日を送っている。
「言うようになったな……まあ、俺を見て笑う癖は直っていないようだが」
「クァンツ様が面白すぎるのがいけないのです。私、本当はそんなに笑い上戸ではないです」
三年が経ってもレイスには大きな成長が見られず、あったときの姿とあまり変わりない。二人の関係も何も変わらず、『争事』は相変わらずクァンツの全敗である。
「なあレイス」
「は、い」
クァンツがレイスを名前で呼ぶ。きっと今まででそんなことはなかった。レイスは体が固まるのを感じた。
「お前は明日、成人だ。お前は母親に言われて大人でいようとしているのは分かる。だが、明日まではいいだろう。俺の前では」
母親に言われたことを何故知っているのかなんてことはどうでもいい。何処からでも伝わることだろう。だけれど、
「なに、を」
聞きたくない。聞きたくない。クァンツの優しい言葉なんて欲しくなかった。だが、レイスには耳を抑えることも出来ない。
「子供でいいだろう?」
レイスは笑い声を上げた。下を向いて、堪えきれないというように。顔をかくし、口を抑え。
この『争事』をして繋がっていた関係も明日までだ。いくら年の離れているとはいえ、成人した独身の女性が独身の男の屋敷に行くことは出来ないし、成人した男が仕事以外で年頃の女性の家に行くことは出来ない。
「……俺はお前が大笑いしているところばかり見ているな。来い、今日のうちにお前を負かしてやる」
「本当にクァンツ様はお変わりありませんね。今日だけでどれほど『争事』をさせるおつもりですか」
レイスは俯いたままそう言い、そして仕方ないように息を吐く。木を降りるときも降りてからも、レイスは急ぐことなくクァンツの後ろをついていった。それでも、クァンツに置いていかれる事はない。
その背中を、レイスは景色と同じように目に焼き付ける。
直ぐに『争事』をすることはなく、クァンツはレイスの手の手当てを何よりも先に行わせた。レイスは傷の手当てをクァンツの乳母にされながら、クァンツの傷のことを耳打ちしておいた。
そのあと、先に行くと言って勝手知ったるようにレイスは客室に移動した。数分後、手当てをされたであろうクァンツが不機嫌そうな顔で客室にくる。きっと乳母になにか言われながら手当てを受けたのだろう。だが、クァンツはレイスに何も言わない。
レイスはやはり、眩しそうにクァンツを見た。
「クァンツ様は、何故私があそこにいると知ったのですか?」
静かに。誰にも知られないように。ただ景色を目に刻んでいたレイスをクァンツは見つけた。記憶が正しければクァンツは散歩などのことを不必要に行ったりはしない。
今日ここで、一人で思い出にしようとしていたのに。
「阿呆か。うちに来たという知らせがあったのに一向に俺の所に来ないからだろう」
不機嫌な顔のクァンツはぶっきらぼうにそう言う。だが、その言葉の意味は。
「え?」
レイスは、はっきりと戸惑った。
「探して、下さったのですか?」
クァンツはしまったという顔をする。基本的にクァンツは思ったことはすべて顔に出る。
「……たまたまだ!」
怒ったように言うクァンツに、レイスはいつものように大笑いすることはできなかった。
「俺が勝てばお前はもう木登りなどするなよ。死なれでもすれば寝覚めが悪い」
「勝ったこともないのに言いますか。じゃあ私が勝てば、」
レイスは子どものようなことを言った。
そしてその勝負はクァンツが勝った。
誕生日の日。レイスはやはりいつもと同じ微笑みで過ごしていた。
「おじ様、本日はお越し頂き誠にありがとうございます」
クァンツの父親を見つけて、レイスは礼をとった。レイスはクァンツの父親がクァンツに当主を譲ってから、おじ様と呼ぶようになった。侯爵位を息子に譲ったといっても、こうしてレイスの誕生日に来てもらうことが出来るのは非常に光栄な事だ。
「あまりにしっかりしているから、成人なんてとっくにしているように感じていたよ。誕生日、おめでとう。クーンは来ていないのか」
クァンツの父親は穏やかな笑みでレイスを祝う。そして辺りを見回してクァンツを探すが、クァンツの姿は見えない。
「勿体ないお言葉です。ありがとうございます。クァンツ様のことは私よりおじ様の方がご存知でいらっしゃると思いますが」
ルアーシ家当主をクァンツ様に譲ってから、この方はとても穏やかな顔をするようになったとレイスは考える。それと同時にクァンツも少し雰囲気が変わった。
「最近お忙しそうですもの。今日はいらっしゃらないのではないでしょうか」
なんとなく、レイスは今日クァンツが来ないだろうと予想していた。昨日からのその予想は、そして現実となるはずだ。
「いや、それはないだろう。仮にも妹のようにしてきた子の成人の日だ。そんなにも情の薄いやつではないだろう」
クァンツの父親はそう言って疑っていないようであった。
「そう言えば、クーンの母親の話を聞いたことはあるかい?」
思い出したようにクァンツの父親がレイスに聞いた。レイスは首を横に振る。
「いいえ、存じません。早くに亡くなった、とだけ」
本人も言っていたが、たしか33歳で亡くなったらしい。当時クァンツは12歳。多感な時期で悲しみも偲ばれる。
「そうか。嘘みたいな話だがね、クーンの母親はひどくクーンに似ていたよ」
言葉に驚いたレイスは思わず顔を上げた。クーンの顔立ちは目の前のクァンツの父親によく似ているように思える。それを感じ取ったかのようにクァンツの父親は笑う。
「顔じゃないんだ。性格がね、とても似ているんだ。よく思うだろう? 子どものようだと」
そう言われて思わず笑う。あんなに子どもな人をレイスは見たことが無い。そんなクァンツ様に似ている母親は、一体どんなお人だったのだろう。
次に合う事があれば、クァンツ様に直接聞いてみたい。レイスはもうそんなことは無いだろうが、と同時に思った。
そしてレイスが予想していた通り、クァンツがこの日レイスの前に現れることはなかった。それでもレイスの微笑みが崩れることはなく、まるで何事もなかったようである。
レイスの15歳が境目だったのか、それよりも前から目に見えぬ兆しがあったのか。そのどちらかは解らないが、レイスの花は急激に開いた。
それまで伸びなかった身長が嘘のように伸び、面差しも少女から女性へと。まるで呪いでも解けたかのような急激な成長ぶりに周囲の人間は驚きを隠せない。
呪いでも解けたかのような、という表現にレイスは人知れず納得をした。確かに、成長が止まっていたのは呪いだったのではないだろうか。私が約束を破ってしまったから。
日増しにその美しさを花開かせていくレイスのその姿はまるでお伽噺のようですらあった。
頻繁に出るようになった夜会ではその美しさにパートナーの申し込みが絶えず、踊り通しなど少なくない。まだ15歳だというのにも関わらず、プレゼントやプロポーズも多くされているという。
それをまだ早いと断りをいれ、そんな忙しさに気をとられているうちに気が付けば16歳になっていた。
15歳になってから本当に苦労したとレイスは振り返る。体は毎日軋むような痛みで眠ることもままならず、急激な成長にいまだに体と感覚が噛み合わないことがある。
それまであまりきつく絞られることのなかったコルセットにも未だ慣れることが出来ず、正直なところ愚痴みたいなものを言って良いなら数十分は一人で語ることができる気がする。
そしてなにより周囲の騒ぎようが面倒だとレイスはため息をついた。そして直ぐさまそれを反省する。
クァンツがまるで癖のようにしていたため息が移ってしまったのかとしばらく会っていないその人を恨みがましく思ってみる。
15歳の誕生日の前日。あの日からクァンツとはチラリとも会ったことがない。