迷宮
ある意味、これは願ってもいない幸運な出来事なのかもしれない。
私はそこで立ち尽くしていた。重たい荷は馬に括り付け、特に急ぐこともなく、ぽつりぽつりと歩みを進めていた先のことである。急に道を見失ったかのように、私はそこで立ち尽くしていた。いや、道は私の眼前に真っ直ぐに、緩やかな傾斜をもって存在している。夥しい濡れた枯葉がその道の上を覆い、頭の上から降る日光は、緑のカーテンをもって防がれている。私の道の側面には煉瓦造りの壁が道に沿うように作られており、剥がれ落ちた煉瓦の隙間に生えた苔やこのじめじめと湿った空気が、今ここに存在するすべてだった。
そこに、私と私の荷を背負った馬が入り込んだのだった。私はこれを、幸運であると感じた。何故だろうか。行く道を間違えたのかもしれない、旅程にはこんな道はなかったから。進もうか、戻ろうか―――決めかねていたそこに、呼びかける声があった。
「―――」
私の隣にあった壁には窓があった。硝子も何もない、ただ吹き抜けのような窓だ。そこから、老人が顔を出していた。皺くちゃで黒く薄汚れた老爺だった。彼は私と目が合うと、その年輪を刻んだ顔を歪めて、にっと笑った。
「―――」
彼の発する言葉を、私は理解できないでいた。多分、この国の言葉なのだろう。私はその文章どころか、単語を意味するところすら満足に解釈できずにいた。そのうちに、彼は窓から頭を引っ込めると、すぐそばにあった壁の中への入り口に現れた。
「―――」
私の裾を引こうとするので、私はぱっと身を引いた。
老爺はその様子にけたけたと笑い声をあげると、壁の奥へ消えてしまった。正確に言うと、壁の中にあった部屋の、そのまた奥へ、扉を抜けて。
何故そんなことが分かったかというと、私もまたその老爺を追って、奥へと進んでいったからだ。
そこにあったのは階段と廊下であった。そのいずれも苔生し、壁の漆喰は剥がれ落ちていた。手探りで探し当てた階段の手すりのへりは欠けており、滑ったてのひらは埃をなぞった。かつかつと続く足音だけが、無限の闇の底へと向かう階段の存在を伝えている。時折高く、足音は響いた。踊り場で角を曲がるのだ。さらに、地底へと向かうために。
やがて終着した階段の果て、私は光射す方へ歩みを進めた。開いた視界に飛び込んできたのは、丸く高い天井と、これもまた背の高い壁であった。私が今いるところが一階であるとするなら、正面の吹き抜けから二階が覗いている。後ろは私が下ってきた階段のある壁だ。足元には瓦礫やソファ、何だか分からない物の残骸が散らばっており、風化した装飾の柱と壁には年季を感じる。天井に釣り下がる鎖は、シャンデリアの残骸であろう―――そこで私は気づいた。追ってきたはずの、老爺の姿がないことに。
もしや、彼は盗人の一派ではなかったろうか……私は上に残してきた、私の荷と馬が気になり始めた。来た階段を戻れば、すぐに彼らの下に戻れるだろう……だが、私はこの奇妙な冒険を、中途半端に終わらせることにも、また、躊躇っていた。目の前には赤茶け、蝶番が壊れて半開きになった扉がある。そこを潜ってからでも、まだ間に合うかもしれない。
現れたそれに、私はあっと声を上げた。赤い扉の向こうにあったものは―――劇場だった。いや、劇場だっただろうもの、だ。かつて黄金に輝いていたであろう天井は埃色に染まり、かつて賑やかに埋まっていたであろう客席には塵と漆喰の欠片が鎮座している。不思議なことに差し込む光は舞台の天井が崩落したところからのようで、床下の剥がれた舞台には千切れた赤幕が垂れ下がっている。一体誰が、こんな地下深くに劇場など作ったのだろう―――私は舞台に歩み寄った。背後を見上げると、二階席が見えた―――そこに、あの老爺の姿を発見する。
「―――」
老爺は何かもごもごと口を動かすと、私を見てにっこりと微笑んだ。まるで最後の観客のように佇んでいる。私は今の自分の立ち位置に気づいた。私は、舞台から降りたばかりの役者のような姿勢で、呆然と老爺を見上げているのだ。
久方ぶりに訪れた旅人に、老爺は何を思っていたのだろう。舞台の上に立つ誰かをその特等席から見下ろしたかったのか、あるいは、自分のほかに誰かこの劇場に足を運ぶさまを見たかったのか。老爺の表情は満足に満ちていたが、天井から吹き下ろす風が私の意識を覚まさせる。そうだ、上に戻らなければ。
もう私の意識は老爺には向けられなかった。廃墟と化した劇場に背を向け、赤い扉を抜け、真っ暗な階段を上る。
私はここから出ていくのだ。
地上に抜けると、馬と荷はそのままの形で待っていた。ただ、辺りはとても薄暗くなっていた。もう、夜も近いのだろう。
私は振り返る。そして、老爺がいまだ佇んでいるであろう劇場の姿を少しだけ思い出すと、今来た道の先を、さらに進んでいくことに決め、馬の手綱を引きながら、再び歩き始めた。