第九章 第一節 自衛官
しばらくの間、矢野はコンビニの床に座り込み、動けずにいた。
やがて、深く息を吐き、立ち上がる。
レジ袋を二つ取り、棚から入るだけの殺虫剤を詰め込む。
傘を手に取り、店を出た。
真鍋が持っていたノートPCを確認する。
だが、落下の衝撃か、ビニール袋が破れて雨にさらされたせいか、
電源は入らなかった。
「……ダメか……」
一瞬、唇を噛む。
だが、立ち止まってはいられない。
USBメモリーを握りしめ、警察署へ向かって歩き出した。
しばらく進むと、少し先に、チャラそうな男の姿が見えた。
矢野は一瞬警戒する。
だが、すぐに思う。
――寄生蜂より、危険なものなんてない。
そのまま進む。
男は矢野に気づき、にやりと笑って声をかけてきた。
「そこの綺麗なお姉さん!」
「どこ行くの?暇ならお茶でもどう?」
「いえ、急いでますので」
「どこ行くの?俺も一緒に行くよ」
「警察です。一人で行きますから結構です」
「つれないなぁ」
矢野は一瞬、事件の話をするべきか迷った。
――でも、こんな人に話しても、信じてもらえないだろう。
無視して歩き続ける。
「お姉さん、一人歩きは危険だよ」
「ボディーガードとして付いてってもいいでしょ?」
「あなたに、ボディーガードが務まるとは思えませんけど」
男は肩をすくめる。
「そんなことないですよ。これでも自衛官ですから」
矢野は、歩みを止めた。
「……本当ですか?」
「やだなぁ、疑ってるの?」
「だって……そうは見えませんから」
「よく言われる」
男はポケットから身分証を取り出した。
「ほら」
矢野は覗き込む。
「……楽山拓真。3等陸尉……」
「ホントだったでしょ」
「3等陸尉って……下から数えて何番目くらいなんですか?」
「3等だから、三番目?」
「下から数えた方が早いのは失礼だな……」
「下から九番目」
「え……じゃあ、若いのに結構上なんですね」
「上から数えても九番目だけどね」
「幕僚長とか陸将とか、特別な階級も含めてだから、感覚的には、真ん中よりちょっと上って感じかな」
「……優秀なんですね」
「防衛大学卒だからね。防大出たら、この階級からなんだよ」
「へぇ……」
矢野は少し考え、意を決した。
「……それなら、聞いてほしい話があります」
「いいけど……深刻そうだね」
「でも、その前にPCを使いたいんです。この近くに、雨に当たらなくてPCがある場所は……?」
「PCなら持ってるよ」
「本当ですか?」
「それなら、雨の当たらないところで……」
「じゃあ、あそこはどう?」
楽山が指差した先には、古そうな建物があった。
「行きましょう」
建物の前に着く。
「ここは……?」
「ライブハウスみたい。バーとしても営業してるらしい」
「今は閉まってますね」
「あそこの階段でどう?」
「いいですよ」
階段に腰を下ろす。
「……私、まだ名乗ってませんでしたよね」
「矢野美月です。アルバイトしながら、昆虫学を学んでいます」
「美月ちゃんか。いい名前だね」
楽山はバッグからノートPCを取り出す。
矢野はUSBメモリーを挿し込んだ。
「この中を、見てください」
「これは……?」
「今、この島で起きている事件の詳細です」
楽山は、黙って画面を読み続けた。
「……どうして、これを君が?」
矢野は、これまでの経緯を一つずつ説明する。
館野。
名倉。
服部。
真鍋。
命を繋いできた人たちの名前。
「……だから私は、これを警察に届けなければいけないんです」
「後半は、それぞれが発見した新情報で……追加した人の名前が書かれています」
楽山は、静かに頷いた。
「……なるほど」
「殺虫剤で殺せる、っていうのは」
「矢野さんが追加したんだね」
矢野は、レジ袋を見せる。
「……そうです」
「それにしても……」
「寄生蜂って、ミツバチやスズメバチとは違うの?」
「はい」
「寄生蜂で有名なのだと、エメラルドゴキブリバチとか……」
「……名前からして強烈だね」
「分かりやすく言うと、ゴキブリの脳に針を刺して、いわばゾンビ状態にするんです」
「自分で動けなくさせて、 卵を植え付けたあと、 巣まで連れて帰るんです」
「それで、ゴキブリのお腹の中で卵が孵って、 体液や内臓を食べながら成長して、最後は腹を食い破って外に出ます」
楽山は、ゆっくり息を吐いた。
「……まさに、この事件だ」
「はい」
「しかも寄生蜂は、基本的に単独行動で、ミツバチみたいな巣は作りません」
「害虫に寄生するから、益虫扱いされることもあります」
「……皮肉だな」
楽山はPCを閉じた。
「このデータ、コピーさせてほしい」
「俺は自衛隊に届ける」
「警察と自衛隊が協力すれば……一網打尽にできるかもしれない」
矢野は、はっきりと頷いた。
「お願いします」
少し沈黙。
矢野は、照れたように言った。
「……やっぱり、自衛官なんですね」
「まだ疑ってた?」
「最初は、不真面目な人かと……でも、これを読んでる時の表情」
「……格好良かったです」
「過去形なんだ……」
赤面する矢野。
「この一件が終わったら……」
「食事でも行かない?」
「……はい……ぜひ……」
「よし!」
「雨も上がったし、警察署に行こう!」
「はい」
二人が立ち上がり、道路に出た、その時。
――前方に、影があった。
寄生蜂が、そこにいた。




