第六章 第一節 伝承
名倉は、ようやく足を止めた。
寄生蜂が追ってきていないことを、何度も振り返って確認してから、ゆっくりと歩き始める。
時計を見ると、五時半。
館野のズボンのポケットには、財布が入っていた。
どこかで食事を取り、少し休みたい。
そう思ったが、店はまだ開いていない時間帯だった。
仕方なく、名倉は道端に腰を下ろし、ノートパソコンを開いた。
USBメモリーの中身を、もう一度確認する。
昨夜、恐怖に追われながら聞いた説明と、今こうして落ち着いた状態で読む情報。
頭への入り方が、まるで違った。
生態。
行動原理。
宿主の条件。
防御力。
そして、
自分自身が目撃した事実。
名倉は、指を止め、
新しいメモを打ち込む。
――日光に弱い可能性が高い
――夜行性
――日の出と同時に行動を中断
念のため、
USBメモリーのデータを、
自分のパソコンにもコピーした。
しばらく休み、名倉は再び歩き出す。
服をどうするか、一瞬考えた。
だが、伊藤佳那が襲われた時の光景と、研究室で見た観察データが、脳裏によみがえる。
――あんな屈辱を受けて、
――生きたまま、虫に食われるなんて。
名倉は、そのまま男物の服を着続けることを選んだ。
七時を過ぎた頃、ようやく開いている食堂を見つけた。
空は、厚い雲に覆われ、朝だというのに薄暗い。
今にも雨が降り出しそうだった。
名倉は、迷わず中へ入った。
店内には、大学生らしい五人組がいた。
食事を待ちながら、何かを熱心に話し合っている。
耳に入ってきたのは、「伝承」「島の由来」といった言葉だった。
元々、旅行雑誌の取材で島を訪れていた名倉は、興味を引かれた。
少し躊躇した後、思い切って声をかける。
最初、学生たちは明らかに警戒した。
血の跡が残り、サイズの合わない、ボロボロの男物の服。
薄汚れた外見。
だが、名倉がノートパソコンに保存してあった取材資料や仕事のデータを見せると、空気が変わった。
「……一緒に、食べませんか?」
そう言って、席を勧めてきた。
名乗った名前は、
羽田俊彦。
岡田賢人。
服部瞬。
布川勉。
そして、紺野曜子。
同じ大学の三年生で、
地域に伝わる伝承を研究するサークルの仲間だという。
名倉が改めて自己紹介をすると、羽田が言った。
「せっかくなら、情報交換しません?」
「僕らも、ちょうどこの島の話をしてたんです」
まず、羽田が話し始めた。
「九女島って、今はこう書きますけど……昔は、“苦しむ女”と書いて、苦女島だったらしいんです」
名倉は、思わず姿勢を正した。
「昔、この島には、頭に二本の角が生えた鬼が住んでいて、鬼は村に現れて暴れ、人を殺し、若い女性を攫っていったそうです」
学生たちは、淡々と続ける。
「鬼の怒りを鎮めるために、村では一ヶ月に一度、若い女性を生贄として捧げていた」
名倉の指が、無意識に強く握られる。
「それで、この島は苦女島と呼ばれるようになったらしいです」
「生贄の風習は、戦前まで続いていたそうです」
「戦争の混乱で、いつの間にか廃れたらしいですが……」
羽田は、少し声を落とした。
「調べてみると、この島では」
「定期的に、女性の行方不明事件が起きているんです」
名倉の鼓動が、速くなる。
「それと……生贄を捧げていた場所が一ヶ月前に、女性の白骨死体が見つかった、あの神社なんですよ」
名倉は、息を呑んだ。
すべてが、一本の線でつながる。
「……つながった……」
その言葉は、ほとんど独り言だった。
科学が示した生態。
自分が目撃した現実。
そして、島に残された伝承。
これは、新しい怪物なんかじゃない。
ただ、“名前が変わっただけ”の存在なのだと、名倉は理解してしまった。




