第五章 第一節 ペンション
館野は、走らなかった。
走っても、あれには追いつかれる。
それはもう、分かっていた。
彼は物陰に身を寄せ、足音を消し、呼吸を抑え、自分が“そこに存在していない”かのように振る舞った。
息を吸う。
吐く。
その音すら、喉の奥で殺す。
一歩進むたびに、数十秒止まる。
耳を澄まし、羽音がないことを確認してから、また一歩。
その甲斐あってか、寄生蜂は館野を見つけることができなかった。
だが、その代償は大きかった。
一時間で、進めた距離は、五十メートルほど。
夜は、まだ終わらない。
それから、さらに三時間。
空の色が、わずかに変わり始めた。
夜明けが近い。
このまま明るくなれば、身を隠す場所は失われる。
そう思った、その時だった。
前方で、寄生蜂が進路を変えた。
森を抜け、建物へ向かっていく。
ペンションだ。
館野は、思わず立ち止まった。
――助かった。
一瞬、そう思ってしまった自分に、すぐ気づく。
次の瞬間、
ある言葉が、胸の奥から浮かび上がった。
――気持ち的には警察官と同じく、
――正義を貫いて、人々を犯罪から守りたい。
自分が、あの研究室で口にした言葉。
館野は、唇を噛んだ。
「……助けられないかもしれない」
それでも。
「だからって、見捨てるわけにはいかない……」
館野は、走り出した。
ペンションは、二階建てだった。
近づくと、一匹は一階へ、もう一匹は二階へ上がったのが分かった。
館野は、息を殺しながら中へ入る。
その瞬間、二階から悲鳴が響いた。
「ぐわっ!」
「ぎゃあああ!」
身体が、強張る。
館野は、音を立てないよう、そっと階段を上がった。
手前の部屋のドアが、半開きになっている。
中を、覗く。
寄生蜂の姿はない。
だが、床には女性が二人倒れていた。
一人は、肩から脇腹にかけて、袈裟懸けに切り裂かれている。
もう一人は、腹部を中央から左右に引き裂かれ、
内臓が露出していた。
どちらも、即死だった。
「……」
館野は、喉を鳴らした。
「卵を産み付けていない……」
「ということは……」
言葉にしなくても、分かる。
「少なくとも、今二階にいるのは……雄か……」
その時、隣の部屋から、再び悲鳴が上がった。
「きゃあああ!」
「いやあああ!」
二人いる。
館野は、そっと隣室を覗いた。
そこでは、寄生蜂が一人の女性を押さえつけていた。
四肢を封じ、腹部から、卵管が伸びる。
館野の脳裏に、疑問が走る。
――なぜだ。
――手前の部屋では、二人とも即死だったのに。
次の瞬間、その疑問は、理解に変わる。
卵管が、膣を通り、子宮へと刺し込まれる。
女性は悲鳴を上げる。
だが、すぐに声が弱まった。
麻痺毒。
もう一人の女性が、必死に助けようと、物を投げ、枕で叩く。
だが、寄生蜂は意に介さない。
産卵が終わると、寄生蜂は立ち上がり、女性の胸部に鈎爪を引っ掛けた。
ずるずると、引きずるようにして、部屋を出ていく。
その瞬間、館野は、完全に理解した。
「……そうか」
産卵した後、最優先事項は“卵を守ること”。
だから、宿主を、目立たない場所へ運ぶ。
寄生蜂は、感情ではなく、合理性で動いている。
館野は、残された女性に近づいた。
「……大丈夫ですか?」
女性は、震えながら、こちらを見る。
「……何なんですか、あれ……」
「あなた、誰なんですか……」
館野は、一瞬迷い、それから、はっきりと言った。
「僕は、館野といいます」
「警察官ではありませんが……警察の関係者です」
「連れて行かれた彼女は、警察が必ず助けます」
完全な保証ではない。
だが、今はそれしか言えなかった。
「お名前、教えてもらえますか?」
「……名倉、真奈美です……」
「お友達の方は?」
「……伊藤、佳那……」
館野は頷いた。
「分かりました」
「ところで……ノートパソコン、持っていませんか?」
名倉は戸惑いながらも、
部屋の隅を指さした。
「あ……ありますけど……」
「少しだけ、貸してください」
館野は、差し出されたノートPCに、
佐々木から託されたUSBメモリーを差し込んだ。
画面に、ファイル一覧が表示される。
その瞬間、館野は息を呑んだ。
「……やっぱり……」
そこには、寄生蜂について、現在分かっているすべての情報が記録されていた。
生態。
行動。
産卵。
防御力。
そして、
佐川の報告書。
青木が襲われたこと。
加藤教授の最期。
すべてが、
ここに残されていた。
館野は、画面から目を離さず、
静かに呟いた。
「……無駄にはしません」
その言葉が、誰に向けられたものなのかは、彼自身にも分からなかった。




