第9話 内政は鍋と同じ
祠を離れて三日目の昼、四人は国境街道から外れた小さな辺境町へ入った。門というより、傾いた柵が一本あるだけの入口だ。石畳は割れ、乾いた風が粉を舞い上げる。空は晴れているのに、町の顔色が悪い。
井戸の前に、桶を抱えた子どもが並んでいた。順番が来ても、桶の底に落ちるのは、喉を鳴らすほど少ない水だけ。年配の女が「今日はここまで」と言うと、列の端から小さな泣き声が上がった。
モティングは肩をすくめて、できるだけ目立たないように荷を背負い直した。
静かに通り過ぎたい。そう思った瞬間、腹が鳴った。乾いた音が、やけに遠くまで響いた気がして、本人だけが顔を赤くする。
「腹は正直だな」
フレッドが笑いかける。笑いの端に、疲れが張り付いている。
「正直なのは腹だけでいい」
ダグロスが短く言い、周囲を見た。追手の気配はない。だが町の空気が、別の意味で張り詰めている。
デラックが井戸の石縁に指を当てた。指先に、白い粉がつく。
「水が枯れたんじゃない。流れが止まってる。水路がどこかで詰まってる匂い」
「匂いで分かるのか」
モティングが言いかけて、言葉の続きが迷子になった。デラックは平然と頷く。
「道具の油と、土の湿りと、喉の渇き。混ざるとこうなる」
井戸番の男が、こちらを睨むように見た。見知らぬ旅人が水の話をするのは、警戒されて当然だ。ダグロスは一歩前に出て、言葉を探してから、いつもの短さで切った。
「直せる」
「何をだ」
「水路」
男は鼻で笑った。
「直せるなら、もう直ってる。町の男手は畑と薪で消える。金もない」
そこでフレッドが、鍋を抱える仕草をした。
「鍋と同じですよ。火が弱いなら火を足す。塩が足りないなら塩を足す。道具が足りないなら、借りて返す。――今、足りないのは、どこが詰まってるかの目印です」
「鍋の話で水が出るか」
男が言い返す。
デラックは腰の袋から細い針金を取り出し、指で曲げて輪を作った。
「目印なら作る。水路の上に糸を張る。流れがある場所は糸が湿る。止まってる場所は乾く。乾きの境目が、詰まりだ」
言い切る声が、やけに自信満々で、逆に嘘くさくない。
男は迷った顔をした。背後の列の子どもが、唇を舐めているのが見えたのだろう。男は唇を噛み、条件を出した。
「一日だ。今日のうちに水が増えなきゃ、よそ者の面倒を見る余裕はない」
「分かった」
ダグロスはそれだけ言い、すぐに役割を切った。
「フレッド、炊き出しの火。デラック、道具。モティング、俺と水路を見る」
「俺って言った」
モティングが小声で突っ込むと、ダグロスが「今だけ」と返した。顔はいつも通り硬いのに、耳の先だけ赤い。
水路は町外れの斜面から引かれていた。途中で木の根が張り、石が崩れ、落ち葉が溜まっている。見た目だけでも詰まりの候補が多すぎて、目眩がする。
モティングは鼻の奥が乾いて、息が浅くなるのを感じた。ここで眠ったら、笑い話で済まない。
「倒れるな」
デラックの声が背後から飛ぶ。いつの間にか、道具袋を抱えて付いてきている。彼女は町の男から借りた鍬の柄を叩き、乾いた音で注意を促した。
「倒れるなら、影に倒れろ。日向は体力を焼く」
モティングは頷こうとして、足を止めた。視界の端で、石積みの隙間に、妙に整った溝が見えた。偶然にしては真っ直ぐだ。頭の奥が、ふっと軽くなる。
眠気が、背中から首へ登ってくる。
「今は駄目だ、今は……」
呟いた瞬間、足元の土がふわりと揺れたように感じた。次の瞬間、モティングは斜面に尻をつき、まぶたが落ちた。
――冷たい泥。裸足。肩に木桶。誰かが怒鳴っている。
「そこは踏むな! 溝の角を潰すな! 水が泣く!」
声の主は見えない。だが手は勝手に動く。石を並べる順番。木の根を避ける切り欠き。落ち葉が溜まる場所に置く、細い枝の格子。
「ここだ。ここが詰まる。ここを開ける」
知らない自分が、確信を持って言った。
ぱちり。
目を開けると、ダグロスが顔を覗き込んでいた。眉が寄っているのに、手はモティングの頭を石から守る位置に添えられている。
「……言え」
短い命令。けれど、待っている。
モティングは喉を鳴らし、息を整えた。
「これは本当にあった話だ」
「要点」
「水路の、あの石積みの下。格子みたいなのを入れて、落ち葉を受けてるはず。そこが詰まってる。外せば流れる」
デラックがすぐに動いた。針金の輪を溝に落とし、引っ掛かりを確かめる。
「当たり。水の匂いが濃い。ここだ」
三人で石を外すと、黒い落ち葉と泥が固まりになって詰まっていた。フレッドがいつの間にか持ってきた木杓子で泥を掬い、デラックが針金で格子を持ち上げ、ダグロスが石を積み直す。言葉は少ないのに、手が揃う。
詰まりが抜けた瞬間、溝の底で水が音を立てた。乾いた砂が吸い込む前に、透明な筋が走り、町の方へ向かって流れていく。
井戸の前に戻ると、桶の底に落ちる水の音が明らかに増えていた。子どもが目を丸くし、年配の女が肩を震わせた。井戸番の男は、言葉を失ったまま帽子を握りしめ、やがて深く頭を下げた。
「……礼を言う。名前は」
「今は言えない」
ダグロスが言い、続けて付け足した。
「追われてる。匿ってほしい。代わりに、直せる場所は直す」
男は一瞬だけ迷い、次に頷いた。
「裏の納屋が空いてる。寝床と、干し豆なら出せる。……水が戻った。それで十分だ」
夕方、フレッドの鍋から湯気が立った。森の茸に、町の干し豆を合わせたとろりとした粥。塩は控えめだが、湯気の甘さが喉を撫でる。デラックは椀を配りながら、町の人の手の荒れを見て、薬草の擦り込み方を教えた。ダグロスは納屋の梁を確かめ、扉の蝶番に油を差した。誰に頼まれたわけでもない。
モティングは椀を両手で包み、湯気の向こうで笑う子どもたちを見た。水が増えただけで、町の声が少し高くなる。自分の眠気が、初めて役に立った気がした。
フレッドが小声で言う。
「鍋ってさ、具が沈む前に、火を見ないといけないんだよな」
「鍋の話、まだ続くのか」
モティングが言うと、フレッドは肩をすくめた。
「続く。だって俺たちの明日も、火加減で決まる」
納屋の隙間から、遠くの街道が見えた。夕闇の中、松明の列がちらりと揺れた気がして、モティングの背中が冷える。
ダグロスが短く言う。
「今夜は、見張りを交代でやる」
デラックが頷き、フレッドが「俺が最初」と言いかけて、飲み込んだ。代わりに彼は椀を持ち上げる。
「まずは、飲もう。逃げる足は、休ませてからだ」
モティングは湯気を吸い込み、頷いた。眠気はまだ、どこかで待っている。それでも今夜は、湯の温度が味方だった。




