第8話 心中と書いて、こころなか
夕暮れの空は、薄い紫に沈みかけていた。宿場の外れを抜けると、街道は草の匂いに変わる。子どもが指さした坂の下へ向かう道は、人があまり通らないのか、踏み跡が柔らかかった。
ダグロスが先に立つ。足音が迷いなく、枝を払う手つきだけが短い。
デラックは後ろで荷の紐を締め直し、フレッドは鍋の残り香がついた布を畳んで背負った。
モティングは……歩きながら、眠気の影を探してしまう。来るな、と念じても、眠気は待ち伏せのように現れるからだ。
坂を下りきったところで、空気がひやりと変わった。霧は薄いのに、湿り気だけが濃い。木の根が盛り上がり、道の端に崩れた石段が見える。段の先には、小さな祠があった。屋根は苔で緑に沈み、鈴緒だけが風で小さく揺れている。
祠の横に、腰ほどの石碑が立っていた。
刻まれた二文字が、夕闇に黒く浮かぶ。
モティングは覗き込み、声に出した。
「……『心中』」
言い終わった瞬間、背中が冷たくなった。
心中。二人で――いや、三人でも、四人でも――。
フレッドが咳払いをして、鍋布を落としそうになった。
「え、ま、待て。ここに、そんな……」
ダグロスが、ぴたりと止まった。振り返った顔が、夕焼けより赤い。
「モティング! 口に出すな!」
「だって、こう書いて――」
「出すなって言った!」
怒鳴り声が森に反響して、鳥が一斉に飛び立った。
モティングは石碑の前で固まった。言葉にした瞬間、森の奥で何かがこちらを見た気がする。封印石の熱風が、喉の奥に蘇る。
フレッドが、いつもの癖で肩をすくめる。
「俺が、変な道を選んだせいで……」
「違う」
デラックが短く言って、フレッドの背に手を置いた。押し戻すでも慰めるでもなく、ただそこに置く。
「まず読む。読む前に決めない」
デラックは荷から小さな布と炭を取り出した。石碑に布を当て、炭でこする。黒い粉が浮き、刻みの細い線がはっきりした。
そして、二文字の脇に、かすれた小さな仮名が見えた。
「……『こころ、なか』?」
モティングが読むと、今度はダグロスが怒鳴らなかった。ただ、息を吐いた。肩が少し落ちる。
デラックが布を外し、指でなぞった。
「昔の番士が、読みを残したんだろう。『心中』は、ここでは“心の中”。心の中を偽るな、って戒めだ」
フレッドが、喉の奥で笑っていいのか迷う音を出した。
「……俺たち、森に怒られる前に、隊長に怒られた」
「うるさい」
ダグロスの声は相変わらず短い。だが、さっきより少しだけ柔らかい。
モティングは石碑を見つめた。自分が軽い返事で拇印を押した日から、今までのことが次々と浮かぶ。報告書が消えた朝。監察官の薄い笑い。逃げるように歩いた夜明け。
心の中を偽るな。
それは誰に向けた言葉だろう。敵に、仲間に、自分に。
デラックが小さな鍋を出した。
「今日はここで休む。火を起こす。甘い湯を飲んで、喉を守る」
「そんな余裕――」
ダグロスが言いかけたところへ、デラックが蜂蜜の小瓶を見せた。光の残る空に、黄金色がきらりとした。
「余裕は作るもの」
ダグロスは目を逸らし、短く頷いた。
「……分かった」
焚き火が起きると、森の音が変わった。さっきまで遠かった虫の声が近づき、火のぱちぱちが輪郭を作る。
フレッドは湯に蜂蜜を落とし、匙で混ぜる。湯気に甘い匂いが立ち、肩の力が抜ける。
モティングは椀を受け取り、両手で包んだ。熱が指先から胸へ上がっていく。
ダグロスは火の向こうを見つめたまま、言葉を探しているみたいに口を閉じていた。
フレッドが、珍しく自虐を飲み込んでから、ぽつりと言った。
「……俺さ。誰かが責められそうになると、先に『俺のせい』って言うんだ。言えば、その場が丸くなる気がして」
デラックが椀を持ったまま首を傾げた。
「丸くなったあと、何が残る?」
フレッドは答えられず、焚き火に視線を落とした。火の端が、かすかに歪む。
モティングは自分の椀を見た。湯の表面に、炎が揺れる。
「……俺は、返事が早い。聞いてないのに、聞いたふりする。ここでも、そうして……」
言いながら、胸の奥が縮む。逃げたこと、騙されたこと、騙されたふりをしたこと。全部が絡まって、ほどけない。
「そのせいで、みんな――」
ダグロスが、火の向こうから短く言った。
「止まれ」
モティングは口を閉じた。叱られる覚悟をした。
だがダグロスは、怒鳴らなかった。
焚き火の明かりが、頬の赤みをまだ残している。拳を膝に置き、握ってはほどき、また握る。
「……私もだ」
たった四文字が、重く落ちた。
フレッドが顔を上げる。
ダグロスは視線を逸らしたまま続けた。
「短く言えば、伝わると思ってた。伝わらないのに、腹が立って……それを隠してた」
デラックが椀を置き、火に小枝を足した。炎が少し高くなり、影が揺れる。
「隠すのは、体力を食う。今日は食うものを減らそう」
「減らすのは飯じゃないだろ」
フレッドが小さく突っ込み、すぐに自分で笑った。笑いはまだ不安定で、だからこそ温かい。
モティングは、石碑の言葉を心の中でなぞった。
心の中を偽るな。
怖いと言っていい。悔しいと言っていい。裏切られて腹が立つと言っていい。
言ったからといって、すぐに何かが解けるわけじゃない。それでも、火の前で息ができる。
森の奥で、枝が鳴った。
四人の視線が一斉に向く。フレッドは杓子を握り、デラックは道具袋に手を入れ、ダグロスは立ち上がる準備だけを整えた。
モティングは眠気の波が、足元からじわりと上がってくるのを感じた。
「来る……」
口に出すより先に、まぶたが重い。
だが、デラックが肘で軽く小突いた。痛くない程度に、目を開けさせる力。
「倒れるなら、火から離れて倒れろ」
「はい……」
モティングは笑いそうになり、でも笑い切れず、頷いた。
焚き火の明かりの中、四人は祠の影を背に、夜の森に耳を澄ませた。
石碑の文字が、闇の中で静かに光っている気がした。




