第5話 封印が軋む音
集会所を出ると、霧が頬にまとわりついた。月は見えないのに、森のほうだけが薄く青い。さっきの震えが、足裏にまだ残っている。
ダグロスは戸口で立ち止まり、振り返らずに言った。
「戻る。小屋。装備」
「はいっ」フレッドが先に返事をして、モティングの肘をつつく。「君も。返事は短く」
「……はい」
デラックは油灯の火を指で隠して風を読むと、背負い袋を締め直した。
「今夜は冷える。汗をかく前に上を脱ぐ。喉が渇いたら言う。言わないなら、こっちが言わせる」
「言わせるって何……」
「水を飲めってこと」
毛布より強い口調で言われ、モティングは小さく頷いた。
見張り小屋までの道は、木の根がうねっている。霧が足元の窪みに溜まり、踏むたびに冷たい息が上がる。森はいつもなら、夜の虫の音がする。けれど今夜は、音が薄い。まるで誰かが耳を塞いでいるみたいだった。
小屋に戻ると、ダグロスは迷わず壁の地図を指で叩いた。
「深部入口。封印石」
言い終わる前に外へ出る。付いて来い、が言葉にない。足音が答えだった。
森の奥へ進むほど、空気が変わった。木の肌がぬるい。霧が水ではなく、湯気みたいにまとわりつく。モティングは鼻の奥が乾いていくのを感じた。
「熱……?」フレッドが額の汗を袖で拭った。
デラックは革手袋の指先を地面に当て、すぐ引っ込めた。
「土が生きてる。いや、怒ってる」
ダグロスは歩幅を落とさない。短剣の柄に手を置き、笛を咥える。森が息を吸うみたいに静まり返り――次の瞬間、地面が腹の底から鳴った。
ゴォン……。
音は石を転がすように低く、長い。熱い風が一筋、木々の隙間を抜けて頬を叩いた。髪が後ろへ煽られ、霧が裂ける。
「伏せろ!」フレッドが叫び、モティングの背を押した。
転ぶより早く膝をつき、両手で地面を抱く。掌の下の土が、鼓動みたいに脈を打った。
前方の岩場に、赤い光が滲んでいた。
石が、脈を打っている。
「……あれが」モティングの喉が勝手に鳴った。
「封印石」ダグロスが言い切った。視線だけを動かし、三人を確認する。「近づくな」
封印石は、古い文字が刻まれた大岩だった。普段は灰色で、苔に覆われているはずなのに、今夜は苔の下から赤が透ける。赤は炎じゃない。血の色に似た光で、ゆっくり膨らんで、ゆっくり引いた。息をしているみたいに。
モティングのまぶたが重くなった。
こんな場面で? と頭の端が怒る。けれど、熱と低音が、子守歌みたいに体を揺らす。
――根が、切られる。
――誓いが、薄くなる。
誰かの声が、耳の奥で囁いた。自分の声じゃない。森の奥の、もっと古い響き。
「……寝るな」ダグロスの声が、現実に引き戻した。
モティングは歯を食いしばった。舌が乾いて痛い。
「……下。石の下、空洞……風が……通ってる」
言った瞬間、自分でも驚いた。見えていないのに、分かる。鼻の奥が、土の匂いの“筋”を辿ってしまう。
デラックがすぐに腰の道具袋から細い金具を取り出し、岩の隙間へ滑り込ませた。耳を寄せる。
「……空気が動く。奥に穴がある」
フレッドが小声で笑った。「寝言、今日も当たり。……いや、今は笑ってる場合じゃないか」
ダグロスは石から視線を外さずに、短く指示した。
「撤退。記録。報告」
「今、戻る?」モティングが思わず聞いた。
ダグロスは一瞬だけこちらを見た。目が暗いのに、芯がある。
「今、触れば燃える。明け方にもう一度。人を呼ぶ」
四人は、背中を見せないように下がった。森が背後で鳴るたび、封印石の赤が強くなる気がした。戻り道の霧は熱く、呼吸をするほど喉が乾いた。
見張り小屋に着くと、デラックが黙って水袋を突き出した。
「飲む」
「はい……」
冷たい水が喉を落ちた途端、体の芯が少し戻る。モティングは自分がどれだけ息を止めていたかに気づいた。
フレッドは机に紙を広げ、震える手を押さえながら筆を走らせた。
「時刻、深夜。場所、深部入口。現象、地鳴りと熱風。封印石の発光……これでいい?」
ダグロスは短く頷き、最後に一行だけ足した。
「触らず撤退。再確認予定」
報告書は、森用の印が押された筒に入れられた。小屋の外で、伝令の小鳥が翼を震わせる。デラックが留め具を締め、フレッドがそっと放った。
小鳥は霧へ消えた。
夜が明けるまで、誰も眠れなかった。モティングだけが、うとうとと揺れては目を開け、また揺れた。封印石の赤が、瞼の裏に残っている。
朝、詰所へ行くと、空気が変だった。いつもなら、机の上に昨夜の報告を受け取った印が置かれている。けれど今日は、何もない。
受付の男が目を泳がせた。モティングが近づくと、椅子の脚を鳴らして立ち上がる。
「ええと……夜の報告? そんなものは……」
言葉が途中で止まり、男は後ろの扉をちらりと見た。扉の向こうで、誰かが紙をめくる音がした。
ダグロスが一歩前に出た。
「届いてない?」
「……え、ええ。鳥は、戻ってきてませんし」
男の声は細い。戻ってきていない、というより、戻ってきてほしくないみたいだった。
デラックが低く言った。
「握り潰されてる」
フレッドが苦笑して、いつもの癖で口を開きかける。「俺の……」
「違う」ダグロスが即座に遮った。短いのに、強い。
モティングは、机の角を見た。そこに、昨日はなかった濡れ跡がある。水じゃない。油の匂いがする。誰かが急いで筒を開け、閉じた匂い。
喉の奥が冷えた。
森の下で鳴った音と、今ここで鳴らない印。二つが、一本の線で繋がっていく。
「……誰かが、見たくないんだ」モティングは呟いた。
ダグロスは短く答えた。
「なら、見せる」




