第3話 これは本当にあった話
夕方、詰所の鐘が一回だけ鳴った。空はまだ明るいのに、森の境の霧が早く濃くなる日だという合図らしい。
ダグロスは地図板を机に置き、指で線をなぞった。爪が木を叩く音が短い。
「西の柵沿い。足跡を拾う。戻りは川筋」
言い切って立ち上がる。説明が終わった顔だ。モティングは慌てて口を開いた。
「えっと、柵って……西って、あっちの西ですか」
ダグロスの視線が刺さる。
「西は西だ」
隣でフレッドが咳払いをした。笑いを噛み殺す音が混じっている。
「ほら、見張り小屋から夕陽が沈む方。迷ったら太い樫の木を探す。葉が、こう……手のひらみたいに広い」
フレッドは自分の手を広げて見せた。指先が少し震えている。寒さのせいだけではなさそうだ。
デラックが背負い袋を押し付けてきた。重い。
「水。乾いたら眠りが深くなる。塩も入れた。噛め」
袋の口から布包みが覗く。硬そうな干し肉だ。モティングは受け取り、息を吸った。
「……ありがとうございます」
礼を言うと、デラックは「礼は歩幅で返せ」と言って先に戸を開けた。
四人は詰所を出て、霧の縁へ向かった。森の入口は、昼の訓練場より静かだ。鳥の声が遠く、枝に残った水滴がぽつ、ぽつと落ちる。湿った土が靴にまとわりつく。
柵は古い丸太を並べただけで、所々が黒ずんでいる。モティングは昨夜の抜け穴を思い出し、親指の跡を握りしめた。
「足元を見る」
ダグロスの声で、全員の視線が地面へ落ちる。
泥の上に、二つの足跡が並んでいた。細い靴底の溝。そこから少し離れて、獣の蹄の形。さらに奥へ、同じ靴跡が途切れ途切れに続く。
フレッドが膝をつき、指先で泥をそっと撫でた。
「新しい。乾いてない」
デラックは柵の丸太を叩き、亀裂に耳を寄せた。
「ここ、刃物が入ってる。今朝より後」
モティングも真似てしゃがんだ。鼻を近づけると、土と草の匂いの中に、鉄の匂いが混じっている。胸の奥がひやりとした。
その瞬間、視界がゆらいだ。
霧が濃くなったわけではない。自分のまぶたが、勝手に落ちてくる。頭の中で警鐘が鳴る。
――今は寝るな。
口に出さない。出したらまた「寝るな」と返される。だから、歯を食いしばる。干し肉を噛もうと袋に手を伸ばす。
手が空を掴んだ。
膝が崩れた。冷たい泥が頬に触れる。土の匂いが近すぎて、息が詰まる。
「モティング!」
フレッドの声が遠い。デラックが肩を掴む感触が一瞬だけあって、次の瞬間、世界が根の下へ沈んだ。
暗い。湿っている。けれど怖くない。誰かが、そこにいる。
――足跡は餌だ。目を上げるな。目を上げた者から取られる。
淡々とした声。男か女か分からない。言葉の端が古い。
モティングの前に、同じ柵が見えた。霧は今より薄い。月が明るい。番士の靴が泥を踏む音。誰かが顔を上げた瞬間、細い糸が弾ける音がした。
次に見えたのは、足首が吊られて空に浮く影。叫び声。枝がしなり、縄が鳴る。下には、泥に隠した細い杭。
――杭は三つ。右、左、真ん中。真ん中は藁で覆う。藁の色が違う。
声が教える。モティングは藁の色を見た。乾いた藁と、湿った藁。湿った方が、少しだけ黒い。
――言え。起きたら、指を差せ。
「……三つ……藁……黒い……」
自分の声が寝言になって流れた。
肩を揺さぶられ、モティングは息を呑んで目を開けた。霧の縁。ダグロスの顔。眉間に皺が寄っているのに、手は乱暴じゃない。
「どこだ」
モティングは起き上がろうとして、視線の先に草の束を見つけた。柵の内側、足跡の続きの脇に、わざと置いたみたいな小さな藁束。そこだけ湿って黒い。
「……あそこ。藁の下。杭が三つ」
言い切った瞬間、自分でも信じられなくて、喉が鳴った。
デラックが黙って道具袋を開け、細い棒を取り出した。藁束の周りの泥を、棒で少しずつ押す。すぐに硬い感触が返ってきた。
「当たり」
棒の先が木片に当たる音がした。デラックは手首を返し、杭を一本ずつ抜いた。泥から出てきた先端は尖っていて、黒い汁が滲んでいる。
フレッドが息を吸い込み、口を押さえた。
「……あぶな。これ踏んだら、足、終わる」
ダグロスは藁束を蹴り散らし、地面に残った細い糸を見つけた。彼女の指が糸をつまみ、刃で断つ。糸は、蜘蛛の糸みたいに細いのに、人を吊る力を持っていた。
「誰が仕掛けた」
ダグロスが呟く。問いは森に落ちて、霧に吸われた。
モティングは膝の泥を払った。心臓が速い。けれど、さっき見た影は、夢の中の影だ。今は誰も吊られていない。だから胸の奥に、少しだけ温かいものが残る。
「……これは、本当にあった話です」
言ってから気づいた。言い方が変だ。フレッドが目を丸くする。
「え?」
モティングは真顔のまま、頷いた。
「さっき、見ました。誰かが、ここで吊られて。杭が三つで。藁の色が違うって」
フレッドは笑いそうになって、喉の奥で止めた。代わりに手帳を出し、鉛筆を走らせる。
「俺、今の言い方、好きだ。……いや、好きとか言ってる場合じゃない。俺のせいで笑った。ごめん。とにかく書く」
「書くのか」
ダグロスが短く言う。フレッドは頷き、震える字でまとめた。
デラックは抜いた杭を布で包み、袋の底へ押し込んだ。
「証拠になる。乾かす。腐らせない」
モティングは自分の口が勝手に動く感覚を思い出し、背中がぞわりとした。眠るたびに、誰かの目が自分の目を借りる。怖い。けれど、怖いだけで終わらない。
ダグロスがモティングの頭頂を軽く押した。叩かない。押すだけ。
「次は倒れる前に言え」
「……言えますかね」
「言え」
それだけで歩き出す。背中が大きい。
フレッドが隣に並び、声を落とした。
「さっきの、助かった。助かったって言うと、俺が泣きそうで変だから、代わりに言う。俺のせいじゃない。お前の口だ」
言い切って、鼻を啜った。霧のせいにした顔をする。
デラックが後ろから干し肉を一切れ投げてきた。モティングは慌てて受け取り、噛んだ。塩が舌に刺さり、目が少しだけ冴える。
足跡の続きを追いながら、モティングは自分の胸の木札を撫でた。静かに暮らしたい。けれど今日、森の誰かの声が人を守った。そう思うと、泥だらけの靴が少しだけ誇らしい。
霧の奥で、地面の下を転がる震えが、また一拍だけ響いた。今度は、さっきより近い。




