表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放メシ屋ババカルは復讐より腹を満たす  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/15

第2話 森の番士、拇印を押す

 朝の霧が薄くなり、見張り小屋の窓から灰色の光が差し込んだ。モティングは木札を握ったまま外へ出され、ルーンウッドの詰所へ歩かされた。森の端に建つその建物は、石と丸太を組んだ低い造りで、扉の前には泥よけの藁が敷かれている。濡れた靴が藁を踏むたび、甘い草の匂いが立った。


 中は意外と人が多い。薪の爆ぜる音、湯気、濡れた外套を絞る音。壁には地図と、細い赤線で引かれた境の印。机の上には札と印泥が並び、紙束が山になっていた。


 ダグロスがその山を顎で示す。


 「説明を聞け。署名だ」


 「はい。……え、署名?」


 文字が読めるか不安になった瞬間、眠気が背中から這い上がってきた。昨夜の警鐘、密猟者の影、地の底を転がる震え。思い出すたび瞼が重くなる。モティングは背筋を伸ばし、机の前に座った。


 机の向こうに、青年が一人いた。柔らかい布の前掛けを腰に巻き、湯飲みを配りながら紙を揃えている。彼はモティングを見ると、口の端だけ上げた。


 「フレッド。ここの副官だ。……たぶん、眠い顔の見本も兼ねてる」


 「見本って……」


 「大丈夫。ここはね、まず『何を守るか』が先で――」


 フレッドの言葉は丁寧だった。けれど丁寧すぎて、文章みたいに耳を滑っていく。モティングは頷き続けた。頷きながら、頭の中で別の声が鳴る。


 ――寝るな。


 昨夜のダグロスの声だ。分かっている。分かっているのに、頷きが舟を漕ぐ動きに変わっていった。


 「で、ここに名前を……あ、名前が要るか。じゃあ拇印でいい。こう」


 フレッドが自分の親指に黒い印泥を付け、紙の枠へ押した。ぺたり、と湿った音。モティングはその音だけが妙に鮮明に聞こえた。


 「……ぺたり」


 「うん。ぺたり。君も、ぺたり」


 言われるまま、親指を差し出した。冷たい泥が指紋の溝に入り、ぞくりとする。枠に親指を置いた瞬間、眠気が一段深く沈み、頭の中で何かが勝手に決まる。


 ――了承。


 紙の上で、親指が鳴った。


 「……え?」


 目が覚めたように顔を上げると、ダグロスが腕を組んで立っていた。短い溜息が、薪の匂いに混じる。


 「押したな」


 「押しました。……押しましたけど、何を」


 フレッドが紙を一枚ひらりと持ち上げた。そこには「森の番士・臨時採用」だけでなく、当番、巡回範囲、警鐘の扱い、違反時の罰まで、びっしり書かれている。モティングは字面を追い、喉が乾いた。


 「……え、罰って……」


 「読ませる前に押させたのは俺だ。すまん」


 フレッドが先に頭を下げた。膝が少し曲がっている。そんなに縮まなくても、と言いかけて、モティングは言葉を飲み込んだ。自分だって、ちゃんと聞いていなかった。


 そのとき、背後から金属の音がした。炉の横で工具を磨いていた女が、濡れた布を投げ捨てる。彼女は小さな袋を机に置き、モティングを見た。


 「デラック。道具係。で、結論。寝ろ」


 「え、いま?」


 「いま。昼寝。飯も」


 言い切ると同時に、デラックは丸めた毛布を投げた。ふわ、と白い塊が飛んできて、モティングの顔面に当たった。鼻が毛羽だつ。思わず咳き込むと、フレッドが肩を揺らして笑った。


 「ごめん、俺が悪い。いや、今のはデラックが悪い」


 「うるさい」


 ダグロスが短く言う。フレッドはすぐ口を閉じた。


 「立て。外」


 詰所の裏手には、踏み固められた土の広場があった。木杭が並び、縄の輪がぶら下がり、丸太が転がされている。番士たちが二列になり、足並みを揃えて走っていた。


 ダグロスはモティングを列の端に置き、顎で前を示した。


 「走れ」


 「走ります」


 返事はした。したのに、足がもつれた。二歩で転び、土に顔を埋めた。泥が冷たい。立ち上がろうとしてまた滑る。


 「……あの、俺」


 「起きろ」


 言葉が短い。けれど、その声は昨夜より少しだけ角が取れていた気がする。


 フレッドが横からしゃがみ、木の器を差し出した。湯気が立つ。粥の匂いがする。


 「転ぶ前に食べよう。胃が空だと、目が落ちる。俺が言うんだから間違いない」


 「副官も落ちるんですか」


 「落ちる。落ちるし、落ちたら俺のせいにする。だから先に言う。俺のせいだ」


 「それは……」


 言いかけたところで、デラックが器の横に小さな塩壺を置いた。


 「少し入れろ。汗が出る。寝るのも仕事だ。倒れたら全員が走る」


 昨夜の「誤報で皆が走る」が、別の形で刺さる。モティングは粥をすすり、熱さで目が潤んだ。泣いたわけじゃない。湯気だ。そう思いながら、器を空にする。


 再び列に入る。走って、また転びそうになって、踏ん張る。縄の輪にぶら下がろうとして、手が滑って落ちる。誰かが笑う。笑われても、腹が立たない。笑いの中に、悪意がないからだ。


 訓練が一段落したころ、ダグロスが近づき、モティングの親指を掴んだ。印泥がまだ爪の縁に残っている。


 「押したなら、逃げるな」


 「逃げません。……たぶん」


 「たぶん、じゃない」


 額を弾かれると思った。けれどダグロスは弾かず、代わりに手を離した。


 「昼まで寝ろ。午後、見回りの説明をする」


 命令なのに、毛布のように暖かい。モティングは親指の黒い跡を見つめた。静かに暮らしたいのに、指一本で森に縛られた。なのに、今は不思議と息がしやすい。


 「……はい。寝ます。ちゃんと」


 デラックが遠くから親指を立てた。フレッドは「俺のせいで助かった」と言いかけ、ダグロスに睨まれて飲み込んだ。


 広場の端で、霧がゆっくり渦を巻いた。森の奥から、昨夜と同じ低い震えが、ほんの一拍だけ届く。モティングはその音に背筋を伸ばし、毛布を抱え直した。


 眠るなら、起きて、言う。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ