第19話 最も危ない場所で眠る
川の曲がり角へ着くころには、夜がほどけかけていた。東の空がわずかに白み、霧が川面を舐めるように流れている。水車小屋は古い板壁をきしませ、回らない水車が黒く沈んでいた。
小屋の下に潜り込むと、土がぬるい。熱が地面の中を走っている。モティングは、あの夢で見た“白い根”の気配を足の裏で探した。踏みしめるたび、かすかな脈動が返ってくる。
ダグロスが川上を見て、短く言った。
「風、変わる。急ぐ」
デラックは腰の袋から細い金属管と革栓を取り出し、地面へ並べた。板を外し、土を少し掘る。手際が良いというより、余計な動きがない。掘り当てた瞬間、白い根が露わになった。指ほどの太さなのに、そこだけ光が滲む。
フレッドが息を呑む。
「これが……町まで来てる根」
根のすぐ脇で、黒い粉が粘っていた。監察官の部下が置いた呪具の欠片だ。粉からは、焦げた布みたいな匂いが立つ。近づくほど、胸の奥がざわつく。怖さが勝手に増えていく。
モティングは舌打ちした。
「人の不安を煽って、封印を腐らせる……やり口が嫌すぎる」
言いながら、ふっと眠気が濃くなる。熱と霧と匂いが、瞼を重くしていく。
フレッドが肩を掴んだ。
「今、倒れるな。ここで寝たら、焼ける」
「ここで寝る」
モティングは、掴まれた手をそっと外した。逃げるためじゃない。決めるためだ。
「一番危ない場所で寝る。俺の眠気は、ここで使う」
ダグロスが眉を動かした。怒鳴らない。ただ、低い声が落ちる。
「理由」
「怒りの核を、言葉にして持ち帰る。……俺が寝ないと、見えない」
モティングは胸の奥を指で叩いた。そこが冷える。怖い。けれど、怖いまま動くしかない。
デラックが金属管を根の周りへ差し込む位置を示し、短く言った。
「眠るなら、体を守る。熱の導きは私が作る。息は、これ」
彼女は布を丸め、蜜の匂いがする液を含ませた。鼻へ当てると、焦げ臭さが薄れる。
フレッドが鍋を抱えてきた。さっき町から持ち出した蜂蜜湯だ。湯気が頬に触れ、甘さが鼻へ抜ける。
「戻って来い。戻れないなら、俺が泣く。……いや、泣かない。泣く前に引っ張る」
自分に言い聞かせるように言って、フレッドは湯を椀へ注いだ。
モティングは椀を受け取り、一口だけ飲んだ。甘さが舌へ乗る。熱が喉を通り、眠気が“落ちるべき場所”を示した。
ダグロスが剣を抜き、根の上へ影を落とした。
「守る。寝ろ」
その短い言葉で、モティングは腹を括った。板の上へ横になり、根から少しだけ距離を取る。耳に川音。板の隙間から上がる熱。遠くで風が唸り、火の粉が木々を叩く音が混じる。
――怖い。けど、行く。
瞼が落ちた。
――暗い。熱い。深い。
――土の中に、無数の根が絡む。根は白いのに、ところどころ黒く滲んでいる。
――誰かが斧を振り下ろす。木が倒れる。根が引きちぎられ、白い汁が飛ぶ。
――痛い、という声。声は森の底から響き、上からは笑い声が落ちてくる。
モティングは、竜の目を借りていた。葉の一枚が裂けるだけで痛いのに、根が切られる痛みは、呼吸を奪う。怒りは熱として噴き上がるが、その奥に、別の色がある。
――約束。
古い見張り小屋。まだ新しい丸太の匂い。番士たちが手を重ね、同じ言葉を言う。
「森を削るときは、必ず戻す」
「土を掘るときは、必ず塞ぐ」
「怖くても、嘘はつかない」
約束が守られる間、竜は眠れた。眠っている間だけ、森は痛みを忘れられた。だが、約束が破られた瞬間、眠れなくなった。
――痛い。
――怖い。
――誰も、聞いてくれない。
怒りは、痛みが言葉になれなかった形だった。
モティングは、竜の胸の奥へ手を伸ばした。熱いのに、そこだけ冷たい。冷たさは、放っておかれた痛みだ。彼は唇を動かし、竜に言う。
「分かった。言葉にする。お前の代わりに、今の人へ渡す」
――渡せ。
吐息が、森を揺らした。
モティングは跳ね起きた。板の上で背中が汗ばんでいる。目の前で、ダグロスが剣先を下げずに立っていた。デラックは金属管を根の周りへ差し込み、革栓で固定している。根から漏れていた熱が、管へ吸われ、川の冷気へ流れ落ちるように薄まっていく。
フレッドが椀を差し出した。
「戻ったな」
「戻った」
モティングは息を整え、椀の縁を握った。指が震えているのが自分で分かる。
土の上に、監察官の部下が残した呪具が転がっていた。デラックがその欠片へ布を被せ、踏みつけるのではなく、静かに袋へ入れる。
「証拠。匂いも残る。逃がさない」
そのとき、川向こうの道で馬蹄の音がした。追手だ。だが、先頭にいたのは町の書記役の女だった。息を切らし、紙束を掲げる。
「掲示板に貼った! 交易伯の横流し帳簿と、偽の証言文! 署名も取った! 監察官の名も!」
背後から、町の男たちが走って来る。松明ではなく、白い布を振っている。戦うためじゃない。見届けるためだ。
モティングは立ち上がり、川風を胸に入れた。言葉が喉でつかえる。けれど、竜の冷たい痛みが、背中を押す。
「聞いてくれ」
声が自分のものじゃないみたいに響く。霧の中へ、言葉が届いていく。
「森は怒ってる。だけど、怒りだけじゃない。……痛いんだ。根を切られて、放っておかれて、誰にも聞かれなくて、痛いって言えなかった」
町の男が眉をひそめた。
「痛いって……森が?」
「森が。竜も。俺たちも」
モティングは自分の胸を叩いた。
「怖いって言える場所がなくて、嘘の言葉を飲まされて……痛い。だから、今から言い直そう。守る暮らしを、誰が、いつ、どこで、どう守るか」
ダグロスが一歩前へ出た。短い言葉では足りないと分かっている顔をしている。彼女は喉を鳴らし、息を吸った。
「今。ここ。町と森の境で。俺は、避難路を守る。嘘を許さない」
フレッドも続いた。椀を両手で持ち、震える手を隠さずに言う。
「俺は、腹を満たす。怖いときほど、温い湯を渡す。言い訳で逃げない」
デラックは金属管を軽く叩き、音を確かめてから、淡々と口を開いた。
「私は、道具を整える。誰かが倒れたら運べるように。休むことも、守りのうち」
町の人々が次々と言葉を重ねた。川沿いの若者は「掘った穴を塞ぐ」と言い、年配の女は「木を切ったら苗を植える」と言った。子どもが小さな声で「こわい」と言うと、隣の大人が「こわいって言っていい」と返した。
白い根が、ふっと明るくなった。熱が一段落ち、火の粉の匂いが薄まる。川霧の向こうで、森が長く息を吐いた。咆哮ではない。怒鳴らない呼吸だ。
追手の馬が止まり、乗っていた兵が周囲を見回す。町の掲示板に貼られた紙束は、もう隠せない。監察官の名は、風に乗って広がる。
ダグロスが兵へ視線を向け、短く言った。
「帰れ」
兵は言い返そうとして、口を閉じた。背後の町の人々が、武器ではなく紙束を掲げているからだ。逃げ道がないのは、刃ではなく、言葉と証拠だった。
モティングは根の上に手を置き、熱が引いていくのを確かめた。まだ完全ではない。けれど、怒りの形が変わった。痛みが、言葉になった。
「……これは、本当にあった話だ」
いつもの口癖を、今度は自分のために言った。奪われた言葉を、取り戻すために。
フレッドが小さく笑い、椀を差し出す。
「じゃあ、続きもちゃんと書け。寝落ちで省略するな」
「書くよ」
モティングは頷いた。眠気がまた肩へ乗ってきたが、今は敵じゃない。鍵だ。
川の上で霧がほどけ、朝の光が水車小屋の板壁を照らした。森から飛んで来ていた火の粉は、川風に押され、少しずつ遠ざかっていった。




