第17話 心の中を偽るな
監察官の拍手が止むと、封印石の赤い脈がさらに速くなった。白い根がきしみ、黒い腐りがじわりと広がる。倒木の輪の中で霧が渦を巻き、熱が足元からせり上がってきた。
「ほら」
監察官は両手を広げた。
「誓いだの守るだの、口にした瞬間に揺らぐ。恐れは正直だ。恐れを抱いた者から逃げる。逃げた者から裏切る。裏切られた者は憎しみで燃える。よくできた循環だ」
モティングは根に触れたまま喉を鳴らした。言い返したいのに、唇が乾いて動かない。眠るたび拾ってきた断片――手順、匂い、地形――それだけが頭の中で散らばって、まとまった言葉にならない。
「……怖い」
口から落ちたのは反論ではなく白状だった。
監察官が目を細める。
「ほう。怖いのか。なら逃げればいい。お前は寝て、すべて忘れる」
否定すれば嘘になる。モティングは息を吸った。
「逃げたい。眠りたい。ここで全部投げたい」
その瞬間、根の白さが一筋だけ戻った。赤い脈が、ほんのわずか遅れる。怖いと言ったのに、森が怒らない。むしろ、嘘を吐かれなかったことを確かめるみたいに、根が落ち着く。
モティングは根を撫でる指を離さず、続けた。
「……それでも、起きる。起きたら言う。怖いって。怖いまま、ここにいるって」
背後で鍋の柄が小さく鳴った。フレッドが口を開く。
「俺が悪い……」
いつもの言い方が出かけて、彼は舌を噛んだ。痛みに眉が寄る。代わりに、別の言葉が落ちた。
「助けてほしい」
監察官が笑う。
「情けない。言った瞬間に負けだ」
フレッドは鍋を抱え直し、封印石を見つめた。
「負けでもいい。ひとりで抱えると焦がす。焦げたら、皆の腹も心も荒れる。だから助けてほしい」
デラックが頷き、腰の袋から蜂蜜湯の小瓶を出した。
「休む」
それだけ言って、彼女はフレッドの口へ瓶を押し当てる。フレッドがむせ、甘い匂いが霧に混じった。次に、モティングの唇へも瓶が当たる。
「飲め。喉が乾くと、嘘が出る」
モティングが一口すすった瞬間、根がまた白くなった。甘い匂いに誘われたみたいに、腐りの黒が一歩だけ退く。
監察官の笑みが薄れる。
「くだらん。弱さの告白が、封印を直す? そんな話が通るものか」
ダグロスが一歩前へ出た。群れの輪の真ん中に立つのが苦手なはずなのに、今日は逃げない。彼女は短く言った。
「一緒にやる」
それだけで、根が白く脈を打った。白い根が互いに絡み直し、石の赤い脈がさらに遅くなる。熱が少しだけ引き、霧の渦がほどけた。
監察官の足音が乾く。彼は外套の内側から短い刃を抜き、根へ向けて振り下ろした。
――ガン。
刃は、金属板に弾かれた。デラックがいつの間にか地面へ滑り込ませていた板だ。熱を逃がす管が光り、刃の先がじりっと焼ける。
フレッドが鍋を掲げた。
「甘い湯は、敵にも平等だ!」
彼が蓋を開けて勢いよく振ると、蜂蜜湯が弧を描いて飛んだ。監察官の靴の先に落ち、泥と混じってねっとり光る。
監察官が一歩踏み込み、足が滑った。
「……っ」
ダグロスが短く指示する。
「下がれ。根は守る」
モティングは根から手を離さないまま、必死に頷いた。怖い。眠りたい。それでも、いまは指先の温度を嘘にしたくない。
監察官は泥を払いながら唇を歪め、囁くように言った。
「弱さを並べて、白くなった気になるがいい。町には恐れを撒けば十分だ。お前たちの誓いを笑う口はいくらでも作れる」
彼は指笛を鳴らし、闇へ溶けた。遠くで、別の笛が応える。森の奥で風が走り、火の粉みたいな匂いがまた濃くなる。
フレッドが鍋の蓋を閉め、低く言った。
「来る。町へ波が出る」
デラックが管を押さえたまま、モティングの手首に布を巻く。
「起きて運べ。言葉も、証拠も、人も」
ダグロスが頷き、短く言った。
「行く。皆で」
モティングは根の白さを確かめるように指先を撫で、息を吐いた。
「……怖い。だから、走る」
四人は封印石から離れ、霧の道へ踏み出した。背後で赤い脈が重く脈打ち、森が長い息を吸い始めた。
その瞬間、根の白さが一筋だけ戻った。赤い脈が、ほんのわずか遅れる。怖いと言ったのに、森が怒らない。
モティングは目を見開いた。嘘をつかなかったからだ、と体が先に理解した。
「寝る。起きたら言う。怖いって」
監察官の笑みが薄くなる。
「弱さの告白が、封印を直すとでも?」
フレッドが鍋の柄を握り直した。いつもの癖が口を出かける。
「俺が悪い――」
言いかけて止めた。舌を噛んだ痛みで、背筋が伸びる。
「……助けてほしい」
監察官が鼻で笑った。
「情けない」
フレッドは鍋を抱えたまま一歩前へ出る。
「情けないと、腹が減る。腹が減ると、勝手に怒る。だから助けてほしい。俺は鍋で人の口を軽くするけど、俺の口は軽くならない」
デラックが腰袋から布を出し、モティングの手首をぐいと拭いた。汗が冷える前に拭く。次に椀を差し出す。
「休む。今すぐ。三口飲んで呼吸を合わせる」
「ここで?」
モティングが間抜けに聞き返すと、デラックは椀を押し付けた。
「ここで。怖いときほど、体を壊す。壊れたら、逃げるしかなくなる」
甘い湯が喉を通ると、胸の硬さが少しだけほどけた。根の白さが、もう一本増える。
ダグロスは監察官から目を離さないまま、短く言った。
「一緒にやる」
言葉はそれだけなのに、背中に壁が立つ。モティングの肩へ、彼女の手が一度だけ置かれた。置いて、すぐ離れる。触れていた時間の短さが、逆に嘘のなさを示していた。
監察官の顔から余裕が消えた。
「弱さを並べて、結束のつもりか。滑稽だ。お前たちは既に追われている。交易伯は無罪。お前たちは有罪。証拠もない」
モティングは息を吐き、根を撫でた。
「証拠なら、持ってる。帳簿と、偽の証言と……俺の口癖まで使った紙」
監察官の指がぴくりと動いた。次の瞬間、外套の下から細い刃が滑り出る。刃先が根へ向いた。
ダグロスが前へ出た。鞘から短剣は抜かない。代わりに、体ごと刃の前に立った。
「切るな」
監察官は舌打ちし、刃をひねって間合いをずらす。デラックが金属板を蹴り込むと、熱の流れが外へ逃げ、刃の先が一瞬だけ震えた。フレッドは鍋の蓋を開け、甘い湯を地面へ一筋垂らした。
「……何をしてる」
監察官が顔をしかめる。
「滑る」
フレッドが言った。次の一歩で、監察官の靴がぬるりと滑り、体勢が崩れる。モティングは反射で根から手を離しそうになり、慌てて戻した。
「今の、わざと?」
「わざと」
フレッドは真顔だった。
四人の声が重なる。
「怖い」
「助けてほしい」
「休む」
「一緒にやる」
封印石の赤い脈が、ひとつ大きく跳ねたあと、ゆっくりになる。白い根が広がり、黒い腐りが止まる。霧の渦がほどけ、熱が少しだけ引いた。
監察官は立て直し、刃を引っ込めた。笑いを作ろうとして失敗し、唇の端が歪む。
「……口だけは達者になったな」
遠くで、森が大きく息をした。倒木の輪が震え、枝先の露が一斉に落ちる。嵐の前の気配が、皮膚に張り付く。
ダグロスが森の奥を見た。
「町へ。人の声が要る」
モティングは根から手を離し、指先の温度を確かめた。まだ怖い。けれど今夜は、怖いと言えた。言えた分だけ、足が前へ出る。
「ここで?」
モティングが間抜けに聞き返すと、デラックは椀を押し付けた。
「ここで。怖いときほど体を壊す。壊れたら、逃げるしかなくなる」
三人が同じタイミングで息を吐くと、白い根がまた一段白くなる。石の脈が遅くなり、熱の刺す匂いが薄まった。
ダグロスが横に立った。言葉が短い人の、いつもより短い一言が落ちる。
「一緒にやる」
監察官の顔から余裕が消えた。
「馬鹿げている。恐れを口にした者は、互いを疑うはずだ!」
「疑う」
モティングは根から手を離さずに言った。
「疑うけど、黙らない。黙って笑って、背中から刺されるのはもう嫌だ」
監察官が外套の内側から短い刃を抜き、根へ向けて振り下ろした。ダグロスが間に入る。刃が鞘に当たって火花が散り、熱い風が頬を撫でた。
フレッドが鍋の蓋を開け、甘い湯気をぶつける。監察官の目が一瞬だけしばたき、足元がぬるりと滑った。蜂蜜が飛んだらしい。
「ごめん。わざとじゃない。いや、半分わざとだ」
デラックが金属板を地面に押し付け、熱の流れを外へ逃がす。白い根がきしむ音がやわらぎ、封印石の赤い脈が落ち着いた。
監察官は舌打ちし、霧の向こうへ後退した。
「いいだろう。町へ恐れを撒く。お前たちの誓いが、どれほど保つか見せてもらう」
遠くで笛の音が鳴った。森の上空で風がうねり、枝が一斉にざわめく。
ダグロスが短く言う。
「来る。急ぐ」
モティングは椀を返し、根に触れた手を一度だけ握り直した。怖さは消えない。それでも今夜は、嘘をつかないまま走れる。




