第16話 封印修復の所作
夜の国境森ルーンウッドは、風が熱を含んでいた。枝が擦れるたび、乾いた火の粉が舞うような匂いが鼻の奥を刺す。四人は谷を越え、倒木の影を縫って進んだ。追手の足音はもう聞こえない。それでも、根の奥の低い唸りが背中を押してくる。
「ここからは灯りを絞る」
ダグロスが言い、指で二本、短く示した。フレッドは提灯の芯を指でつまみ、炎を小さくする。デラックは腰の袋から、薄い金属板と細い管を取り出した。指先で撫でると、板の縁が淡く光る。
「熱が漏れる。道が熱い方へ曲がる。足元、見ろ」
言い方がいつもより丁寧だった。森の中では声が響く。余計な言葉を削ったまま、必要な場所だけ増やした。
モティングは頷き、胸の前で両手を握った。握ると、指が震える。眠気ではない。熱と怖さで、喉が乾いていた。
「……眠ったら、起こして」
言うと、デラックが即座に返した。
「起こす前に、寝させない」
針金みたいな声だが、彼女はモティングの肩へ布を掛けた。汗が冷えて体温が落ちると、眠気が襲う。そういう理屈を、彼女はいつも先に片付ける。
根の道は、途中から白くなった。土の上に、細い根が露出している。白いのに、生温かい。踏むと柔らかく沈み、靴底にぬるりと絡んだ。
「近い」
モティングの口が勝手に言った。目の奥に、見たことのない手の動きが浮かぶ。木槌で石を叩く音。布で汗を拭う音。誰かが「焦るな」と言った声。
「どこだ」
ダグロスが短く問う。
モティングは立ち止まり、鼻で息を吸った。湿った樹皮の匂いの奥に、焦げた鉄の匂いが混じっている。封印石だ。
「……右。三歩。根が太い方」
言うと、デラックがすぐに先へ出た。金属板を地面へ置き、管を差し込む。すると白い根が、ほんの少しだけ落ち着いたように脈を緩めた。
「導いてる。熱の通り道を、外へ逃がす」
フレッドが鍋を下ろし、蓋を開けた。中には蜂蜜湯。甘い匂いが漂い、喉が反射で潤う。
「匂いだけでも、怖さは薄くなる。森の中で腹が鳴ると、声が出なくなるからな」
言いながら、彼は椀を三つだけ並べた。四つではない。最後の一つは、まだ出さない。今夜は言葉が要る。喉が渇いた者から倒れる。
やがて、地面が少しだけ開けた。倒れた巨木が輪になり、その中心に、赤く脈打つ石が埋まっている。石の周りを白い根が巻き、ところどころ黒く腐っていた。根が腐っているのに、石は熱い。熱いのに、森は泣く。矛盾が目で見える場所だった。
モティングは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。ここで間違えたら、町が焼ける。森が壊れる。自分が眠った分だけ見た断片が、本当に役に立つのか――怖い。
それでも彼は前へ出て、石の縁へ膝をついた。
「……所作、だよな」
ぼそりと呟くと、フレッドが笑いを噛み殺した。
「作法ってやつだ。礼をしてる場合じゃないけどな」
モティングはうっかり深く頭を下げ、額を石に軽くぶつけた。熱い。痛い。目が覚める。
「熱っ……起きた」
デラックが肩を揺らして笑い、ダグロスは小さく息を吐いた。短いが、今夜はそれが許しの合図に見えた。
モティングの頭の中に、手順が並び始める。派手な言葉ではない。まず、根の腐りを見て、嘘をつかない。次に、守るものを口にする。最後に、皆で同じ方向を向く。
「……一つずつ、やる」
モティングは言い、指を根へ伸ばした。白い根は温かく、黒い根は冷たい。触れた瞬間、背中がぞくりと震えた。
ダグロスが横に立ち、短く言った。
「守るもの」
フレッドが頷き、椀を一つ差し出した。
「宿場の子がくれた塩。これがないと、冬は越せないって」
デラックは布に包んだ針と糸を出した。
「破れた服を縫う。寝る前に直せると、明日が軽い」
ダグロスは腰の鞘に触れたまま、視線を森へ向ける。
「道。迷わない道。戻れる道」
モティングは喉が鳴った。自分の番だ。胸の奥の「静かに暮らしたい」が、今夜だけは違う形で出てくる。
「……起きて、見張って、帰る。帰って、また眠る。その順番を、守る」
言った瞬間、赤い石の脈が一度だけ弱まった。白い根が、ほんの少しだけ白さを増す。
そのとき、背後の倒木の影から拍手が響いた。乾いた音だった。
「感動的だな。泥と汗と、貧しい誓い」
闇から現れたのは、監察官だった。外套の裾に泥ひとつ付いていない。口元だけが笑っている。
「そんな言葉で、封印が戻ると本気で思っているのか。恐れはもっと役に立つ。恐れは人を動かす。裏切りも、憎しみも、よく燃える」
ダグロスの肩が上がった。フレッドは鍋の柄を握り、デラックは管をもう一度押し込む。モティングは根から手を離せない。離したら、今の言葉が嘘になる気がした。
監察官は封印石を見下ろし、唇を歪めた。
「さあ、続きを言え。互いの弱さを隠したまま、どこまで持つ」
森の唸りが強くなった。赤い脈が速くなる。白い根がきしむ音が、骨の中まで響く。
モティングは息を吸い、喉の奥の渇きを舌で押さえた。今夜は、嘘をつけない夜だ。




