第15話 群れない人が、手を伸ばす
物置の裏の土は、夜のうちに固く凍っていた。朝の笛の練習音が消え、夕方の薄い陽が町の端の畑を横切る。四人は荷を小さくまとめ、油布に包んだ帳簿の切れ端と封蝋の型を、デラックの胸元へ押し込んだ。
「先に、森へ戻る」
ダグロスが言って、歩き出す。言葉は短いのに、足が迷わない。モティングはその背中を追いながら、胸の奥で例の見出しがまだ擦れているのを感じた。あの紙の言葉が先に立つなら、自分の言葉はいつも遅れる。
町外れの柵を越えたところで、フレッドが鍋を揺らした。中身は昼に仕込んだ茸の濃い汁だ。蓋の隙間から香りが漏れ、空腹が喉の奥を叩く。
「走る前に、飲む?」
冗談みたいな調子だったが、視線は森の暗さを測っている。
デラックがモティングの荷紐を掴み、手早く結び目を作った。紐の端がフレッドの腰帯へ繋がる。
「遅れると、拾う手が増える。これなら、引ける」
言い終えるより先に、彼女は鉄の輪を一つ取り出し、鍋の取っ手に通した。取っ手が固定され、揺れても音が鳴りにくくなる。
「鍋は盾にもなる。落とすな」
森の外縁に入ると、空気が変わった。木の皮の匂いが濃くなり、足元の落ち葉が湿る。赤い靄は遠くの梢に薄く絡み、夕焼けの残りみたいに見えた。けれど熱は残っている。息を吸うと、喉の奥が少し痛い。
ダグロスが手を上げ、止まれの合図をした。次に、指を二本立て、左右へ割る。誰がどこへ行くかを言葉で言わない代わりに、指で置く。
モティングが息を潜めた瞬間、後ろから葉擦れが続いて聞こえた。ひとつ、ふたつではない。靴の底が土を踏む音が、同じ間隔で近づいてくる。
フレッドが鍋の蓋を指で押さえ、口だけ動かした。
「……追手、だね」
モティングは頷こうとして、喉が鳴りそうになり、顎を引いた。
ダグロスが振り向いた。昼に言った“言葉の型”が、今は戦う場で役に立つ。彼女は低い声で、必要な分だけ足した。
「俺が前。デラックは横、糸を張る。フレッドは火を守れ。モティングは、道を見ろ。――眠るな」
最後の一言だけ、いつもの叱り口調だった。
デラックはすぐ木と木の間へ動き、細い針金を取り出した。指先が迷わない。落ち葉の上に針金を這わせ、足首の高さで張る。針金の中心に、小さな木片を噛ませると、踏んだ瞬間に枝が跳ね上がる仕組みになる。
「音は一回。二回鳴ったら、合図を変える」
彼女はそう言って、笛の穴を指で塞ぐ練習を一度だけした。
追手が姿を現したのは、夕日が枝の影を長く伸ばした頃だった。革の胴着に短槍、腰には縄。先頭の男が鼻をひくつかせる。
「匂いがする。鍋の匂いだ。――いたぞ」
男の声が森に落ち、後ろの数人が散った。包む動きだ。モティングの背筋が冷えた。体が勝手に眠りへ逃げたがるのが分かる。
ダグロスが一歩前に出た。踏み込みは強いが、突っ込まない。腕を横に広げ、仲間の位置を背中で守る。短槍が振られ、木の幹に当たって乾いた音がした。ダグロスは剣の腹で受け、槍先を外へ滑らせる。敵の足が、針金の方へ誘われるようにずれた。
「今」
ダグロスが言い、デラックが目だけで頷く。
踏んだ。
枝が跳ね、落ち葉が舞った。男の足がもつれ、槍が空を切る。そこへフレッドが鍋の蓋を少し開け、湯気をぶわりと立てた。茸の香りが湿った煙になって広がる。追手が目を細め、鼻を押さえる。
「くっ……何だ、この匂い」
「夕飯だよ」
フレッドが真面目な声で返し、柄杓で汁を地面へ一筋だけ垂らした。濃い汁が落ち葉に染み、匂いが森の別方向へ流れる。犬みたいに鼻が利く者ほど、そちらへ首が向く。
その隙に、ダグロスが仲間へ短く告げた。
「左」
モティングは左へ走りかけ、足がもつれた。瞼が重い。眠気が、背中を押す。紐が腰を引き、フレッドの体がぐっと揺れた。
「おい、転ぶな。汁がこぼれる」
フレッドが言い、笑っているようで笑っていない声だった。
モティングは呼吸を整えようとして、ふっと視界が暗くなった。
――根の下、冷たい水。苔が甘い匂い。倒木の腹。三歩で落ちる。
夢の中の匂いが、現実の鼻へ刺さった。目を開けると、目の前に苔むした倒木があった。幹の裏側だけ、ひんやり湿っている。そこから細い獣道が、谷へ向かって斜めに落ちているのが見えた。
「……ここ、降りられる。倒木の腹の下、滑るけど、抜ける」
モティングが言うと、ダグロスが即座に彼の腕を掴んだ。掴む手が強い。けれど引きずらない。掴んだまま、彼女は一瞬だけ目を合わせた。
「言え」
短い。けれど今は、それが「頼む」に聞こえた。
モティングは息を飲み、言葉を足した。
「谷底に水がある。石が黒い所は踏まない。右の木の根、そこを回る。……追手は上を回る。尾根が近い」
言い終えると、頭の中の霧が少し晴れた。自分の言葉が、道具にされる前に、仲間の足になる。
ダグロスは叫ばない。合図を短く切った。
「デラック、二本目。フレッド、火を消すな。モティング、先に降りろ」
デラックは谷へ下りる前に、もう一本針金を張った。今度は低い位置ではなく、胸の高さだ。枝に引っかけると、落ち葉の束がぶら下がった。追手が駆け下りれば、顔へ落ちる。
「目を奪う。三息だけ」
それだけ言って、彼女は自分も降りた。
谷へ滑り込むと、冷たい水の匂いがした。膝までの浅い流れ。フレッドが鍋を掲げ、底が濡れないように渡る。モティングは石の色を見て、黒い所を避けた。滑るのに、足が止まらない。
尾根の上から、怒鳴り声が落ちた。
「下へ行ったぞ! 回れ!」
その直後、落ち葉の束がどさりと落ちる音。追手の呻き声。デラックの針金が役に立った。
ダグロスは谷の向こう岸へ最後に渡り、全員の人数を目で数えた。数え終えると、彼女はモティングの肩へ手を伸ばし、乱れた襟を直した。小さな動きだった。けれど、今までなら言葉で済ませて背を向けていたはずのことを、手でやった。
「離れるな」
それだけ。けれどモティングの胸の奥が、また熱くなった。
フレッドが走りながら、椀を一つ差し出した。中身はぬるい茸汁。
「飲め。喉が乾くと、眠りに負ける」
モティングは受け取り、走りながら啜った。ぬるいのに、塩気が舌へ残り、目が少し開く。
森の奥へ入る手前、四人は一度だけ立ち止まった。追手の足音は遠くなり、代わりに、根の奥から低い唸りが届く。風が熱を運び、木々の間を擦っている。
モティングは湯気の消えた椀を握り、呟いた。
「……これは、本当にあった話だ。今の道も、谷の水も」
言うのが怖かった。けれど、言わなければ始まらない。
フレッドが頷き、デラックは封蝋の包みを胸元で叩いた。ダグロスは短く言った。
「持っていく」
四人はまた歩き出す。群れの真ん中へ入るのが苦手な隊長が、今日は一度だけ手を伸ばした。その手の温度が、次の夜へ繋がっていく。




