第13話 隊長の言葉、足りなさすぎ問題
雨が上がった翌朝、避難小屋の屋根から雫がぽたぽた落ちた。山肌の土はまだ黒く、靴底にまとわりつく。四人が麓の町へ戻ると、水車小屋の前に人が集まっていた。前夜に避難へ動いた家族の顔もある。眠っていた子が、今は目をこすりながら鍋の匂いを追っている。
フレッドは小屋の中へ鍋を据え、火を起こした。昨日の甘粥の残りに豆と茸を足し、塩をひとつまみ。湯気が立つと、集まった者たちの喉が一斉に鳴った。モティングはその音だけで、腹の底の緊張が少し緩む。
「昼のうちに、話をまとめましょう」
フレッドが椀を配りながら言う。
「町の北側の道、あそこは細い。避難の列が重なると詰まります。今のうちに分け道を決める。あと、食べ物の置き場も」
デラックは道具袋を床へ並べ、針金、麻縄、革の手袋を数えていく。誰かが近寄ろうとすると、掌で止めた。
「触るなら、手を洗ってから。刃物は人を守る。油の匂いが変わると、刃が泣く」
言い方は硬いが、子どもが手を洗いに走ると、デラックは黙って桶の水を足した。
その間、ダグロスは外で町の周りを一周し、戻ってきた。入口の柵の傾き、畑の脇の空き地、川沿いの浅い渡り。見たものを、頭の中で並べ替えている顔だ。モティングは話しかけようとして、言葉が喉で止まった。彼女の口はいつも短い。短いのに、背中だけで人を動かしてしまう。
昼前、水車小屋の奥の部屋に、年配の女と井戸番の男、それから畑の男手が三人ほど座った。卓の上には、昨日持ち出した帳簿の油布包み。窓から差す光が紙の端を照らし、黒い文字が怖い虫みたいに見える。
フレッドが深く息を吸ってから言った。
「森の奥で、根が切られました。熱い風が漏れています。交易伯の私兵が穴を掘り、監察官の手の者が道具を置いています。――この町も、燃えます」
井戸番の男が椀を置いた。
「お前ら、追われてるんだろ。町を巻き込む気か」
低い声が、部屋の空気を固くする。
ダグロスが椅子から立った。背筋が伸び、短く言った。
「守る」
それだけ言って、踵を返しかける。いつもの癖だ。言葉を置くと、すぐ場から逃げる。
年配の女が眉をひそめた。
「何を、誰を、どうやって。守るだけじゃ腹は満たせないよ」
井戸番の男も頷いた。
「俺らの畑、子ども、逃げ道。守るなら、やることを言え」
ダグロスの肩が一瞬だけ上がり、下がった。息を飲む音が聞こえた気がした。モティングは慌てて口を挟んだ。
「隊長、言葉の型があります。……僕、さっき山で、デラックに教わりました」
デラックが眉を少し動かす。否定もしない。
モティングは指を折った。
「誰が、いつ、どこで、何を、どうする。あと、どうなったら終わりか。これを言うと、聞く側は安心します」
自分で言っておいて、頬が熱くなった。昨日までの自分なら、こんなことを言う前に眠って倒れている。
ダグロスがこちらを見た。視線は鋭いが、怒鳴らない。フレッドが椀を差し出し、ゆっくり頷いた。
「今は、言い直していい時間です。誰も、急かしません」
ダグロスは椀を受け取らず、喉を鳴らした。
「……俺が、悪い」
その一言で、部屋の空気が少しだけ緩んだ。年配の女の肩が落ちる。
ダグロスは卓の上の帳簿を指で叩いた。
「交易伯の私兵が、森で根を切った。監察官が、恐れを増やす道具を置いた。昨日の夜から熱が漏れてる。今日の夕方までに、町の南へ子どもと老人を先に動かす。川沿いは危ない。畑の裏から回る。――これを、やる」
井戸番の男が黙ったまま目を細める。
「それで、お前らは?」
「俺たちは、夜に動く。根の方へ行く。道具を止める。証拠も持つ」
言葉が続く。短いけれど、途切れない。モティングは胸の奥がじんとした。守ると言う前に、やることを並べた。
ダグロスは次に、町の者たちを見た。
「頼む。補給の道を一本、隠してくれ。食べ物と布。あと、避難の合図を決めたい。鐘でも、笛でもいい。鳴らす人を決める」
ここで、ほんの少しだけ声が揺れた。
「……守りたいのは、この町の暮らしだ。井戸の列が泣かないようにしたい。だから、手を貸してほしい」
年配の女が椀を持ち上げ、ふっと笑った。
「泣くのは水だけで十分だね」
彼女は机を軽く叩き、隣の畑の男へ顎をしゃくった。
「物置の裏に通り道がある。干し豆と塩を隠せる。布はうちが出す」
井戸番の男も、顎を掻いた。
「鐘は嫌だ。鳴らしたら敵にも聞こえる。笛にしろ。短く二回なら、風と紛れる」
畑の男の一人が、手のひらを見せた。鍬だこが厚い。
「子どもを動かすのは俺がやる。走れるやつを揃える」
フレッドが胸の前で手を合わせた。
「助かります。鍋も、逃げる先へ持って行けます。腹が空くと、人は怖い話に負けますから」
デラックが道具袋を締め、淡々と言った。
「笛の合図は、夜のうちに練習する。指の位置、決める。手が震えるなら、震えない持ち方を作る」
会議が終わり、外へ出ると、空は薄い青だった。冬の光が町の凍った土を照らし、遠くの森の上だけが、微かに赤い靄をまとっている。モティングはその赤を見て、瞼が重くなるのを感じた。だが足は止まらない。
ダグロスが歩きながら、背中越しに言った。
「型、助かった」
それだけ。けれど、言葉が足りない彼女が、足りない分だけ必死に足してくれた一言だと、モティングには分かった。
「僕も、助かりました」
そう返すと、ダグロスは返事をしない代わりに、歩幅をほんの少しだけ合わせた。
その夕方、町の外れで笛が二度鳴った。練習の音だ。短く、風に紛れる。聞いた者たちが顔を上げ、次に取るべき動きを思い出す音だった。
モティングは笛の音を背に、眠りの入口へ意識を預ける準備をした。次に目を閉じたら、根の場所を、もっと正確に持ち帰らなければならない。




