第12話 眠っている間に、森が泣く
町へ戻る道は、冬のはずなのに湿ったぬるさがまとわりついた。地下坑道から漏れた熱が、地面の奥でまだ息をしている。川辺の草は夜露に濡れているのに、触れると指先がじんとした。
ダグロスは先頭で手だけ上げて合図した。二本指で止まれ、三本指で迂回。言葉がなくても、足がそろう。
フレッドは背中に鍋を背負い、走るたびに蓋がかたん、と鳴った。デラックは帳簿を油布で包んで胸へ押し込み、モティングは森の方角を見ないようにして、見てしまう。
町の外れの水車小屋に灯りが一つ残っていた。鍵を預けてくれた老人が戸を開けるなり、モティングの頬の泥へ目を止めた。
「今夜は、雪の匂いじゃない。……森が焦げてる」
老人は戸を半分だけ閉め、外からの視線を切った。
ダグロスが油布包みを指し、短く言った。
「交易伯。監察。根。呪具。熱、漏れた」
老人が眉を寄せる。フレッドが一歩前へ出て鍋の蓋を少しずらした。甘い湯気が小屋に広がる。
「話す前に、口を湿らせましょう。喉が乾くと、怖い話ほど曲がります」
椀に注がれた粥は蜂蜜と干し果実が溶け、湯気の中に甘さがある。奥の部屋から子どもの腹の音がして、すぐに母親が慌てて口を押さえた。モティングはその小さな音で、肩の力が少し抜けた。
デラックが机へ指で二度、合図のように叩く。
「今夜、町の北の山へ上がる。古い避難小屋がある。水と薪が残ってる。追手が追いつく前に、住民を分けて動かす」
窓の外で風が強くなり、屋根の藁がざわめいた。
ダグロスが頷く。
「森が起きる。町に残る方が、危ない」
モティングも口を開いた。
「……夜中に熱い風が来ます。川が白くなるくらい。僕、さっき見ました」
自分の声が震え、彼は唇を噛んだ。瞼の裏に、金色の眼が残っている。
老人は棚から古い地図を引っ張り出し、崩れやすい坂と沢沿いの道を指でなぞった。
「畑の裏から回れ。夜は音を立てるな」
言い終えると家族へ目配せし、布袋にパンと乾燥豆が詰められ始めた。
夜半、四人は荷車の列を連れて北へ向かった。山道に入ったところで雨が降り出し、すぐに桶をひっくり返したようになる。誰かが滑るたび、ダグロスの手が伸びて引き上げた。口から出るのは「足」だけ。
避難小屋は岩陰に埋まるように建っていた。扉は重いが、デラックが留め具を外し、ぎい、と鳴いて開いた。中は乾いた木の匂い。梁には昔の番士が刻んだ印が残り、モティングの胸がそこだけ妙に痛んだ。
フレッドが炉へ火を移し、濡れた衣から湯気が立った。外は雨と風。屋根を叩く音が太鼓みたいに続く。
デラックが毛布を並べる。
「順番に寝る。まずモティング」
モティングは反射で首を振った。
「寝たら、また……」
言葉が続かない。眠りの向こうに鎖の音と金色の眼がある。
ダグロスは外套を投げた。モティングの肩に落ちる。濡れた布なのに、重みが逃げ道を塞いだ。
フレッドは椀に粥をよそい、両手で支えて差し出した。
「胃に入れてから寝ろ。夢の中で転んだら、腹が痛い」
モティングはその変な理屈に息を漏らし、粥で飲み込んだ。
火が落ち着き、雨音が一定になった頃、モティングは毛布へ潜った。瞼が落ちる速度に逆らえない。沈む直前、デラックの声が届く。
「息を数えろ。四つ吸って、六つ吐け。吐く方を長く」
モティングは言われた通りにして、胸の奥の鈴の音が遠のくのを待った。
闇の中で、森が現れた。雨ではなく灰が降り、木々の皮は裂け、根が露出している。斧の音が、遠くから途切れずに続く。
足元に鎖が絡み、先は地面の割れ目へ繋がっていた。奥から熱が漏れる。
金色の眼が開く。近い。怒りではない。痛みを隠すために睨んでいる、そんな目だった。
――誰が、守ると言った。
景色が勝手に流れた。昔の番士が炉の前で板に手を置き、「森を削る手を止める」と言う。町の女が「子どもが朝まで眠れるように」と言う。別の男が「腹が空いたまま怒鳴らない」と言う。暮らしの約束が、火の前で積み重なる。
次の瞬間、約束は紙みたいに破れた。輪が鳴り、人々が互いを疑い、逃げ遅れた者を指差す。根が黒く変わり、痛みが地面を這う。
森が泣くのを、モティングは初めて聞いた。雨音ではない。胸の奥に直接、冷たい水を注がれるような泣き方だった。
モティングの喉から、声が漏れた。
「……ごめん……」
謝る相手が分からない。なのに謝ってしまう。彼は両手を伸ばし、鎖の冷たさに触れた。鎖が一度だけ震え、金色の眼がゆっくり閉じた。
次に開いたのは、自分の目だった。避難小屋の天井。火は小さく、雨音はまだ続く。頬が濡れている。汗か涙か、区別がつかない。
言葉にしなければならない。けれど、口に出した瞬間に、あの泣き方を軽くしてしまう気がした。
フレッドは鍋を抱えたままうたた寝し、椀が膝の上で傾きかけている。落ちる前に、ダグロスが指先で支えて戻した。誰にも見せない動きだ。
デラックは壁際で目を開け、床を二度叩いた。
モティングは炉の前へ這うように移動した。火の赤が、さっきの根の赤に重なる。
「森が……泣いてる」
言った途端、自分の言葉が薄い紙みたいに感じた。腹の底で何かが跳ね、彼は拳で床を叩いた。
「違う。こんなんじゃない。もっと……重い」
息が詰まり、視界が揺れた。
フレッドが目を覚まし、椀へ粥を作り直した。蜂蜜は入れず、塩をひとつまみ。湯気が立つ。
彼は椀の縁を指で叩いた。
「飲め。言葉は、あとで増やせる。まず喉を通せ」
モティングは熱さに舌を焼きながら飲んだ。塩が、涙の味を少しだけ別物にする。
デラックが背中へ掌を当て、ゆっくり上下に動かした。呼吸の速度を合わせる合図だ。
「今は一文でいい。誰が、いつ、どこで、何をされて、どう痛いか。順に出す。出せない部分は、出せないと言う」
モティングは頷き、もう一口飲んだ。
ダグロスが火の前にしゃがみ、言葉を一つだけ落とした。
「聞く」
外の雨がいっとき弱まり、山の闇の向こうで森がざわめく。まだ耐えている音だ。
モティングは息を整え、吐く息を長くした。
「……森は斧で削られてきた。根は黒い輪で痛めつけられてきた。怒りは、痛みの裏だ」
言い終えた瞬間、彼の瞼がまた重くなった。けれど今度は、逃げの眠りじゃない。次に見るべきものを見に行くための眠りだと、火の赤が教えていた。




