第10話 ざまぁは静かにやる
町に潜り込んで二日目の深夜。納屋の隙間風が、干し豆の匂いを薄くしていくころ、フレッドが外から戻ってきた。袖に粉がつき、指先がいつもより白い。屋台の仕込みをしていたふりで、市場の端まで歩いたのだ。
彼は声を落とし、藁束の陰で囁いた。
「北門の外、倉庫が並ぶ場所。三番目の倉に、交易伯の帳簿があるってさ。夜回りが、酒場で自慢してた」
ダグロスは返事をせず、指を二本立てた。いまから動く、の合図らしい。短いのに迷いがない。
デラックが油紙に包んだ小さな道具袋を開けた。細い針金、薄い板、耳かきみたいな金属片。
「錠前は古い。音を立てるな。靴底、布を巻け」
言われるままに、モティングは自分の靴に端切れを結びつけた。眠気はまだ遠くにいるのに、こういうときほど背中から忍び寄る。
町の外れへ出る道は暗かった。家々の窓は閉じ、遠くの犬が一度だけ吠える。霧が薄く流れ、松明の灯りが滲んで見えた。倉庫街は川沿いに並び、木の壁には樹脂の匂いと、塩の乾いた匂いが混じっていた。
倉の扉には鉄の鎖。デラックが膝をつき、影の中で手を動かす。金属が擦れる音が出そうになるたび、彼は息を止め、指先を変えた。
モティングは、その背中を見ているだけで自分の肩が凝るのを感じた。ダグロスは一歩離れて立ち、倉庫通りの両端を交互に見ている。手は腰の刃に触れず、いつでも掴める位置に置いていた。
「開いた」
デラックが小さく言った。扉が、ほんの指一本分だけ動く。フレッドは鍋を抱えている。夜食の粥の残りを温めて、持ってきたらしい。蓋の隙間から、茸と豆の湯気が漏れた。
四人は滑るように倉へ入った。中は黒い。木箱が積まれ、縄が垂れ、床に粉が散っている。奥の窓から月明かりが細く入り、埃が舞って見えた。
「帳簿は、紙の匂いがする。濡れてない場所だ」
デラックが囁くと、ダグロスが頷き、指で奥の梁を示した。
モティングは箱の陰を抜けようとして、急に胸の奥がふわりと軽くなった。
――眠るな。
そう思うほど、瞼が重い。耳の奥で、どこかの警鐘が鳴った気がした。
木の床に額が触れそうになった瞬間、冷たい風が吹き抜ける感覚がした。倉庫ではなく、湿った森。根が張る地面。誰かの手が、塩袋の縫い目をほどき、底板を外す。そこへ薄い帳面が差し込まれる。
「紙は湿気に負ける。塩は勝つ」
低い声がそう言った。
ぱちり。
モティングは目を開け、喉を鳴らした。
「……塩袋。底、外せる」
「要点」
ダグロスが即座に言う。怒鳴らない。急かさない。なのに、逃げ道だけは塞がない声だ。
モティングは指を震わせないようにしながら、積まれた麻袋の山を指した。
「角のやつ。縫い目が違う。底板、ある」
デラックがすぐに動き、縫い目をなぞった。彼の爪が、違和感を拾う。
「当たり。……誰だ、こんな手間を」
「昔の番士の手癖だ」モティングは、半分だけ冗談のつもりで言った。「これは本当にあった話なんだ」
そのとき、外で足音がした。砂利を踏む、二人分。松明の火が扉の隙間を赤く染める。
「おい、誰かいるのか」
扉の外の声が、倉の空気を固くした。
モティングの口が勝手に動いた。
「は、はい……」
自分でも何を言ったのか分からず、背中が凍った。フレッドが鍋の蓋を押さえ、音を殺す。デラックの手が止まる。ダグロスだけが、息の速さを変えなかった。
扉が軋み、松明の光が差し込む。見回りの男が二人、槍を持って入ってきた。
「返事がしたぞ」
「猫だろ。いや、鍋の匂い……?」
フレッドが、影から一歩出た。松明の光が彼の頬に当たり、湯気が白く揺れる。
「夜回りさん、腹が冷えると明日倒れますよ。温いの、あります」
男たちは一瞬だけ槍を下げた。匂いが、疑いより先に鼻へ届いたらしい。
「なんだ、お前は」
「納屋の手伝いです。井戸の水、戻ったんで。礼に、余りを配ってます」
フレッドは椀を差し出し、鍋の中を覗かせない角度で蓋をずらした。湯気がふわりと広がり、男の目が細くなる。
その隙に、デラックが塩袋の底板を外した。薄い革表紙が見える。モティングはそれを掴み、胸に押し当てた。紙の角が手のひらに刺さり、痛いほど現実だった。
「……甘い匂いだな」
見回りの一人が椀に口をつけた瞬間、フレッドが杓子でほんの少しだけ香辛料を落とした。男がむせ、咳き込む。もう一人が「おい、変なもの入れるな」と身を乗り出す。
ダグロスが、倉の奥の闇へ滑り込んだ。次の瞬間、梁の上から縄が落ち、松明の柄に絡んだ。火がふらつき、影が踊る。
「消せ!」
男が慌てる。
「今だ」
ダグロスの声は低い。四人は一列になり、箱の陰を抜け、裏の小窓へ向かった。デラックが窓枠の釘を外し、モティングが先に滑り出る。冷たい川風が頬を叩いた。
背後で槍が床を突く音。松明の火が壁を舐める気配。ダグロスが最後に出ると、彼は窓枠を押し戻し、外から縄を引いて固定した。追う足が止まる。
川沿いの石段を降り、四人は水音に紛れて走った。月は薄く、雲の切れ目に小さな星が滲んでいた。モティングは息を吸い込むたび、胸の帳簿が上下するのを感じた。
納屋へ戻ると、デラックがすぐに椀に湯を注ぎ、モティングの手を包むように渡した。
「震えを止めろ。紙を濡らすな。まず飲め」
フレッドが肩をすくめる。
「返事はな、『腹が減った』でいいんだよ。次からは」
モティングは湯を啜り、声にならない笑いを漏らした。さっきの「はい」が、喉の奥でまだ情けない。
ダグロスは帳簿を開き、蝋の印を指でなぞった。交易伯の紋と、監察官の署名が並んでいる。
「これで、潰せる」
それだけ言って、彼は帳簿を閉じた。音が、木の納屋に小さく響いた。
モティングは頭を下げた。
「……俺のせいで」
「生きて帰った」ダグロスは短く遮った。「次は、息を止めろ」
デラックが藁の上に布を敷き、指で十を作った。
「今から、十息寝ろ。目を閉じるだけでいい。起きたら、覚えた道を言え」
眠気が、ようやく味方に見えた。モティングは頷き、藁の匂いの中で瞼を落とした。
復讐は、叫ばなくても進む。鍋の湯気みたいに、静かに、確実に。




