第1話 眠気には勝てなくて
冬の夜更け、モティングは夜勤先の裏口を出た。吐く息が白く、制服の襟から冷気が潜り込む。信号の向こうのコンビニの光まで行けば、温かい缶で目を覚ませる――そう考えた。
信号は赤。車の流れが途切れ、街が静まり返る。足元の雪は踏まれて固い。モティングは立ち止まったまま、リュックの重さに体を預けた。
「青になったら渡って……」
言葉が途中で溶けた。胸の奥がふわりと軽くなり、視界の端が薄紙みたいにめくれる。眠気が、壁のように背中を押してくる。頭の片隅が「ここで寝るな」と叫ぶのに、膝が勝手に折れた。
雪に倒れる瞬間、どこかで紐が張る音を聞いた気がした。
――カン、カン、カン。
警鐘。冷えた空気の中で、はっきり鳴った。
モティングは、ぱちりと目を開けた。
鼻先を霧が流れていた。湿った木の匂い。低い天井の丸太小屋。棚には革手袋と油瓶、刃の欠けた鍬。窓の外は真っ暗なのに、遠くで青白い光が揺れている。
そして自分の右手が、太い麻縄を握っていた。壁穴から外へ伸びる、警鐘の紐だ。
胸元には見慣れない木札がぶら下がっている。乱暴な字。
《森の番士・臨時採用》
「……なに、これ」
扉が勢いよく開き、霧と冷気が流れ込んだ。入ってきたのは背の高い女。濡れた髪をまとめ、腰の革帯に短い剣と笛を下げている。
女は紐を見て、短く言った。
「鳴らしたな」
「え、俺……いや、寝て……」
「寝るな」
即答だった。怒鳴らないのに怖い。女は机の命令書を一瞥し、こちらへ一歩近づく。
「森の境だ。紐は命だ。誤報で皆が走る」
モティングは頷くしかなかった。ここがどこで、自分が何者扱いなのかも分からないのに、責められる理由だけは分かってしまう。
「……あなたは」
「ダグロス。隊長だ」
その直後、外で枝が折れる音がした。ダグロスの気配が変わる。窓の外、霧の向こうに影が揺れた。低い姿勢で近づく複数の影。囁き声。金属が擦れる音。
「密猟だ」
喉が乾いた。助けを呼ぶべきか。紐を鳴らせば、今度は本当の誤報じゃない。けれど鳴らせば敵にも気づかれる。
迷う間に、まぶたが落ちてきた。
――違う、今は寝るな。
思うのに、眠気が勝つ。世界が霧より濃くなる。口が勝手に動いた。
「……ぬけあな。獣道の……柵の割れ……南」
ダグロスが振り向いた。
「今、何て言った」
次の瞬間、意識が沈み、暗い根の下で誰かの声が淡々と囁いた。
――柵の割れ目。獣道の抜け穴。回り込め。
扉を叩く音で、モティングは跳ね起きた。息を切らしながら、夢の言葉をそのまま吐き出す。
「柵の割れ、南。獣道の抜け穴」
ダグロスは迷わず床板を蹴った。ぎし、と外れた板の下に小さな隙間。さらに壁の下部の木栓を抜くと、獣が通るほどの脱出口が開いた。
「先に出ろ」
モティングは腹を擦りながら穴をくぐり、湿った苔に手をついた。外の霧は冷たいのに、見張り小屋の中より息がしやすい。
正面には密猟者が三人。扉を叩きながら笑っている。
「番士、寝てんぞ」
ダグロスは笛を短く吹いた。鳥の声みたいな澄んだ音。霧の奥から返事が二つ、三つ。森の影が動き、密猟者の背後へ回り込む。
短い衝突だった。縄が飛び、誰かが倒れ、弓が雪に落ちた。ダグロスの鞘が手首を打ち、密猟者の顔が歪む。番士たちが霧から現れ、三人は膝をついた。
霧から出てきた番士の一人が、モティングを見て笑った。
「臨時さん、寝言で道案内か。変わった才能だな」
褒めているのか呆れているのか分からない。モティングは頬が熱くなり、言い返す言葉を探しているうちに、また欠伸が出そうになって慌てて噛み殺した。
「隊長……俺、知らないのに言いました。抜け穴のこと」
ダグロスは警鐘の紐を見てから、モティングを見る。
「知らないのに言えたなら、森が教えた」
短い言葉が、なぜか温かい。
「寝るな。けど、寝たなら、起きろ。言え」
命令なのに、背中を支えられた気がした。モティングは喉の奥で笑いそうになり、慌てて真面目な声を作る。
「……はい。できるだけ」
ダグロスの指が額を軽く弾いた。
「できるだけ、じゃない」
痛みは小さい。けれど、その一発で、霧の中の世界が少しだけ現実になった。
そのとき、森の奥で、地面の下を転がるような低い震えが走った。冷たいはずの空気の中に、火の吐息みたいな温い風が混じる。番士たちが一斉に顔を上げ、霧の向こうを見た。
ダグロスは剣の柄に手を置いたまま、短く言った。
「……帰る。報告だ」
モティングは胸の木札を握りしめた。静かに慎み深く暮らしたいのに、どうしてここにいる。答えはない。だが一つだけ分かった。
眠りの底には、誰かの道しるべが眠っている。




